式神の道満、主に術の実験台にされる
断片集になります。
■ 断片:実験(式神適性あり)
屋敷の一角は静まり返っていた。静かすぎて、逆に嫌な気配を孕んでいる種類の静けさだ。整えられた床、整えられた結界線、そして整えられた符の配置。
その中心に、人型をした変わらぬ姿でこはくが佇んでいた。
ただ、いつもと違うのは、その手元で術式が構築の途中にあったことだ。
空間に細い線が浮き上がっている。それは符でも札でもなく、構造そのものだった。道満はそれを見て、最初に一言だけ言葉を落とした。
「……嫌な予感がするな」
こはくは返事をせず、代わりに空中へもう一つ線を足す。それだけで、部屋の空気が一段階変質した。道満は数秒黙り込み、ゆっくりと視線を上げる。
「それは何だ」
当然のように無視され、こはくはさらに術を組んでいく。それは攻撃でも防御でも封印でもない、分類不能の術式だった。道満は眉をわずかに動かす。
「……またか。お前のそれは毎回、実験としか言いようがないな」
低く吐き捨てた瞬間、空間が確定して術が発動した。道満の身体に、何かが重なる。
それは縄でも拘束でもなく、ただ「状態」が書き換わる感覚だった。道満は一瞬だけ沈黙する。
「……は?」
視線を落とすと、動けるはずなのに動かない。正確には「動く必要がない状態」に固定され、立っている理由そのものが消えていた。道満はゆっくり息を吐く。
「何をした」
こはくは答えず、もう一層の術式を重ねた。今度は視界が変わり、空間の距離感が狂って床が遠くなる。身体はそのままで天井が近づく感覚に、道満は軽く目を細めた。
「……おい。説明しろ」
声に苛立ちが混じるが、こはくは淡々と次の段階に進む。札も式神も使わず、完全に思考の延長で術を動かしていた。
そこで道満は気づく。
(これ、私を前提に組んでいるな)
つまり、道満がいるからこそ成立する術なのだ。試行ではなく前提条件であることに気づき、道満は小さく笑った。
「ふん、なるほどな」
少しだけ興味の温度が上がった次の瞬間、身体に軽い反転感が走り、視界が一瞬だけ裏返ってから戻った。道満は普通に立っているが、さっきとは状態が違っていた。呼吸が一拍ずれ、間がある。それは術の誤差ではなく、意図的な差分だった。
道満は数秒黙り、ゆっくりと口を開く。
「……これは」
こはくは何も言わないが、視線がほんのわずかに動いた。続けるか、という確認の代わりに。道満は一瞬だけ天井を見上げ、ため息を吐き出した。
「好きにしろ」
それは諦めでも許可でもない、ただの観測継続宣言だった。そこからは、完全に実験の場となった。
反応を消す術、逆に反応だけ残す術、召喚状態の遷移テスト、位置固定と意識の分離――すべてが道満の身体で試されていく。道満は途中から文句を言わなくなり、淡々とした指摘に変えていった。
「……またか」
「それはさっきやった」
「そこは干渉しすぎだ」
そうして観察を続けるうちに、道満は気づく。
(こいつ、遊んでいるな)
正確には遊びでも楽しみでもなく、確認作業の延長に好奇心が混じっているのだ。道満は軽く息を吐いた。
「おい、私は道具ではないぞ」
術が一瞬だけ緩み、道満の身体が元の感覚に戻る。こはくは何も言わず、ただ次の術式を組み始め、道満はそれを見てほんの少しだけ目を細めた。
(……面倒だな)
そして、軽く笑う。
「だが、退屈ではない」
■ 断片:試行(失敗判定未確定)
最初の違和感は、ほんの些細なものだった。
「……ん?」
道満は自分の手を見下ろした。問題なく動くし、術の気配もあり、体も軽い。だが――。
「……少し、遅いな」
反応が一拍ずれる。呼吸ではなく思考のほうが遅れる感覚に、道満は眉をひそめた。
「おい」
視線の先には、いつもの無言で佇むこはくがいる。その手元には、また新しい術式の途中があった。道満は小さく舌打ちをする。
「またか」
空間がわずかに薄くなり、立っている場所は変わらないのに距離感だけが狂っていった。道満が一歩踏み出すと、足音が半拍遅れて響く。
「……気持ち悪いな」
呟きながらも姿勢を崩さない道満に対し、こはくは何も言わない。術式が一つ更新されると、視界が少しだけ重くなった。色が変わるわけでも暗くなるわけでもなく、ただ「意味」が減っていく。道満は周囲を見回した。
「おい、これは何の調整だ」
返事の代わりに身体の軽さが抜け、疲労でも負荷でもない「余白の削除」が行われていく。言葉を出すのが少し面倒になり、口は動くものの音が遅れて響いた。
「……おい、説明しろ」
その間にこはくが次の術を重ねると、道満の姿勢は変わらないのに、重心だけがわずかに下に落ちた。
「……は?」
違和感が積み重なり、思考が途切れないのではなく繋がらなくなっていく。怒りが湧く前に消え、皮肉が完成する前に落ちる。道満は口を開いた。
「……いい加減にしろ」
だが、その声はさっきよりも弱かった。こはくは止めず、むしろ淡々ともう一段階進める。身体は軽いのに動く気がしないという矛盾のなかで、動けるはずなのに動かない状態が続く。
道満は数秒間黙り込んだ。
「……何をしている」
声はまだ出るが、そこには熱がなかった。
視界の端が静かになり、余計なものが消えていく。怒りも、退屈も、焦りも消え、残るのは単純な認識だけだった。
(我が主)
そこにいる、それだけ。
道満は一度だけ深く息を吐いた。
「……これは」
言いかけて止まり、もう言葉は続かなかった。
ここでこはくが手を止めると、術式が閉じて空間が元に戻る。すべてが元通りになったはずなのに、道満だけがその場に立ち尽くしたままだった。少しだけ疲れている。いや、正確には消耗したまま固定されているのだ。
道満はゆっくり目を閉じ、そして開いた。
「……お前」
声はいつも通り出るが、そこには鋭さがない。
「今のは……成功か、失敗か」
こはくは何も言わない。道満はもう一度だけ息を吐いたが、いつもの皮肉は出そうとしても途中で落ちてしまう。数秒の沈黙の後、道満は口を閉じ、抗うでも逃げるでもなく、静かに観測するようにこはくの赤い瞳を見つめた。
こはくは変わらないが、道満だけが少し整えられたまま崩れない状態でそこに残っている。離れる必要がないからこそその場を離れず、ただ主を見つめる道満の胸中には、一つの思いだけが静かに積もっていった。
(……まだ、変えるつもりか)
■ 変化:共同での削り出し
最初は、ただの実験だった。呼ばれて、出てきて、使われて、戻る。それだけの繰り返しだったが、回数が増えるほどに道満は気づいていく。
「……おい」
召喚された直後、まだ戦場でもない屋敷の静かな一室で、道満は机の上の札と空間に浮かぶ未完成の術式を視線で追った。無言のまま佇むこはくに対し、道満が「また形が違うな」と告げると、こはくは反応しない代わりに術式の一部を書き換えた。道満はすぐに目を細める。
「そこ、繋ぎが雑だ。流れが死んでいる」
即断して当然のように言うと、こはくは作業を止めず、そのまま指先で修正を入れる。道満は一拍置いた。
「……聞いているのか?」
返事はないが、修正だけは確実に入る。
いつの間にか、それが二人の日常になっていた。召喚されて術を見、文句を言うと修正が入る。その流れのなかで、道満は気づく。
(これは……会話だな)
ただし、言葉ではない。
「そこは逆だ」「順番が違う」「その構造は持たん」と、道満の口調には皮肉も混ざるが、こはくは最初から修正する前提で術を組むようになっていた。まるで答え合わせを用意しているかのような主の態度に、道満は小さく舌打ちをする。
「最初から直す気で作るな」
こはくは無言のまま、次の術を置いた。
ある日、道満は珍しく手を止めた。目の前の術式は完成に近いが、あと一つ何かが足りずに完成しない。
「……これ、誰の発想だ」
道満が呟くと、こはくは動かなかったが、空間がわずかに反応して自分の発想だと肯定した。道満は息を吐く。
「なら、こうだ」
筆も使わず指先で術式をなぞると、空間が一段深く変わった。こはくが初めて、ほんのわずかに見ている角度を変える。道満はそれを見逃さなかった。
(今、見ているな)
いつしか関係は変わり、召喚者と式神でも主従でもない、もっと雑で危険なものになっていった。
こはくが術を出し、道満が崩し、こはくが組み直し、道満が足す。その様子を一度だけ目撃した閻魔が「これ、研究じゃん」と呟いたが、誰もそれを否定しなかった。
道満は昔から探究が嫌いではないし、むしろ本質はそこにある。ただし以前は勝つための探究であり、今は違っていた。
「おい。これ、まだ未完成だろ」
召喚直後、こはくが無言で術を出すと、道満は笑う。
「なら、続きをやるぞ」
皮肉でも命令でもない、提案に近い言葉だった。
ある実験の最中、術が暴発しかけて空間が歪み、屋敷の一部が別の層にずれ込んだ。術者たちが慌てふためくなかで、道満だけは動かなかった。
「止めるな。今のは正しい方向だ」
短く告げると、こはくは一瞬だけ手を止め、そして修正をしないまま術を続けた。道満は気づく。
(これはもう命令じゃない、確認だ)
こはくは道満を試しており、道満もまた、こはくを試している。
皮肉屋と無言の神格。だがその実態は、共同で未知を削り出している二人だった。
ある召喚の終わり際、道満はふと呟いた。
「おい、次はもう少し難しいのを持ってこい」
こはくは何も言わなかったが、術式の気配だけがわずかに濃くなる。道満はそれを見て静かに目を細めた。
(……やはり、こいつは退屈しない)
そうして召喚が解かれた後に残るのは、いつも未完成の「続き」だけだった。




