第23話:ただの午後
魔法がなくなってから、3ヶ月が経った。
世界は、思ったより速く動いた。
最初の1週間は混乱した。
火が起こせない、水が汲めない、傷が治らないと騒いだ人間が、次の週には火打ち石を使いこなし、井戸に列を作り、薬草の使い方を覚え始めた。
人間は、追い詰められると動く。
勇者たちを見てきた俺には、よく分かる。
追い詰められなければ動かないのも、よく分かる。
王都では、カイルとジュリアンが中心になって、魔法のない生活の整備を進めていた。
魔導院は「生活技術院」として生まれ変わり、毎日大勢の人間が出入りしていた。
魔族たちも、少しずつ人間の街に溶け込み始めていた。
農業を始めた元幹部の話は、なぜか街で評判になっていた。
魔王は、静かな山の麓に居を構えた。
魔族の相談窓口を開いているらしい。
1日中、部下たちの「これからどうすればいいか」を聞き続けているという話を、ヴェラから聞いた。
「……相変わらず、ワンオペですね」
俺が言うと、ヴェラは少し笑った。
「ええ。ただ、本人は嫌ではないようです。自分で選んだことですから」
それは、大事なことだ。
温泉宿は、相変わらず静かだった。
朝、鳥の声で目を覚ます。
廊下に死体は転がっていない。
食堂に行けば、飯が温かい。
茶を淹れる。
ただそれだけの朝が、今日も続いている。
手が、祈りの形を作ることは、もうなかった。
正確には、たまに作りかけて、自分で止める。
癖は、まだ完全には抜けていない。
だが、止められるようになった。
それで十分だった。
ヴェラは縁側で書類を広げていた。
誰に頼まれたわけでもない書類だ。
新しい世界の記録。
魔法がなくなった後の、人間と魔族の動向。
彼女は記録することをやめなかった。
それが、彼女の「休日」なのだろう。
俺は湯気の立つ茶を啜りながら、山の稜線を眺めた。
何もしなくていい。
誰も死んでいない。
誰も俺を呼ばない。
これが、休日だ。
昼過ぎ。
宿の門を叩く音がした。
宿の主人が対応した。
しばらくして、主人が困った顔で縁側に来た。
「……お客様です。アルヴィン様に、どうしてもお会いしたいと」
「俺に会いたい人間は、基本的にお断りしています」
「はあ。それが……」
主人が言い淀んだ。
俺は溜息をついて、立ち上がった。
門の前に、1人の男が立っていた。
丸く肥えた体。
脂でてかる顔。
だが、かつての傲慢さは、どこにも残っていなかった。
目の下に、濃い隈がある。
服は皺だらけで、靴は泥に汚れていた。
大司教、ボナパルトだった。
俺を見た瞬間、ボナパルトは深く頭を下げた。
「……アルヴィン。頼む。戻ってきてくれ」
俺は黙って、続きを待った。
「魔法がなくなってから、何もかもが回らなくなった。治癒も、浄化も、祈りも。王族は毎日怒鳴り込んでくる。勇者たちは文句を言う。俺1人では、もう……」
ボナパルトの声が、震えていた。
怒りではない。
疲弊だ。
骨の髄まで疲れ果てた人間の声だ。
俺は、その顔を見た。
かつて俺を「現場に立つ必要がないからこそ上にいる」と言い放った男。
俺が20年間かけて溜め込んだ怒りの、一番大きな標的だった男。
今、その男は、俺と同じ顔をしていた。
疲れ果てた、磨り減った顔だ。
「……断ります」
俺は言った。
「な、なぜだ! お前しかいないんだ! お前が戻れば……」
「俺が戻れば、あなたはまた何もしなくなります。それでは何も変わらない」
ボナパルトが、言葉を失った。
「カイルとジュリアンがいます。彼らを頼ってください。魔法のない世界の動かし方を、彼らは知っています」
「……だが、俺は……」
「あなたがやるべきことは、彼らの邪魔をしないことです。それだけで十分です」
ボナパルトは、しばらく俺を見ていた。
それから、力なく肩を落とした。
俺は少し考えた。
それから、言った。
「……せっかく遠くから来たんです。ゆっくり温泉でも入って、お茶でも飲んでいきませんか」
ボナパルトが、ぽかんとした顔で俺を見た。
「……お前が、俺に、温泉を勧めるのか」
「疲れているでしょう。温かい湯に浸かれば、少し楽になります」
「……俺は、お前に散々ひどいことを……」
「知っています」
俺は遮った。
「それでも、か」
「疲れた人間には、温泉です。それだけのことです」
ボナパルトは、長い間黙っていた。
目が、じわりと赤くなった。
泣くのかと思った。
だが、泣かなかった。
ただ、深く息を吐いた。
「……一杯だけ、いただこうか」
「どうぞ」
縁側に、三人分の茶が並んだ。
俺、ヴェラ、そしてボナパルト。
ボナパルトは、茶を一口飲んで、黙った。
それから、また一口飲んだ。
何も言わなかった。
山の稜線が、夕陽に染まっていく。
遠くで、誰かが「アーメン」と言った。
感謝の言葉として。
ただの、言葉として。
ボナパルトが、その声を聞いて、小さく呟いた。
「……アーメン」
俺は、それを聞いた。
何も言わなかった。
ただ、茶を啜った。
温かい。
静かだ。
誰も俺を呼ばない。
これが、休日だ。
ようやく、本当の意味で。
■ ヴェラの観察ログ
最終記録です。アルヴィン様は今日、大司教ボナパルトに温泉と茶を勧めました。慈悲ではなく、怒りでもなく、ただ「疲れた人間には温泉」という、20年間の結論として。アルヴィン様の手は、今日一度も祈りの形を作りませんでした。初めてのことです。……これ以降の記録は、必要ないかもしれません。ただの午後が、続いていくだけですから。記録を、ここで終わります。
この23話でこの作品は完結です。
ここまでお読みいただいた皆様ありがとうございました!




