10年後
あれから10年も経った。
森下康彦が入院したと聞いた俺は、入院先に見舞いに行った。
そこで、すみれに会うとは思わなかった。
否、違う。
会えれば……と祈っていた。
祈るくらい会いたかった元妻に会えたのだ。
「あ……あなた……。」
「久し振り。息災でお過ごしでしたか?」
「……お陰様で……あなたは?」
「息災で過ごしておりました。」
「二人とも、挨拶はその位にして……。」
「はい、済みませんでした。
お久し振りです。森下さん。」
「お久し振り、木村さん。
お元気そうで良かったわ。」
「ありがとうございます。」
「康彦さん、木村さんですよ。」
「…………あぁ……木村君。」
「ご無沙汰してしまって申し訳ありませんでした。」
「いやいや、元気そうだね。良かった。」
「入院されたと伺って驚きました。」
「大丈夫なんだけどね。」
「お具合は如何ですか?」
「うん、脳梗塞になるなんて思ってなかったもんでね。
これからは、リハビリしながら食事もね。
弥生の言う通りに食べるよ。」
「そうですよ。魚が嫌いだって言って食べないのは無しですよ。」
「魚嫌いだったんですか?」
「骨がね、面倒なんだ。
でも、これからは弥生が取ってくれるよ。
なっ、弥生。」
「取りませんよ。幼子じゃないのに……。」
「えぇ―――っ、冷たすぎじゃないか?
今は取ってくれてるのに。」
「リハビリの為にも、自分で取りましょうね。康彦さん。」
「えぇ―――っ。」
「取って下さいよ。自分で!」
「へいへい………これだよ。つれないだろう?」
「そんなことないですよ。ご自分の為に頑張って下さいね。」
「すみれちゃんまで……。」
「良かったです。前と同じじゃないですか。」
「まぁ! 何処が同じって言うの? 木村さん。」
「これだけ会話出来てたら安心ですよ。
それに、ご夫妻の仲の良さが変わらないです。」
「……どこがぁ? 魚の骨、取ってくれないんだぞ。」
「それは、俺でも自分で取りますから。」
「木村君も、つれないな……。」
その時、「森下さん、リハビリしましょうか。」と声を掛けられて、渋々、「行ってくる。」とリハビリ室へ向かった。
付いて行った俺はリハビリ室の前で「森下さん、また来ますね。」と言って別れた。
病院を出る前、正面玄関で俺を呼び止める声がした。
懐かしいすみれの声だった。
「あなた! 待って!」
「………何?」
「私も帰るの。良かったら一緒に駅まで帰らない?」
「!………いいのか? 誰か迎えに来るんじゃないのか?」
「誰も迎えに来ないわよ。そんな人居ないもん。」
「嘘だろう!」
「あなたこそ、誰かが待ってるんじゃないの?」
「俺を待つ人なんか居ないよ。」
「再婚しなかったの?」
「誰と?」
「あの相川紬って人……と……再婚しなかったの?」
「再婚しなかった。
責任、取って再婚すべきだったか?」
「それは、あなたの人生だもん。」
「彼女は退職したよ。」
「えっ? なんで?」
「ご実家が料理旅館を営んでおられて、跡を継ぐために退職したそうだ。」
「そうなの。」
「5年ほど前のことで、退職の日に彼女から聞いたんだ。」
「そう………あなた、寂しい?」
「否……なんで?」
「だって、肌を重ねた相手よ。」
「お互いに過ちだったって分かった後だったから……淡々と話してくれた。
俺も淡々と聞いた。」
「そう………。」
「あのな……彼女が言ったんだ。」
「うん?」
「彼女は別れたご主人に会ったんだそうだ。
ご主人は言ったそうなんだ。
彼女は『こよなく愛されたかった』って……。
それで、彼女は納得したそうなんだ。
帰りが遅くて会話もほぼ無くなった夫を待つ妻が辛かった理由。
『こよなく愛されたかった』んだと……。
俺も似たようなこと言われたから、彼女に話したんだ。
俺はすみれに言われた『俺が愛しているのは俺だけ』って言葉を。
それを聞いた彼女は言ったんだ。
『こよなく愛されたかった私とあなたは合わないね。』って……。
相性は最悪だな……って笑ったよ。俺も彼女も………。」
「そうなの。」
「それに………呪縛だな。
牛島杏樹が………あの女性の存在が……俺には悪夢を連れて来る。」
「あ………何となく納得するわ。」
「分かってくれるのは、すみれだけ……だな。
同じことが起こるかもしれないという恐怖が……あるんだよな。」
「分かるわ。私も未だに怖いもの。」
「済まない。俺のせいで……。」
「もう! 謝らないでよ。
牛島さんのことは仕方ないわ。
あなたには責任ないもの。」
「……すみれは大怪我した。」
「もう、その件は止めて!
彼女、何処に居るのかな?」
「分からない。
だから、怖いよな。すみれ………さん。」
「急に、さん付けなの?」
「ごめん、つい……昔のように呼び捨てで……気をつけるよ。」
「すみれで、いいわよ。」
「それは駄目だろう。離婚したんだから………。」
「あなた、あなたにお礼を言いたいの。」
「すみれさんから、お礼を言われるようなことしたないけど?」
「してる。牛島さんに会って、二度と私の前に姿を現さないでくれ!って。
そう言ってくれたんでしょう?」
「そんなこと……当たり前だから……。」
「ううん、ありがとう。嬉しかったわ。」
「駅に着いたな。
俺は向こうのホームだから……息災で……幸せになってくれよ。
誰かと二人で……。
じゃあ……さようなら。」
「私は! 誰も居ないわ。
私の就職先、知ってる?」
「知らない。」
「シェルターよ。
そこで出会うのは、夫のDVから逃れて来た妻と子。
男の人との出逢いなんて全く無かったわ。」
「……そうなんだ。」
「あなたは、女性を避けて独り身。
私は、出逢いが無くて独り身。」
「出逢いは……あるよ。」
「ないわ。年を重ねるほどに無くなっていくのよ。女は……。」
「すみれ……さん。」
「だから、私はこれからも……たぶん、独り身。
誰かと幸せになることは、たぶん無いわ。
でもね、独り身でも幸せになれると思うの。
ううん、思いたいの。」
「そうだな。うん!そうだ!」
「幸せになろうね。お互いに!」
「ありがとう。幸せに!」
「じゃあ、元気で居てね!」
「うん、すみれさんも元気で!」
向かい側のホームで、電車を待つすみれの姿を見ていた。
すみれが電車を待つホームに電車が滑るように入って来た。
すみれが電車に乗り込んだ。
向かい側のホームにすみれの姿は、もう無かった。
⦅これは、俺がしたことの結果だ。
もう、俺の傍に誰も居ない。
このまま年老いて朽ち果てるまでだ。
寂しさも何もかも自分が蒔いた種だ。
あのまま何もしなかったら、俺は今も……すみれと……。
手放したのは俺だ。
これで良かったんだ、そう思えたら良かった。
すみれが誰かと結婚して、子どもを産んで育ててたら……。
俺は……そんな未来が………良かった。
紬にも悪いことをした。
年を重ねて、そう思えるようになった。
牛島という女性には、今も恐怖しか感じない。
何処でどんな暮らしをしているのか分からないからだ。
牛島さんには、子どもの為に生きて欲しいと願う。
父さん、母さん、弟の所に男の子が2人生まれて……。
女の子も2人生まれて……今は祖父母として優しい顔だよな。
俺のことは諦めてくれたようだ。やっと……。
長男の呪縛もあったなぁ……。
すみれは、長男の嫁として頑張ってくれてたな。
本当に、いい妻だった。
幸せな時間が短かった。
ごめんな、すみれ………。⦆
俺は一人で電車に乗り、座席で俯いて涙を隠していた。
これからの俺の人生を、俺なりに懸命に生きたい。
すみれに恥じない人生を送って終わりの時を迎えるのだ。
そう俺は誓った。




