式神になるということ
断片集になります。
■ 断片:消滅は無縁
斬撃は、音よりも先に届いていた。
正確には「届いた」という感覚すら曖昧なほどで、視界が一度だけ白く跳ねた直後には、道満の身体は崩れ落ちるように膝を折っていた。
黒い炎を繰り出す余裕もなければ、符を切る判断すら遅い。ただ、圧倒的な結果だけがそこに転がっていた。
(……ここまでか)
それは妙に静かな認識だった。式神としての身体は痛みを「解釈」しないため、致命の手応えすらも、ただのシステム上の終端処理に近い。
視界の端ではまだ敵の気配が動いていたが、もう彼には関係のないことだった。
(まあいい)
どこか投げやりに、思考が明滅する。
(少しは……興味が出てきたところだったがな)
こはく。あの赤い瞳をした、反応のない存在。
その断片だけが妙に名残惜しく脳裏に残り、道満はゆっくりと目を閉じた。戦闘の喧騒が遠のいていく。黒炎も符も、もう何も届かない深い距離へと彼は落ちていった。
(退屈は……少しだけ、紛れた)
それだけを最後に思い残して、彼の意識は途切れた。
冷たい。
最初に戻ってきたのは感覚ではなく、自らの「配置」だった。
拘束、縄、そして符。
それは逃れられない形を成した束縛だった。目を開けると、そこはやはりいつもの場所――壁一面に貼り付けられた護符が淡く脈打つように光る、洞窟のような影の牢だった。
そこから伸びる禍々しい縄が道満の身体を固定していたが、彼は即座に奇妙な違和感を覚える。
(……傷がない)
先ほどの凄絶な斬撃の痕跡が、どこにも残っていないのだ。術式の崩壊も消滅の痕もなく、ただ「死にかけた」という記憶だけが、綺麗に切り取られたように存在している。
道満がゆっくりと視線を上げると、そこには人型のままのこはくが、いつもと変わらぬ姿で佇んでいた。距離は近いはずなのに、その「近い」という概念すら意味を持たないほど、空間そのものが厳格に整えられている。
しばらくの沈黙のなか、縄が軋む音だけが寂々と響いた。やがて、道満は低く息を吐く。
「……逃げられないわけか」
皮肉の形をしてはいたが、その声はいつもより静かだった。彼は視線を逸らそうとはせず、また逸らす必要もなかった。
「それとも」
わずかに口の端を吊り上げる。
「逃がす気がないのか」
こはくは答えない。ただそこにいる。その無言こそが、この空間の絶対的なルールだとでも言うように。
道満は少しだけ目を細めた。
(……戻ってきている)
それは理解ではなく、確かな実感だった。戦場から完全に切り離されたはずの自分が、またこの場所に引き戻されている。そしてその事実に、妙な安堵を覚えている自分もいた。
縄の強度を試すように軽く腕を動かしてみるが、当然のようにびくともしない。それでも焦ることはなく、むしろ軽く息を吐き出した。
「ふん。まあいい」
視線をこはくへと戻し、ほんのわずかに目を細める。
「少なくとも、退屈の続きはあるらしい」
安心に近いものが、胸の奥に静かに沈んでいく。
(まだ、ここにいられる)
その思いが、再び皮肉の形を借りて言葉になった。
「……次はもう少し、まともに壊してみろ」
縄に縛られたまま不敵に告げる道満の前で、こはくは動かない。影の牢は、変わらずただ静謐に満ちていた。
縄の軋む音は、最初から鳴っていたかのように静かに空間に溶けていた。光はあるものの「明るさ」という概念が極めて薄いその場所で、道満は目を開けたまま、己の身体をもう一度確認する。
傷はなく、裂かれた感覚もない。それなのに、確かに「途切れた」という記憶だけが鮮明に残っている。
(……死に戻り、ではないな)
彼は即座にその可能性を否定した。人間の枠組みであればその一言で説明が済むが、これは違う。戻されたのではなく、ただ「続きとして再配置された」のだ。
道満はゆっくりと息を吐き、視線を上げた。こはくはそこにいる。変わらず、揺らがず、人の形をしていながら人の時間を生きていない。
道満はしばしの沈黙ののち、低く笑った。
「……なるほどな。人間の理屈じゃないわけか」
空間の反応に呼応するように、縄が小さく鳴る。道満はそれを気にする風もなく、むしろ納得したように目を細めた。
(死んで終わるものではない。壊れて消えるものでもない。……これは、「扱われる前提の形」か)
そこに至って、ようやく少しだけ理解が進む。自分はもう、死ぬ側の存在ではないのだ。
「ふん、面倒な主を持ったものだ」
それは不満ではなく、冷徹な分類の結果だった。こはくは答えないが、その無言そのものが何よりの説明になっている。道満は視線を逸らさないまま、静かに言葉を続けた。
「ならいい、もう人間のつもりで測るのはやめる。その方が分かりやすい」
縄に軽く寄りかかるように体重を預けるその姿は、不自由でありながら、どこかひどく落ち着いていた。
「……退屈もしない」
■ 断片:現代祓魔・誤認
夜の街は、気味が悪いほどに静まり返り、整然としていた。
街灯やアスファルト、ビルの窓明かりが規則正しく並ぶ中、人の気配だけが不自然に途切れている。だがその中心に、ひとつだけ空間が歪んだように「揺れている場所」があり、祓い屋の一団はそこを厳重に取り囲んでいた。
展開される術式、形成される結界。現代式と古式が入り混じった、対異形戦用の強固な陣が敷かれていく。
「対象確認……強いぞ、これ」
「人型だが、完全に規格外だ」
誰かが緊張に声を震わせる。その陣の中心に立っていたのは、こはくだった。
白い着物に、妖しく光る赤い瞳。ただそこに佇んでいるだけだというのに、周囲の空間が目に見えて歪んでいく。祓い屋の一人が思わず喉を鳴らした。
「……神格級か?」
「やるしかない」
別の者が意を決して札を構えた、その瞬間だった。
こはくが、わずかに手を上げる。何かを投げたわけでも、印を結んだわけでもない。ただ、その場に「呼んだ」のだ。
たちまち空間が裂け、どろりとした影が落ちる。祓い屋たちが張り巡らせた陣の内側に、突如として異質な気配が立った。
黒い影がまたたく間に人の形を成していく。肩に届く黒髪、陰陽の装束、そして揺らぐ不穏な炎の気配。
「……は?」
呆然とした声が漏れる。現れた男は、周囲を取り囲む面々を一瞥すると、心底退屈そうに低く息を吐いた。
「……またか」
その声音は軽かったが、信じられないほど底が重い。一瞬にして空気が凍りつき、祓い屋の一人が目を見開く。
「この術式……まさか、芦屋の残滓か!? いや、これは――」
言葉が途切れたのは、影の男がゆっくりと首を傾げたからだ。
「芦屋?」
男は小さく復唱し、わずかに目を細める。
「……なるほどな」
その姿を見た祓い屋の古参が、恐怖に顔を引き攣らせて一歩下がった。
「間違いない……これは、道満だ」
戦慄が走る。別の者が悲鳴のように叫んだ。
「芦屋道満!? 生きているわけが――いや、式神か!」
跳ね上がる緊張感の中、構えが目まぐるしく変わっていく。そんな彼らを見下ろしながら、道満は愉しげに、静かに笑った。
「ほう、後世に名が残っているのだな」
「知っているのか……?」
怯える問いかけに、道満は視線だけを向けた。
「知っているも何も、使われている側だ」
圧倒的な沈黙が場を支配する。その瞬間、祓い屋たちはようやく最悪の事実に思い至った。目の前にいる「道満」は、味方ではないのは当然として、単なる敵ですらない。もっと質の悪い――「すでに誰かに完全に従属している存在」なのだと。
その背後で、こはくは微動だにせず佇んでいる。道満は軽く肩を回しながら、目の前の祓い屋たちへ視線を投げた。
「で? 潰すのか、帰るのか。どちらでもいいが……退屈しない方にしてくれ」
その言葉に祓い屋の陣が大きく揺らぎ、即座に撤退の判断が駆け巡る。
「撤退! 対象は上位異形級、接触危険!」
「道満は確認済み、封印級以上――!」
混乱が極まる中で、誰かが最後に絞り出すような一言を漏らした。
「……なぜ、こんなものが従っている?」
その問いに、主であるこはくが答えることはない。代わりに道満が、ほんの少しだけ視線を背後に向けた。そこには相変わらず何も言わず、ただ佇んでいるこはくがいる。
道満は、短く鼻で笑った。
「理由は単純だ。勝った方がそうだった、それだけだろう」
次の瞬間、戦闘は一方的に崩壊し始める。だが、そんなことは道満の興味の範疇ではなかった。彼が見ているのはただ一つ。
(……この退屈の中で、少しはマシな「呼び方」だな)
こはくは変わらない。それでも道満は、呼び出された式神として、その場に傲然と立ち続けるのだった。




