第2話 散りゆく霊玉たち
ナオクスヒメが六条の邸に着いた時、すでに建物全体が紅蓮の炎に包まれていた。
辺りは橙色に明るく照らし出され、舞い散る火の粉が遠くの闇に向かって飛んでいる。
炎の轟音に負けず劣らず、泣きわめいてうずくまっている少女が庭に一人。
あとの者は取るもの取り敢えず持って逃げ回っている。
まるで地獄絵図そのものだ。
「オオワタツミ(大綿津見)の神! 吾を護れ!」
――承知。
オオワタツミの声が脳裏に届くと同時に、ナオクスヒメは築地から宙を舞い、燃えさかる邸の中に飛び降りた。
炎のあまりの眩しさに、一瞬顔をしかめる。
しかし、水を司るオオワタツミの加護のおかげで、身を焦がす炎は避けられ、吹き荒ぶはずの熱い風もナオクスヒメには届かない。
ナオクスヒメは崩れ落ちてくる梁を避けながら、逃げ遅れた姫を探して身舎の中を歩いた。
そして、見つけた。
腹の大きな女がちょうど梁の下敷きになることなく、そこに転がっていた。
ただ、ぐったりと目を閉じていて生死は定かではない。
ナオクスヒメは駆け寄って抱き上げると、そのまま外に飛び出した。
「姫様ぁー!」
先ほど、庭で泣いていた女房らしき少女がナオクスヒメの方に駆け寄ってくる。
「離れておれ!」
ナオクスヒメはしがみつこうとする少女を突き飛ばし、抱えていた咲姫を下に置いた。
傍らに膝をつき、その口元に手をかざす。
息はしていないが、まだ魂は身体から離れていない。
「姫様に何をなさるの!?」
「甦らせる。汝はさっさと医師を呼んでこい!」
「はいっ」
少女がこけつまろびつ駆けていくのを横目に、ナオクスヒメは咲姫の鼻をつまんで自分の口を彼女のそれに被せ、一気に息を吹き込んだ。
この女を死なせるわけにはいかない。
十中八九、具平かタマヨリの女が関与している。
悪霊たちの仕業を見逃すわけにはいかないのだ。
特にこれがタマヨリの霊力でなされたことであったなら、彼女に囚われた死霊たちが哀れで仕方がない。
それぞれに想いを残し、死霊となって現世に残ったというのに、本来の目的も果たせず、タマヨリの言いなりになって、自分に関係のない人間を殺さなくてはならない。
そんな虚しく、哀しいことはあるだろうか。
しかし、一度霊玉と化した死霊は、二度と主人のもとから離れることはできない。
黄泉に行くしか後の道はないのだ。
霊玉を斬る時はいつも、身を切り裂くように無念さ、怒りが最期の叫びとなって突き刺さる。
一番斬りたくないのが霊玉だ。
ナオクスヒメが息を吹き入れること、数度繰り返すうちに、咲姫は咳き込んだ。
目は閉じたままだが、かすかに呼吸をし始めているのが感じられる。
ナオクスヒメが大きく息をついて立ち上がった時、燃え尽きた邸が音を立てて崩れ落ちた。
その炎の中から、無数の青白い鬼火が舞い上がっていく。
「やはり、霊玉……!」
ナオクスヒメはクラノオハバリを掴み取ると、飛んでいく霊玉の後を追った。
目的を果たした霊玉たちの戻るところは、主人のもと――。
「哀れな死霊ども、もう戻るな! 黄泉で安らかに眠れ!」
ナオクスヒメは築地を踏み台に宙に舞い上がり、霊玉たちをことごとく黄泉へ送った。
後には死霊たちの依り代となっていた呪符のかけらがひらひらと風に遊ばれながら散っていく。
ナオクスヒメは屋根の上に静かに着地し、しばらくの間、立ちすくんで涙を流していた。
息が止まりそうなほど苦しく、死霊たちの断末魔が心を締めつける。
もう、許さぬ。
ナオクスヒメの血はたぎり、ぎゅっと涙を振り払うと、高倉殿を目指した。
***
頼通が六条に駆けつけた時、すでに邸は跡形もなくなっていた。
咲姫がまだ中に取り残されているとしたら、もう絶望的だ。
頼通は真っ青になって騎馬のまま門を駆け抜け、庭に入った。
そこは駆けつけた大勢の検非違使や侍が火消しにあたってごった返している。
「左大将様!」
人ごみを掻き分けて小夏が姿を現し、駆け寄ってきた。
「姫は!?」
「無事でございます!」
小夏はそれだけ答えて気が緩んだのか、大声で泣き出した。
頼通も全身から力が抜けて、気を失うかと思うほどに安堵していた。
「今、どこに?」
「こちらでございます」
頼通が馬を下りて小夏の後に続くと、人目を避けるためか、木陰の筵の上に咲姫が横たわっていた。
顔も着物も煤けて真っ黒になっていたが、顔はほんのりと赤く染まって、血が通っているのがわかる。
医師らしき老人が傍らに座って、火傷の手当てをしていた。
そういえば、ここに先に行くと言っていた美濃の姿が見えない。
「小夏、単衣袴の女を見なかったか?」
小夏は驚いたように顔を上げ、涙も拭かずに頼通の顔をまじまじと見てきた。
「左大将様、あの方を御存知なのですか!?」
「会ったのか?」
「会ったもなにも、その方が姫様を炎の中から救ってくれたのですよ。姫様を甦らせてくれたのも。ああ、あの神々しいお姿。神が降りてきてくださったのだわ、きっと……」
小夏は陶酔したように、うっとりと半眼を閉じている。
美濃が咲姫を助けたのか……。
頼通は複雑な気持ちで小さくため息をついた。
「それで、彼女は今どこに?」
「それが……医師を呼びに行っている間に、お姿が見えなくなってしまって。ぜひお礼を申し上げたいのですけれど」
「その気持ちは伝えておこう。とにかく、いつまでも姫をこのようなところに置いておくわけにはいかない。邸に連れていく」
「邸というと高倉殿ですか……? 北の方様が……」
小夏は怯えた顔で、上目遣いに頼通を見上げてくる。
隆姫の気性を思えば、どんなことになるかは目に見えている。
あの嫉妬深さでまた癇癪を起こすだろう。
今度は碁石くらいでは済まないかもしれない。
しかし、さすがの隆姫も罪人になるようなことまではしないはずだ。
「この際、仕方がない。すぐに車を用意させる」
頼通は火事見舞いに駆けつけた随身たちを見つけて、指示を出した。




