第22話:最後の業務
転移の暗転が、明けた。
温泉宿の縁側だった。
ヴェラが隣に立っている。
山の稜線が、朝の光の中で静かに浮かんでいる。
俺は空気を確認した。
軽い。
王都の煤の残滓も、神の魔力の重さも、何もない。
ただの、朝の空気だ。
「……変わりましたね」
ヴェラが静かに言った。
「ええ」
その瞬間だった。
世界が、一度だけ震えた。
地震ではない。
音もない。
ただ、空気の質が、一瞬で変わった。
山の向こうで、何かが消えた。
俺には分かった。
魔力の流れが、止まった。
何百年も世界を満たしていた、神の魔力の供給が、今この瞬間に終わった。
遠くで、誰かの叫び声が聞こえた。
王都の方向だ。
おそらく、魔法を唱えた瞬間に何も起きなくて、慌てている人間がいるのだろう。
「……始まりましたね」
「ええ。面倒なことになりそうですが」
「あとはカイル様とジュリアン様が動きます。私が段取りをつけてありますので」
俺はヴェラを見た。
「……いつ、そんなことを」
「神との話し合いの前に、念のため。あなたが何とかするだろうと思っていましたので、その後の段取りだけ先に」
俺は溜息をついた。
仕事が速い。
「……ありがとうございます」
「当然です。これが最後の業務ですから、完璧に終わらせます」
その日、王都では混乱が起きていた。
朝から魔法が使えなくなった、という報告が次々と届いた。
治癒魔法が効かない。
火を起こす魔法が出ない。
空間転移ができない。
街灯が消えた。
井戸の水くみ魔法が止まった。
だが、不思議なことに、大きな被害は出なかった。
カイルが朝から街を回り、混乱する人々に声をかけていた。
「大丈夫です。魔法がなくても、火は火打ち石で起こせます。水は手で汲めます。治癒は薬草で代用できます。……やり方を、一緒に覚えましょう」
カイルの声は、穏やかだった。
かつての「空洞の目」は、もうない。
行き先を持った光が、静かに燃えていた。
ジュリアンは王立魔導院で、魔法に頼らない生活技術の講習を始めていた。
魔導院の精鋭たちが、火の起こし方を真剣に学んでいる。
その光景は、どこか滑稽だったが、誰も笑わなかった。
時々、癖で魔法を唱えてしまう者がいた。
「ファイヤーボール」と叫んで、何も起きなくて、きまり悪そうに咳払いをする騎士がいた。
「ヒール」と唱えて、傷が塞がらなくて、慌てて薬草を探す神官がいた。
そういう時、周りの人間が笑った。
怒りでも嘲笑でもない。
同じことをやってしまった者同士の、乾いた笑いだった。
そして誰かが言った。
「……アーメン」
感謝の言葉として。
朝食の前に。
誰かに助けてもらった時に。
一日が終わる時に。
それはいつの間にか、街中に広がっていた。
祈りではなく、ただの言葉として。
神への供給ではなく、ただの感謝として。
魔王軍の野営地。
魔王は部下たちと向き合っていた。
一人ずつ、話し合っていた。
これからどこで生きるか。
何をするか。
魔族として、この世界でどう在るか。
「……俺は、農業をやってみたいと思っている」
古参の幹部が、ぼそりと言った。
誰もが黙った。
それから、一人が吹き出した。
「農業って……あんた、何百年も戦ってきたのに」
「だから、やってみたいんだ。やったことのないことを」
笑いが広がった。
魔王は、その笑いを黙って聞いていた。
怒号が飛び交っていた軍議とは、全く違う音だった。
魔王は空を見上げた。
神の魔力が消えた空は、以前より少し、透き通って見えた。
(……ヴェラ。お前は相変わらず、先回りして動いているな)
魔王はそう思ったが、口には出さなかった。
温泉宿。
俺はカイルを呼んだ。
地下の部屋ではなく、縁側に座らせた。
山の景色が見える場所だ。
「……話があると言っていましたね」
カイルが、少し緊張した様子で言った。
「ええ」
俺は茶を啜った。
「魔法がなくなりました。俺の仕事は、もう必要ありません。……あなたの仕事も、変わります」
「……はい」
「これからどうしたいか、考えましたか」
カイルは少しの間黙っていた。
山の稜線を見ていた。
「……王都に残ります。魔法がなくなって、困っている人がいる。カイルが必要だとかではなく、……ただ、いたいと思っています」
「俺に言われたからではなく?」
「……はい。自分で、そうしたいと思っています」
俺は頷いた。
「分かりました。……ただし、無理はしないでください。倒れても、もう俺は助けに行きません」
「……はい」
「あと、たまには休んでください。休み方が分からなければ、温泉に来てください。教えます」
カイルが、少し目を丸くした。
それから、静かに笑った。
「……ありがとうございます、アルヴィン様」
俺は少し考えた。
「……どういたしまして」
言い慣れない言葉だった。
20年間、一度も言ったことがなかった言葉だ。
だが、悪くなかった。
夕方。
ヴェラが縁側に茶を持ってきた。
「……最後の業務、完了しました」
「お疲れ様です」
「ええ。……アルヴィン様も」
二人で、山の稜線が夕陽に染まるのを見た。
遠くで、誰かが「アーメン」と言った。
感謝の言葉として。
ただの、言葉として。
俺は目を閉じた。
手が、祈りの形を作ろうとした。
作りかけて、止まった。
今日は、その必要がない。
俺はただ、茶を啜った。
「……静かですね」
「ええ」
「……これが、休日ですか」
「そうだと思います」
風が、山を抜けた。
湯気が、ゆっくりと流れていく。
消えていく。
また立ち上る。
それだけだ。
それで十分だった。
■ ヴェラの観察ログ
最後の業務、完了しました。世界は変わりました。魔法が消え、人々は戸惑い、それでも少しずつ動き始めています。「アーメン」という言葉が、感謝の言葉として広がり始めています。アルヴィン様が20年間、事務的に唱え続けてきた言葉が、今日初めて本来の意味を取り戻しました。……アルヴィン様の手が、夕方に祈りの形を作りかけて、止まりました。初めて、自分で止めました。記録します。
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