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式神の道満、主に術の実験台にされる

屋敷の一角は静まり返っていた。整えられた床、整えられた結界線、そして整えられた符の配置。

その中心に、人型をした変わらぬ姿でこはくが佇んでいた。

 

ただ、いつもと違うのは、その手元で術式が構築の途中にあったことだ。

空間に細い線が浮き上がっている。それは符でも札でもなく、構造そのものだった。道満は召喚されて早々、その光景を見て、最初に一言だけ言葉を落とした。

 

「……嫌な予感がするな」

 

こはくは返事をせず、代わりに空中へもう一つ線を足す。それだけで、部屋の空気が一段階変質した。道満は数秒黙り込み、ゆっくりと視線を上げる。まだこの主の底は見えないが、その指先が紡ぐ呪力の密度は、明らかに常軌を逸していた。

 

「それは何だ」

 

当然のように無視され、こはくはさらに術を組んでいく。それは攻撃でも防御でも封印でもない、分類不能の術式だった。道満は眉をわずかに動かす。

 

「……またか。お前のそれは毎回、実験としか言いようがないな」

 

低く吐き捨てた瞬間、空間が確定して術が発動した。道満の身体に、何かが重なる。

それは縄でも拘束でもなく、ただ「状態」が書き換わる感覚だった。

 

「……は?」

 

視線を落とすと、動けるはずなのに動かない。正確には「動く必要がない状態」に固定され、立っている理由そのものが、世界の理から消去されていた。

 

なるほど、ただ縛るのではなく、存在の根底を書き換える術か。道満の目が、冷徹な呪術師のものへと細められる。

 

「舐められたものだな。この程度の縛りで、私が大人しく呪術の実験台になるとでも?」

 

声に苛立ちが混じるが、こはくは淡々と次の段階に進む。札も式神も使わず、完全に思考の延長で術を動かしていた。

そこで道満は気づく。


「なるほどな。私を頑丈な実験動物だとでも思っているわけだ」

 

少しだけ興味の温度が上がった次の瞬間、身体に軽い反転感が走り、視界が一瞬だけ裏返ってから戻った。道満は普通に立っているが、さっきとは状態が違っていた。呼吸が一拍ずれ、間がある。それは術の誤差ではなく、意図的な差分だった。

道満は数秒黙り、ゆっくりと口を開く。

 

「……これは」

 

こはくは何も言わないが、視線がほんのわずかに動いた。続けるか、という確認の代わりに。道満は一瞬だけ天井を見上げ、ため息を吐き出した。

 

「ふん、好きにしろ」

 

それは諦めでも許可でもない、ただの観測継続宣言、そして怪物同士の無言の対決の始まりだった。

そこからは、完全に実験の場となった。

 

反応を消す術、逆に反応だけ残す術、召喚状態の遷移、位置固定と意識の分離――すべてが道満の身体で試されていく。道満は途中から文句を言わなくなり、淡々とした指摘に変えていった。

 

「……またか」

「それはさっきやった。構造が同じだ、工夫が無い」

「そこは干渉しすぎだ。私の呪力が逆流して、お前の細い腕ごと吹き飛ぶぞ」

 

そうして観察を続けるうちに、道満は気づく。

 

(こいつ、遊んでいるな)

 

正確には遊びでも楽しみでもなく、確認作業の延長に好奇心が混じっているのだ。道満は軽く息を吐いた。

 

「おい、私は道具ではないぞ。手のかかる主だ」

 

術が一瞬だけ緩み、道満の身体が元の感覚に戻る。こはくは何も言わず、ただ次の術式を組み始め、道満はそれを見てほんの少しだけ目を細めた。

 

(……面倒だな)

 

そして、不敵に、楽しげに笑う。

 

「だが、退屈ではない」


 

最初の違和感は、ほんの些細なものだった。

反応が一拍ずれる。呼吸ではなく思考のほうが遅れる感覚に、道満は眉をひそめた。

 

「おい」

 

視線の先には、いつもの無言で佇むこはくがいる。その手元には、また新しい術式の途中があった。道満は小さく舌打ちをする。

 

「またか」

 

空間がわずかに薄くなり、立っている場所は変わらないのに距離感だけが狂っていった。道満が一歩踏み出すと、足音が半拍遅れて響く。

 

「……気持ち悪いな」

 

呟きながらも姿勢を崩さない道満に対し、こはくは何も言わない。術式が一つ更新されると、視界が少しだけ重くなった。

怒り、傲慢、皮肉、そういった道満を構成する「ギラギラとした熱」が、術式によって外側から削ぎ落とされていく。

 

「おい、これは何の調整だ。私から毒気を抜いて、扱いやすい座敷犬にでもするつもりか?」

 

術式が進行するにつれ、言葉を出すのが少し面倒になり、口は動くものの音が遅れて響いた。皮肉を言おうとしても、脳がその感情を立ち上げる前に、術式が先回りして「不要な余白」として削除していく。


「……は?」

 

いつもなら、こんな不躾な術をかけられれば、激昂して呪い殺していてもおかしくない。なのに、その「怒り」という回路自体が繋がらない。

道満の頭の中が、強制的に静寂に染まっていく。


(我が主)

 

そこにいる。ただ、それだけ。

その様子をじっと見つめていたこはくの指先が、一瞬、ぴくりと跳ねた。

いつも無表情なこはくの眉が、ほんの僅かに下がる。その瞳に浮かんだのは、「やりすぎた」という、子供のような微かな焦燥だった。

こはくがパッと手を引くと、術式が弾けて閉じ、空間が元の濃度に戻る。

 

「……っ」

 

すべてが元通りになったはずなのに、道満だけがその場に立ち尽くしたままだった。少しだけ疲れている。

道満はゆっくり目を閉じ、そして開いた。そこには、いつものギラギラとした怪物の光が戻っていた。

 

「……お前」

 

声はいつも通り出るが、そこにはまだ鋭さがない。道満は、自分の内側を覗かれたような奇妙な敗北感に、苦々しく眉をひそめた。

 

「今のは……成功か、失敗か。私の首輪を新調する実験なら、随分と趣味が悪い」

 

こはくは何も言わない。ただ、少しだけ気まずそうに、ほんの少しだけ視線を斜め下に落とした。その小さな反応を見て、道満はフッと息を漏らす。言葉はなくとも、主が今「悪かった」と思っていることくらいは、肌で伝わってきた。

 

道満はもう一度だけ息を吐いたが、いつもの痛烈な皮肉は出そうとしても途中で落ちてしまう。数秒の沈黙の後、道満は口を閉じ、抗うでも逃げるでもなく、静かに観測するようにこはくの赤い瞳を見つめた。

 

言葉を交わさずとも、互いの領域が少しずつ混ざり合っていく。離れる必要がないからこそその場を離れず、ただ主を見つめる道満の胸中には、一つの問いが静かに積もっていった。

 

(……まだ、変えるつもりか。この私を、どこまで書き換える気だ)

 

それは恐怖ではなく、得体の知れない期待に似ていた。


 

最初は、ただの実験だった。呼ばれて、出てきて、使われて、戻る。それだけの繰り返しだったが、回数が増えるほどに、二人の関係は「実験台と執刀医」から変質していった。

 

「……おい」

 

召喚された直後、屋敷の静かな一室で、道満は机の上の札と空間に浮かぶ未完成の術式を視線で追った。

無言のまま佇むこはくに対し、道満が「また形が違うな。術式の右翼側、呪力の流れが滞っているぞ」と告げると、こはくは反応しない代わりに、道満の指摘通りに術式の一部を書き換えた。

道満はすぐに目を細める。

 

「そこ、繋ぎが雑だ。流れは戻ったが、今度は強度が死んでいる。そんな密度の呪力を流せば、発動の瞬間に四散するぞ」

 

即断して当然のように言うと、こはくは作業を止めず、そのまま指先で修正を入れる。道満は一拍置いた。

 

「……聞いているのか?」

 

返事はないが、修正だけは確実に入る。

いつの間にか、それが二人の日常になっていた。召喚されて術を見、道満が文句を言うと修正が入る。その流れのなかで、道満は気づく。

 

(これは……会話だな)

 

ただし、言葉ではない。互いの呪力と知識の殴り合い、そして擦り合わせ。

「そこは逆だ」「順番が違う」「その構造は持たん」と、道満の口調には皮肉も混ざるが、こはくは最初から道満に直される前提で、わざと余白を残して術を組むようになっていた。

 

「最初から私に直される気で作るな。甘えるな、我が主」

 

こはくは無言のまま、嬉しそうに次の術を置いた。

 

ある日、道満は珍しく手を止めた。目の前の術式は完成に近いが、あと一つ何かが足りずに完成しない。こはくも、どう進めるべきか指先を止めて迷っているようだった。

 

「……これ、誰の発想だ。既存の陰陽道にも、私の知る外法にもない」

 

道満が呟くと、こはくは動かなかったが、空間の呪力がわずかに揺れて「自分の発想だ」と肯定した。道満は大きく息を吐く。

 

「なら、こうだ。私の呪力をここにくべろ」

 

筆も使わず指先で術式をなぞり、自身のどす黒い呪力を一滴、こはくの構築に混ぜ合わせる。その瞬間、空間が一段深く変わり、歪だった術式が完璧な歯車のように噛み合った。

 

こはくが初めて、弾かれたように顔を上げ、道満をじっと見つめた。その赤い瞳が、驚きと、純粋な知的好奇心に輝いている。道満はそれを見逃さなかった。

 

(今、私を見ているな)

 

ただの便利な道具としてではなく、対等に呪術の深淵を歩む相手として、主が自分を認識した瞬間だった。道満の胸に、かつてない歪な充足感が満ちていく。

 

いつしか関係は変わり、召喚者と式神でも主従でもない、もっと雑で危険な、互いの才を削り出す関係になっていった。

こはくが術を出し、道満が崩し、こはくが組み直し、道満が足す。


道満は昔から探究が嫌いではない、むしろ本質はそこにある。ただし以前は勝つための探究であり、今は違っていた。ただ、この底の知れない主の頭の中を、もっと見たい。

 

「おい。これ、まだ未完成だろ」

 

召喚直後、こはくが無言で難解な術を出すと、道満は笑う。

 

「なら、続きをやるぞ。私を退屈させるなよ、我が主」

 

皮肉でも命令でもない、信頼に満ちた言葉だった。

こはくの術式の気配が、僅かに弾むように濃くなる。道満はそれを見て静かに目を細めた。

 

(……やはり、こいつは退屈しない)

 

技術を通して繋がった二人の絆は、もう誰にも邪魔できない。召喚が解かれた後に残るのは、いつも、二人だけの未完成の「続き」だった。

 

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