最終話 心残り
時は遥かに流れ、承保元年(1074年)――。
頼通は曼珠沙華の咲く川のほとりにいつのまにか立っていた。
一面に咲く朱色の花が美しく、さらさらと流れる川の音が耳にやさしい。
「ここは……?」
昨夜はいつも通りに床に就いたのではなかったか。
では、ここは夢の中か。
いや、違う。
頼通は不意にここがどこなのか思い当たっていた。
俗に言う三途の川、か……?
齢八十を越えた今、いつ死んでもおかしくはなかった。
官位を極め、関白として権力をほしいままにすること数十年。
そして、弟の教通に関白を譲った後も宇治殿と呼ばれ、政に影響を与えてきた。
これ以上生きたところで、この身体は皺に刻まれ、思うように動けず、生き恥をさらすだけだった。
思い残すことがないわけではない。
しかし、現世に留まったところで、その願いが叶うわけでもない。
だから、ここに来たのか。
頼通は辺りをぐるりと見回し、他にも自分のような人間が多くいることに気が付いた。
皆、一つの方向を目指し、ゆっくりと歩いている。
頼通もまたその流れに乗って、曼珠沙華の花粉を飛び散らせながら歩んだ。
しばらく進んでいくと、長い行列ができているのが見えてくる。
頼通はその最後尾で止まり、その先に何があるのかと身を乗り出した。
「この先には、閻魔様がおられるらしい」
頼通の前に立っていた老婆が振り返って、ぽつりと言った。
「閻魔様?」
「生前の行いを見て、極楽へ行くか地獄へ行くかを決めなさる。わしは地獄行きだ。自分の子を捨ててしまった――」
極楽か地獄か。
頼通は俄かにその事実を受け入れることはできなかった。
『死んだら魂となって、黄泉へ行くのか、現世に留まるのか』
遥か遠くの記憶が鮮やかに甦ってくる。
この長い一生で、愛したとはっきり言える女の言葉、その声は今でも忘れていない。
そう、この先にあるのは極楽でも地獄でもない。黄泉国だ――。
行列は次第に進み、間もなく頼通の番が来ようとしていた。
目の前には切り立った高い崖がそびえ立ち、その下には大きな岩が何かをふさぐように置かれている。
その傍らで、一人の幼女が背丈の倍ほどもある杖を片手に、白装束の男に声をかけていた。
ややあって、その杖は一回振られる。
先端につけられた鈴なりに連なるいくつもの白珠が弾け合い、きれいな音を奏でた。
と同時に、白装束の男は大岩の向こうに消えていった。
「頼通」
背後から声をかけられ、頼通はその懐かしさに震えながら振り返った。
そこには、六十年前と全く変わらない姿で、美濃――ナオクスヒメが微笑んで立っていた。
「久方ぶりだな」
頼通はすっかり変わってしまった自分の姿を恥ずかしく思って俯いた。
「吾のことなど、忘れてしまったか?」
「忘れられるわけがない。けれど、こんな姿を見せたくなかった……」
頼通がそう呟くと、ナオクスヒメはくすくすと笑った。
「頼通、魂は形に捕われぬものぞ。吾の前にいるのは昔の汝、そのまま。顔をよく見せよ」
頼通は半信半疑で自分の手に目を落とすと、確かに皺一つない艶やかな皮膚がそこを覆っていた。
顔に手をやれば、すべらかな頬が甦っている。
頼通はゆっくりと顔を上げ、ナオクスヒメを見つめた。
もう二度と逢うことはないと思っていた。
「なぜ、今になって……?」
「今なら千鶴も許すだろうと思ってな。それに、汝に一言謝りたかった」
「何を……?」
「生涯、汝が子に恵まれなかったのは、吾が汝の子を生んだせいなのだ。唯一の心残りだっただろう?」
「私の、子……?」
「あそこに。ミタマトヒメという」
ナオクスヒメが指差したのは、大岩の前で杖を持っている幼い娘だった。
「私は神をもうけたのか……!?」
驚く頼通の前で、ナオクスヒメは静かに頷いた。
「ミタマトヒメもまた永遠に生きる。汝の生きた証は、この世が続く限り果てることはない。だから、許されよ」
頼通は自分の頬に涙が伝うのを感じた。
「最後にあなたに会えた。子にも恵まれた。これ以上、思い残すことがあるだろうか。良い人生だった」
ナオクスヒメはそっと手を伸ばして頼通の涙をすくい、やさしく唇を重ねた。
「さあ、汝の番ぞ」
ナオクスヒメは頼通の腕を取り、ミタマトヒメの方を向かせる。
「父上、ようやくお会いできました」
ミタマトヒメは射干玉の大きな瞳をきらめかせて頼通を仰ぎ見、そして、うれしそうに満面の笑みを浮かべた。
頼通は迷うことなく、自分の娘をその胸に抱いていた。
「あなたが幸せな時を永遠に持ち続けられるよう、心から祈っているよ」
「言祝ぎ、感謝致します――」
ミタマトヒメのまだあどけない声と共に、杖は静かに鳴らされた。
〈了〉
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次話はあとがきになります。
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