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第二十七話よろしくお願いします。
第一章は”叙階師”について記すこととする。
神より賜る職業という御加護を論じるにあたり、まず彼等の存在を避けて通ることはできない。
それは実際の制度の上でも、また思索の机上においても同様である。
彼等を知らずして、この街の労働も秩序も語ることは叶わない。
貴族からはしばしば管理職とも呼ばれる叙階師は、この街において”巫女”と並び、『職業選択の自由』が保証されない特別な専門職である。彼等自身は職を選ぶことを許されず、また他者の職を定める役割のみを担う。
その立場ゆえに畏敬と忌避の双方を向けられている。
同じ叙階師によって天職がそれと判じられた場合、当人の意思に関わらず【委嘱】が行使されるという噂は、街の隅々にまで行き渡っている。それが誇張に過ぎぬのか、あるいは半ば事実であるのかは定かでないが、少なくとも人々がそう信じていること自体が、彼等の権能の重さを物語っている。
叙階師に与えられた職能は多くない。
【託宣】対象の天職を見極める。
発動中に対象から得られる情報量が多いほど、その精度は増す。
【委嘱】対象に職業加護を付与する。
【託宣】の行使により自ら判別したことのある職に限り対象に付与することが出来る。
【宣定】対象の職業加護の慣熟度を見極める。
発動中に対象から得られる情報量が多いほど、その精度は増す。
街を出ることすら禁じられた彼等に神が許された力は、この三つのみである。
だが、それで十分なのだ。
この三つがある限り、街におけるすべての”仕事”は、彼等の手を経て始まり、また測られるのだから。
『職能概論』著・レイチェル=ミルフォード
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
講堂は、昼を境に一度その明るさを失う。
反対側の壁にまで差し込んでいた陽射しが、床を照らすのみとなり、さらにその光は短くなって、やがて窓にさえ届かなくなるのだ。
そして、その代わりに聖坐から送られてくる”蛍光灯”の明かりが空間を照らしだす。
陽と影で形作られていたそれらが、一面の光の下に曝される。
この場所をこの場所たらしめている空気が、真っ白な光のもと露になる。
参拝者がまばらにいる長椅子の黒ずみ。
角という角がすっかり落ちて丸くなった教壇。
そこかしこに刻まれた子供たちが登ったり滑ったりした跡。
それらは街に六十四ある教会が担っている役割を思えば当然の光景で、
その役目を果たしてきた証を、こうして日々、目にすることが出来るのは、とても素敵なことだ。
此処は、
祈りの場所というよりは、暮らしの場所のようで、
仕事場というよりは、我家のようで、
心の拠り所というよりかは、心が帰ってくる、そんな場所。
それが、第三十一位教会。
「【清拭】」
「はぁ……何度やって頂いても気持ち良いものですねぇ…………おっと、失礼しました。シスターマリア、お清め、ありがとうございます」
「……ガイウスさん、あまり汚れを溜めない内にお越しいただけると欲しいのですが……」
「いやぁ、この一気にスッとさっぱりする感じがたまらないんですよ」
「はぁ……そもそも教会が清拭を施すのはですね―――」
「あぁっと!すみません!実はこのあと用事がありまして……失礼いたします!」
「あ、ガイウスさん!…………はぁ」
ここが、私の居場所。
――― ――― ―――
教会には毎日、色々な人が訪れる。
教会の教えに従って、朝晩に訪れては身を清めていく参拝者。
普段は顔を見せず、病を患った時にだけ頼りに来る不信心者。
参拝ついでに社交場として長話をしていく婦人や、時間と暇を持て余して長椅子に座り込む老人、どうやって生きているのか朝から晩まで一日中何もせず呆けている無頼人。
それから親を失くした子や、亡くした我が子の代わりを求める親。
そしてこの教会を巣立っていった子供達。
それぞれが違った立場と事情と悩みを抱えて、自ら進んで、或いは嫌々、はたまた何も考えることも無く。
「マザー、シスター、お久しぶりです」
一組の男女が訪れたのは、教会からほとんどの人が居なくなった時分、私とマザーが講堂を掃き清めていた時だった。
「あら、ロウ。おかえりなさい」
「隣の方はどなたかしら?」
「うん、こちら―――」
「ロウ、平気」
ロウの言葉を軽く遮って一歩前に踏み出した女の子が口を開く。
「はじめまして『鹿鳴』二代目店主のセリスと申します。先代の頃より店に貢献してくれているロウと、彼をここまで育て上げてくれた貴女様方に感謝を」
絵描きをしている人間が言うのもどうかと思うけれど、その言葉も声も仕草も、存在そのものが、まるで絵から出てきたような、非の打ち所の無い女の子だった。
彼女に見惚れている私の横でマザーは流れるように言葉を返す。
「ご丁寧なご挨拶、ありがとうございます。第三十一位教会所属の巫女テレサと申します。こちらこそ不肖の息子を快くお引き立て頂きました『鹿鳴』様には感謝の念が絶えません。今後ともどうぞ末永くご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます」
お互いに定型句のような挨拶を交わす『第三十一位教会』のマザーと『鹿鳴』の二代目店主様の後ろで、何とも言えない表情を浮かべている我が子が目に入ってきて、私は思わず笑ってしまった。
男の子が親に女の子を照会する気恥ずかしさ?
それを遮られてしまった気まずさ?
親や身近な人の、普段見ない態度を見たむず痒さ?
その目や口や頬、眉や鼻の穴まで。
色々な感情や思いが入り混じった複雑な表情を心に描きとめる。
相変わらずこの子は、いい表情をする。
なんて思って見ていたら、私の視線に気付いた我が子は、その表情に少しだけ不機嫌さを足した後、短く喉を鳴らしてから口を開いた。
「今日は東門の方に、少し用事があってさ。通り掛かったところで、ちょっと挨拶でもって」
私達に対する態度と、従業員としての言葉遣いと、それから普段使いのそれとで、随分とやり難そうにしている我が子の態度は実に微笑ましく愛おしい。
「突然のご訪問、申し訳ございません」
そう言いながら軽く眉根を寄せた少女の表情は、こちらもまた絵になる。
「教会の扉はいつでも、誰にでも、開かれているのです。遠慮なさらず、いつでもいらしてください。―――シスターマリア?」
「え…?あ、すみません…!呆けていました…」
「ご挨拶を…」
「あっ、失礼しました!第三十一位教会所属、巫女のマリアと申します…!『鹿鳴』様におかれましては私達の息子をお世話頂き誠に感謝いたします…!」
初対面の人を相手にやってしまった……と思って顔を上げれば、きょとんとした表情の少女の横で、苦笑いを浮かべている我が子が並んでいた。
「マザーもシスターマリアもお変わり無いようで」
微苦笑と共に、そう嫌味の無い口調でそう言葉にした我が子は、
雇用主の女主人と共に、マザーと幾つかの話題に花を咲かせた後、
別れの定型句と共に、第三十一位教会の講堂を去っていった。
「本当にお話だけして出て行ってしまいましたね」
『鹿鳴』が代替わりしたこと。
その理由や先代が現在、聖坐で療養中ということ。
昼前に主治医に挨拶に行ってきたこと。
色々な話をしていったけれど、本当にただついでに立ち寄っただけの様だった。
「ふふっ、そうですね。私はてっきり結婚の事後報告でもされるのかと思いました」
「それは……色々と……大変そうですね…」
弟妹達から慕われていた……今も慕われている子だから、きっと大騒ぎになることだろう。
「さ、早く掃除を終わらせてシスタークレアのご飯を食べましょう」
「はい」
大変な思いをしているだろうにそれを感じさせない冗談交じりの苦労話は、あの子達が精神的にも経済的にも余裕のある幸せな暮らしを送っているということを感じさせてくれた。
なんだかんだと、あったけれど。
あんな表情を見せに来てくれているのだから、あの子はこれで良かったのだろうと思う。
無責任な絵本作家としては惜しい気持ちもあるけれど、我が子の幸せを願う親としては本望だ。
隣には正に絵に描いたような、お似合いの相手役もいる。
あの子に”従士”という天職をお示しになられた神の思召しは解らなかったけれど、これもまた一つの物語なのかもしれない。
色々な意味で神に選ばれた主人公が、平凡でただ幸せな日常を送るだけの物語。
翻って考えてみれば私は、波乱万丈の冒険譚ばかり描いている。
「このことを子供達に話したら何か言われてしまいそうですね」
長椅子の背凭れを濡らした雑巾で拭きながら話す。
「ロウは下の子達にとっては親みたいなものでしたからね」
マザーは乾いた布巾で拭いながら言葉を返す。
「クロエなんかは本気で文句を言ってきそうです…」
「……しばらくは黙っておきましょうか」
「そうですね」
私は笑いを飲み込みながら同意を返した。
少しは目先を変えてもいいのかもしれない。
そう思った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「姉ちゃんすげぇ!」
「かっこいい!」
第三十一位教会の隣にある孤児院に、普段の何倍もの歓声と興奮が上がった。
いつもであれば就学済の年長者たちが皆、学校に行っている時間帯。
「さるすべりだって!」
「あ!キーラだ!!」
「メアリ姉ちゃんだ!」
久々に帰ってきた家族の顔に、元気を持て余した子供達は大騒ぎした。
「おねえちゃんはだれ?」
「え、あぁ、私は……」
「あたし知ってる!ルカおねえちゃんっていうんだよ!!」
里帰りした二人の子供達はもう一人、同じ会社の先輩のルカという人を連れてきた。
女性にしては短い髪に一見すると厳しい顔付をしたその人は、物怖じせずに向かってくる小さな子供達に少し戸惑ってはいたものの、ごっこ遊びをせがむ男の子の相手をする内にすぐに馴染んだ。
その見た目を裏切らない男勝りな人柄と、男性にも負けないくらいのスラっとした長身、優しさと凛々しさを持ち合わせた立ち居振る舞いは、男の子にも女の子にも、そして私の目にも珍しく映り、新たな題材が見つかった悦びを感じさせてくれた。
――― ――― ―――
一頻りの大はしゃぎを終えた子供達に、昼寝の時間を取らせる。
子供部屋から食堂に戻ると三人と談笑するマザーの隣に加わった。
「学校はダメだって言うし」
「母校で恥を晒せるか」
「ロウは忙しいっていうし」
「普通に迷惑だろう」
「という事で、私達には頼れるのはマザー達しかいないってことになったの」
キーラとメアリとルカさんとが繰り広げる、普段通りを感じさせる軽妙なやりとりは、聞いているだけでこちらの心も軽くなる。
「突然のご訪問と不躾なお願いを申し訳ない。ご依頼出来るでしょうか」
事情は良く解らないが、創作意欲を掻き立てる魅惑の麗人は、文筆について学び直しをしたい、という素晴らしい考えを持ってここを訪れたようだ。
期待を込めてマザーを横目で見る。
「なるほど……ご要望は承りました。第三十一位教会として、説教という形でよろしければ、お引き受けさせて頂こうかと存じますがいかがでしょうか」
よかった!という私の気持ちと共鳴するようにルカさんの表情も明るくなる。
「構いません!ありがとうございます!―――っと謝礼は如何ほどお支払いすれば良いだろうか?」
「お申し出ありがとうございます。お志のほどを、と申し上げたいところなのですが、一つ要求させて頂いてもよろしいですか?」
「マザー?」
予期せぬマザーの言葉に思わず口を挟んでしまった。
食卓の向こう側の娘二人も同じ表情を浮かべている。
「ふふっ、それはこわいな。一体なんだろう?」
その一方でルカさんは、少しの驚きの後に口元に笑みを浮かべて、物語の台詞のように聞き返した。
マザーは人数分用意した木杯で軽く唇を湿らせてから言葉を並べる。
「出来れば今日のように、孤児院にも顔を出して頂きたいのです。あの子達の将来のために、色々な繋がりを作ってあげられることが、我々にとって一番の報いとなります」
あぁ、流石はマザーだなぁ。
と思った。
教会の勤めに従事しながらも常に、子供達のことをその将来まで考えていらっしゃる。
「なるほど…」
「ご迷惑と存じますが、何卒―――」
「いや、とんでもない。私もつい先日、人の繋がりに……キーラやメアリに救われたところです。如何程の役に立つのか知れたものではありませんが、こんな者でよろしければその条件でご依頼させてください」
謙遜しながらも卑下することなく真っ直ぐに。
マザーの目を見てルカさんは改めてそう口にした。
その言葉に私は、二人が会社でも人に頼られる存在に成長していることを嬉しく思った。
それからしばらくキーラの会社での失敗談や、メアリの食にまつわる体験談で私達を楽しませてくれた後、名残惜しそうに孤児院を去っていった。
帰り際に泣きつかれる光景を期待していたキーラが、昼寝の起き抜けでポヤポヤした子供達に素っ気なく分かれを告げられてガッカリしていた姿は、妙に彼女らしく、懐かしい気持ちにさせてくれた。
――― ――― ―――
――― ―――
―――
『彼女等には随分と世話になってしまいました。あと、ロウという二人の弟にも。失礼ながら、お願いしたご依頼自体は私にとっては二の次で、彼女達が育った場所を一目見てみたい、そして彼女達を育てた貴女方に一言御礼を申し上げたい、そう思い参った次第です』
その言葉をルカさんが放ったのは帰り際、キーラとメアリを表に待たせて一人教会でマザーと向き合った時だった。
『……それから、近い将来。彼女等は間違いなく『百日紅』の中核をなすでしょう。詳細は省きますが北門の異界探索の状況次第で、若い世代も含めてほぼ全員が最前線で活動する可能性もあります。お伝えしても詮なきことですが、その分危険も増すということですので……』
『ルカさんはお優しい方ですね』
『……いえ。私は弱いだけです。こうして貴女に話しているのも、前もって言い訳を口にしているに過ぎない…。失われる前であれば責められる謂れも無いだろうという浅ましい考えが頭の片隅に浮かんでいます』
『探索者である以上、いつその時がきても仕方のないこと。それはあの子達も覚悟の上でしょう。そして神が示された天職とお預けくださった職業のご加護を振るうことは、この街に住まう我々がなすべきこと。そこから逃げずに立ち向かう貴女達を責めるものなど居はしませんよ』
『……ありがとうございます。』
『……もし思いを抱えきれなくなった時は遠慮なく教会の門戸を叩いてください。私共のところでなくても構いません』
『えぇ……いえ、その時はまたここに。どうやら私には私を叱ってくれる人が必要なようなので』
そうして彼女もまた第三十一位教会の扉を開いていった。
ここには毎日、色々な人が訪れる。
それぞれが違った立場と事情と悩みを抱えて。
自ら進んで。
或いは嫌々。
はたまた何かの答えを探すために。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
時報の鐘が遠くから六つ聞こえてくる。
食卓の隣からはサラサラと筆が動く音。
教会での勤めを終え、孤児院の子供達を寝かしつけた後に訪れる、静かでいて心躍る時間。
私が一番楽しみにしている時間。
「ねぇシスタークレア。この『音の無い丘』って『風の吹く丘』と同じ場所よね?」
「えぇ、そのつもり」
「草花の動きは止めて描くつもりなんだけど、全体の色合いを変えるやり過ぎかしら?」
「よく似た別の場所に見えてしまわないか、ということね…」
「えぇ」
「あなたが思うように描いてみて。文書の方で工夫してみるから」
「いいの?」
「えぇ、あなたの絵が活きる方が良いモノになる気がするから」
「ありがとう…!頑張ってみるから…!」
少し話しては、また筆を取り、悩んでは、水で口を湿らせて、ゆっくりと、けれど、あっという間に過ぎていく時間。
コンコンコン―――
七時を告げる鐘が遠く過ぎ去った頃、勝手口から戸を叩く音が届いた。
マザーとシスタークレアと顔を見合わせて微笑んだ。
二人も気づいた様子だ。
偶にふらっとやって来て、気分でふいと帰って行く。
何だっけ、前に探索者様に聞いた話…。
あぁ、そうだノラだ。
思いながら私は閂を外して勝手口の戸に手を掛ける。
「あら、ヒースおかえりなさい。どうかした?」
不自然にならないように演じる。
この子は勘は鈍いのに、意外と繊細だから。
前に一度、直ぐに帰してしまったから。
「別に。チビ共どうしてっかと思ってよ」
よかった…誰何もせずに戸を開けてしまったことには、気付かれなかったみたいだ。
こっちはこんなに気にしているのに、この子の方はいつも同じ言い訳を口にするのだからズルい。
笑ってしまわない様に、自然と微笑んで返事をする。
「皆元気よ。あ、そうそう、一昨日はキーラとメアリがね『百日紅』の人を連れて遊びに来てくれたの。クロエとか学校に通ってる年長さん達は会えなかったけど小さい子はみんな燥いでた。キーラもメアリも元気にしてたわよ」
「ふーん…」
「あ、もう少し前にはロウも顔を出しに来たわね。教会で立ち話をしただけだったけど。『鹿鳴』のセリスさんも一緒に来てくれたの」
「そうかよ…」
顔を見せない子が来ない理由については考えないようにしている。
だって、便りが無いのは良い便りだもの。
「近頃、みんな顔を見せに来てくれて嬉しい」
こうしてやって来る子は、ほら。
「はいはい…」
返事は素っ気ないし、碌に目も合わさない。
却ってその態度が何かを気にしていることを物語っている。
ヒースは最近悩んでいるようだった。
以前はほとんど顔を見せなかったのに、近頃頻繁に来るようになっているから分かりやすい。
その原因はたぶん『藤虎』さんのコトだろう。
何と無く居づらいから孤児院に顔を出す。
頭に浮かんだ”出戻り”という言葉は口に出さないことにしておく。
「……」
「……なんだよ?」
口には出さないけど、顔には出ていたのかもしれない。
「ヒースはどう?元気にしてる?」
「あぁ……見ての通り、元気にしてるよ」
全然、そうは見えない態度で真逆の言葉を口にする。
きっと我が子じゃなかったら、こんな面倒なやりとり付き合わない。
なのに自分の子供なら可愛いとさえ思えてくるのだから不思議だ。
「『藤虎』さんはどう?相変わらず厳しいの?」
「……もう大分、慣れたよ。全員で同じ場所を……狩りしてる」
「そう。キーラとメアリは本隊?とは別の班で魔石を稼ぎながら訓練してるって。早く先輩達に追いつきたいって言ってた」
「そっか…」
「ロウも、良く分からないけど、経営統合?とかっていうので小さな企業さん達の探索のお手伝いをしてるんだって。ヒースやキーラに負けてられないって」
「あぁ…」
「ヒースも負けてられないね」
「あぁ……そうだな。―――じゃ、帰るわ」
今日初めて私の顔を見て、ようやく小さな笑顔を見せたキースはそう言って去っていった。
偶にふらっとやって来て、気分でふいと帰って行く。
前に教会に来た探索者様に聞いた話、野良と呼ばれる魔物の話。
『東乃原』の奥地『渇乾砂狼』の群れから逸れた一匹。
東門の探索者にしてみれば、腕試しに挑むのに丁度いいという哀れな狼。
私は暗がりに消えていくキースに声を掛ける。
「いつでも帰ってきなさいね」
あなたは狼でも一人でもないんだから。
此処は、
祈りの場所というよりは、暮らしの場所のようで、
仕事場というよりは、我家のようで、
心の拠り所というよりかは、心が帰ってくる、そんな場所。
それが、第三十一位教会。
私の居場所。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
陽の光が東側の壁を越える前、東の空はその色合いを濃紺から徐々に白く染めていく。
街の誰もが未だ微睡の中にいる時間。
第三十一位教会の講堂には二つの影があった。
「この間ロウが帰って来た時、裏街のことを色々話していきましたよ」
一つは白い着物を着た巫女。
この街に六十四ある教会のそれぞれに存在するマザーと呼ばれる管理人。
「……何か探りでも?」
一つはどこでも見かけるような平服。
この街の外周部に無数に点在する平穏とは無縁の地の住人。
黒ずみの目立つ長椅子に浅く腰掛けて会話を続ける二つの影
「どうかしら……頭の良い子ですからね。『これまで悪意から守ってくれてありがとう。この街にはまだまだ自分の知らないことがたくさんあった。マザーもお気をつけて』そう言い残していきました」
「……まぁいいか。またアレに何かあったらお願いします」
「子供の頃から妙に気にかけてるけど、いったいどうして…?」
「……何度聞かれても話せることはありませんよ、マザー」
「はぁ……それで連絡事項は?」
「疫病が出ました。対象者は五十五位教会に集めてあります。手が足りないので応援お願いできますか」
「またですか……どうしてこの街が未だに存続しているのか、不思議でなりません」
「神の御業とマザーをはじめとする教会の献身あってのことでしょう」
「ありがとう……アナタのような子の献身も、ね」
「…………近々、大きく動きます。教会には極力影響が出ない様に計画していますが、城に近い程危険度は高くなると思いますのでお気を付けて。また今後の繋ぎは別の者が就きますので、よろしくお願いします。これまでありがとうございました―――さようなら」
一息で言って立ち去る影を追うことなく、微動だにしないもうひとつの影。
「家を出ていく時は”いってきます”ですよ。カイト」
呟きだけが暗い講堂に響いた。
陽射しは未だ刺し込まない。
<つづく>




