第8話 止められぬ想い
その夜、ナオクスヒメは風を身に受けながら、高倉殿へ向かって屋根の上を駆けていた。
頼通の容態を聞いてからというもの、何も手につかず、ただ夜が来るのを、月が昇るのを待っていた。
そして、ようやく自由の身となった今、頼通の様子を見に行くところだ。
ナオクスヒメは高倉殿の寝殿の上に着くと、屋根の端から下を覗き込んだ。
庭は篝火で照らされ、廊下も釣燈篭が火を放っている。
行き交う人もなく、ひっそりとしていた。
部屋の方は格子が下り、その向こうにあるだろう燈台の明かりが隙間から漏れている。
ナオクスヒメは屋根の縁に掴まりながら、簀子縁に飛び降り、妻戸のそばに身を寄せた。
息をひそめて耳を付けても、中からは物音一つしない。
妻戸をそっと引き開け、西廂を覗くと、そこには誰もいなかった。
さらに中に入って襖を細く開け、身舎の中に誰もいないことを確認してから、その身を中に滑り込ませた。
幾重にも置いてある几帳をよけながら奥に進むと、頼通は御帳台の中に一人寝ていた。
隆姫の姿が見えないところを見ると、北の対屋にいるのかもしれない。
ぐるりと辺りに神経を張りつめてみたが、死霊の気配は感じられなかった。
どうやら具平は近くにはいないらしい。
ナオクスヒメはほっと息を吐きながら床の傍らに座り、頼通の額に手のひらをあててみた。
穏やかな寝顔をしているし、熱もなさそうだった。
大丈夫そうだな。
ナオクスヒメが立ち去ろうとした時、頼通の瞼がかすかに動いたような気がした。
その直後、彼は驚いたように大きく目を見開いた。
「すまぬ。起こしたか」
「これは、夢か……?」
頼通はふらりと起き上がると、幻影でないことを確かめるように、ナオクスヒメの頬に手を触れた。
「あなたが来てくれるとは……」
「三日も休んでいると聞いて心配になった。そもそも吾のせいだからな。元気そうに見えるが、もう具合いはよいのか?」
「今日は大事を取って休んだだけなんだ。あなたが心配してくれるのなら、このままずっと病でもいい」
本気とも冗談とも取れる頼通の言葉に、ナオクスヒメはくすりと笑みを洩らしていた。
「てっきり吾のことを怒っておると思っておったが」
頼通はナオクスヒメから視線をそらして俯く。
「……自分で自分の気持ちを持て余しているんだ。拒まれてもなお、なぜこんなにも愛しいのか。忘れることもできずに、ただ苦しい」
「汝は吾のことを知らぬ。だいたい、真実の愛を語る相手としては、ふさわしくない相手ぞ。ただの女房でないことは、わかっておろう」
「……それは最初から薄々気が付いていた。夜空に舞うあなたの姿を見た時から」
ナオクスヒメは驚いて、まじまじと頼通の横顔に見入っていた。
「ならば、なにゆえ? 人でないものに本気になってどうする」
頼通は改めてナオクスヒメを見つめると、ゆっくりと手を伸ばし、その胸にやさしく抱きしめた。
「何者でもいいんだ。あなたへの想いは止められない。死をも覚悟の上。その上であなたの本当の気持ちが知りたい」
ナオクスヒメの心は大きく揺れた。
この男は一度の戯れ事で忘れてしまえる今までの相手とは違う。
人が愛し、愛されるように、同じ時を永く過ごしたいと思う。
永遠の中の束の間でも、いつか死んでしまう相手だとわかっていても、今はこの男の愛がほしい。
もう、一人で淋しい思いをするのは嫌だった。
許せ、具平。この想いはどうしても諦められぬ。
ナオクスヒメは腕を伸ばし、頼通の首筋に絡めた。
「本当はすでに恋に落ちていた。それは許されぬことと諦めようとした。けれど、それを犯したとしても、吾には汝が必要ぞ。汝の胸の中で、吾は幸せになれる」
「本当か?」
耳元で聞こえる頼通の声は擦れていた。
ナオクスヒメは身体を起こし、頼通の目を見つめて頷いた。
「これからも吾のそばにいてくれるか?」
頼通は口元をほころばせ、きれいに微笑んだ。
「ああ、約束する」
ナオクスヒメは腰を支えられながら床の上に寝かされ、口付けを受けた。
深く甘い接吻に一瞬我を忘れたが、慌てて頼通の身体を押しやった。
「どうした?」
頼通は少し身体を起こして、怪訝そうな顔で見つめてくる。
「その……ここでは遠慮したい。そこまで趣味は悪くない」
ナオクスヒメが赤くなる顔を袖で隠すと、頼通はくすくすと笑っていた。
「それもそうだな。無神経ですまなかった」
「今宵は帰る。病人はゆっくり休め」
ナオクスヒメが身を起こして立ち上がろうとすると、頼通はその腕を取り、懇願するように見つめてきた。
「あなたもどこにも行かないと、約束してほしい。目を離したら、どこかに行ってしまいそうだ」
「約束しよう」
ナオクスヒメは目を細めて微笑むと、部屋を後にした。




