宮廷魔導師長は宰相に出し抜かれた。
――メーヴォ。
確かに、そう呼ばれた。
彼にとってその声は、天上の音楽にも等しい響き。何もかもを包み込んで、暖めてくれる至上の音。
――メフ、良い子だね。
微笑んで、そっと頬をくすぐってくれるのだ。
その人のことは覚えていない。髪や瞳の色、どんな顔つきをしていたか、名前は何と言うのか。そういった情報は、記憶からすっぱりと抜け落ちてしまっている。
わかるのは声だけだ。しかし、その唯一の記憶である声でさえも夢から醒めれば忘れてしまう。
夢?
そう、これは夢だ。
言葉すら知らないほど幼い頃の。
十年程前から、同じ夢を何度も見ている。その度に醒めないでほしい、このまま眠り続けていたいと願ってきた。しかし現実がそんなに甘いわけもなく、気付いたら朝の光に照らされたベッドの中にいるのだ。
そして、夢の中では存在を感じることもなかった右腕、びっしりと羽根に被われた翼を見て更に憂鬱になる。あの頃は無かったと思うのに、いつの間にこんな邪魔なものが生えてきたのだろうか。
言葉も知らぬ幼子であった頃のことなど、覚えているわけもない。それでも、なんとなく知っていた。
あの時間は、確かに幸福と呼べるものであったのだと。誰にも、何にも邪魔されることのない愛情が、確かにあの場にあったのだと。
――自分はあの頃、確かにヒトであったのだと。
豪奢な寝台の上、目を醒ます。無駄に広い部屋に、独りきり。窓の外へ目を向ければ、東の空が少しずつ明るんでいるところだった。
まだ誰も来ない。世話焼きなメイドたちも、ようやく遠慮しなくなってくれた宰相殿も、鬱陶しい宮廷魔導師長も。主の眠りを妨げないよう、呼ばれない限りここには来ない。
もう一度布団をかぶって、丸くなる。翼の羽毛が、少しだけ逆立った。
さむい、と呟いた声は、誰にも届かない。
「……くっ」
メーヴォの眉間に、シワがよる。その目の前には、執務机の上に置かれた小皿。パルッキラ王国田舎町のおやつの定番、野菜クッキー。子供に野菜を食べさせるのに苦労するお母さん達の強い味方だ。左手と翼をわきわきと動かしている。食べようか食べるまいか迷っているようだ。そのうずうずとした表情も合わせて考えるに、気持ちのベクトルは「食べたいけどどうしよう」という方に向かっているらしい。
「……お気に召しませんか?」
少しだけ不安げにそう問うのは、宰相レフティ。
「いえ、気に入らないというわけでは……」
「では、どこか具合でも悪いのですか?」
「いやそれも違います、いたって健康です」
「ヴァトレンに何かされましたか?」「あれは鬱陶しいだけでほぼ無害な生物で……あぁもう」
メーヴォは眉間のシワをいっそう深くしてサクを見やった。
「何を企んでいるのですか」
「何とは」
「わざわざ私が好むような菓子まで調べておいて白々しいですね、食べ物で釣ろうったってそうはいきませんよ」
「あーやっぱりこの手の素朴な菓子の方がお好きなんですね、侍従連にはそう伝えておきましょう」
「その配慮はありがたいのですが先に質問に答えなさい、いったい何を企んでいるのですか」
不信感を隠そうともしないメーヴォに苦笑するサク。
「特に何の意図もありませんよ。単に陛下が快適に過ごせるようにしたいだけです」
「どうだか」子供のようにぷい、とそっぽを向くメーヴォ。
齢二十二と聞いたが、近頃は疑わしく思っているサクである。魔族の成長速度はヒトよりもかなり遅いという事実を出してしまえばそれまでだが、年齢に対して幼い言動が多いのだ。
流石に臣下に会うときやら外交の席ではそれなりの威厳をまとった姿を見せてはいるものの、ボロが出てしまいはしないかと、宰相は心臓に悪い日々を送っている。
ただでさえ国王たるには若すぎるのではないかと近隣諸国から陰口を叩かれているのだ。これ以上幼さを見せたりしては見くびられてしまう。
サクは今上国王を誇りに思っている。
メーヴォがこの国の頂点に立って、ようやく一ヶ月と少しが過ぎた。その間に彼が下した勅命は、きちんと記録されているだけでも百を越える。大きなところでは法令の改正に官吏の総入れ換えに軍隊の見直し再編、近隣諸国における農業の最新技術を引っ張ってきて、それに基づいた畑作を奨励してみたり。小さいところでは旧王宮の美術品や宝石類を片っ端から売却するなど。
他にもちょくちょく魔王――というより末っ子に甘い父上殿のところに泣き落とすような手紙を送って補助金をせしめるなど、少々せこい手も使ってはいるものの、いつ倒れてもおかしくなかった国を持ち直させた手腕は評価できるものだろう。
最初に国事に関する書類を眺めて、げんなりした顔で「おさじ投げたい」とぼやいていたことがもはや懐かしい。
簒奪を行った者が、突然手に入った権力に浮かれて愚王と化することなど、よくある話だ。だが、メーヴォに限ってはそうではないようでサクは安心している。庶子とはいえ魔王の子としてある程度の権力を持つことに慣れていたのが決め手だろうか。
ギンジョーを持っていく口実でラウリの元を訪れた夜は、サクにとっては「地獄」の一言につきた。メーヴォに関する情報を仕入れつつラウリと二人でのんびり呑むつもりが、気づいたら他の下っぱ兵士達まで起き出して宴会の様相を呈していたのだ。
もともとサクはあまり酒には強くない。万年元気な体力バカでなおかつ酒豪共と一緒に呑んでいてはすぐにへばってしまう。もうやだ、無理だと言っても逃げることは許されず、酔っぱらった下っぱ達に結局明け方まで飲まされ続けた。
実のところ、初めてメーヴォと顔を合わせたときから、サクは不安だったのだ。
若いどころか幼くも見える容貌に、あまり賢そうには思えない話しぶり。これもダメ君主なら、今度こそ簒奪を待たずに自分で弑し奉ろうとさえ思った。
実際、メーヴォが行った施策の多くはなかなか効を奏さなかった。政府の者達は揃って眉間にシワを寄せ、苛立ちばかりがつのっていた。
しかし、その時に勢いあまって刃を向けなくて本当に良かったと思う。メーヴォはきちんとパルッキラの寿命を伸ばしてくれた。まだ可否のわからない政策もいくつかあるにはあるが、あと五年もあればこの時期に出したものについては効果もきっと出揃う。
少なくともそれまでは、待ってさしあげるべきだろう。待ちすぎて国を駄目にしてはいけないが、もう少し期待してみたい。
だから、どうか。
釈然としない顔でクッキーをもむもむと頬張る主を見守りながら、国を想う宰相は願った。
この刃を、あなたに向けさせないでくれ。




