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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
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第五話 - 『昼下がりの回想』

 

 

 一ノ瀬時子は歩いていた。当て処なく。

 日曜の昼時だけあって、かなり人が多い。いや、曜日の問題ではなく夏休みの時期だからか。ショーウインドウに飾られた流行の服を横目で見ながら通り過ぎる。サングラス越しの世界は味気なく、おそらく真っ白であろうブラウスもまたセピア色だった。


 少し信じられないくらい、蒸し暑い日だ。重苦しい曇天の空は、騒々しい地上とは裏腹にギリギリの沈黙を保っている。

 時々、よくこうして街中をふらつく。雑踏の中が好きなのだ。例えば垂火などは人ごみを嫌う。ああ見えて潔癖の気があるので、見知らぬ他人の汗や息、匂いなどを嫌がるのだ。

 とはいえ、たしかにこの時期の散歩はお世辞にも優雅とはいえないのだが。コンビニを見つけるごとに肌を冷やさなければ、とてもじゃないが歩き続けられない。M嗜好でもあるのか、と垂火に呆れていわれずとも厄介な習慣だという自覚はある。


 十二時を過ぎた頃、とうとう耐え切れなくなったのか曇天の空が泣きだしたので、 手近にあったチェーン店のカフェに入った。コーヒーだけを頼もうとしたが思い直して、 ベーコンとトマトとモッツァレラのパニーニを注文する。


「ごゆっくりどうぞ」


 女子大生らしき若い店員が笑いかけた。好ましい笑い方だったので、時子はありがとうと笑い返した。 窓際の席に座り、忙しなく行きかう通行人たちを眺める。



 昔、ずっと昔、彼らと自分では何が同じで、何が違うのか不思議に思ったことがあった。

 まだ世界と自分が別物だと信じていた頃だ。世の中に多数存在するコミュニティーに――例えば家族、学校、地域、国――、 そういったものに所属しているという意識がなかった頃。

 当時中学生だった兄は、時子の幼い疑問を聞き、少し考えてこういった。時子、と優しく目を覗き込みながら。


 時子。時子の好きな色は?

 青。

 俺も青は好きだよ。これは俺の意見だけどな、人はみんな元々、生まれたときは無色なんだ。色がない。そこが同じところだ。でも生きていく途中で色んなことを経験するね。苦しいことや悲しいこと、嬉しいことや楽しいこと。それによって差異が出て、それぞれの色に染まっていく。そこが違うところだ。

 そして、兄は最後にこう問いかけた。

 時子は今、何色かな?



 冷め始めたパニーニを手に取った。

 正直、垂火の作るものの方が数倍うまいと思ったが、黙々と食べた。元から食にこだわりがある方ではない。特に夏は食欲がまったく沸かず、気づけば水と果物しか取っていない日も多い。 なので、気づいたときに食べておく、というのが最近の目標になっている。

 機械的にパニーニを胃に流し込みながら、垂火のことを考えた。


 垂火恭平。

 世界でもっとも私のことを理解していて、けれど自分は絶対に理解させない残酷な男。だが、 誰よりも高潔な男。口では面倒だ何だといいながらも、結局は他者に惜しみなく愛情を分け与える男。


 受け入れ難い現実から目を背けることは罪なのだろうか。逃げ続け、問題を先延ばしにしてでも安寧を望むことは。生まれたままの心で生きていられたら、どんなに幸福だろう。必死に色を重ねていったところ、垢のように黒く淀んでしまった。最初に望んでいた色がどんなものだったか今では知るすべもない。


 これが生きていくということなのだろうか?

 魚のようにとめどなく泳いでいるつもりでも、その実、溺れている。

 溺れながら生きている。




 コーヒーを飲みきったところで腕時計を見ると、既に二時を指していた。

 男もののそれは兄の形見として譲り受けたものだ。葬式があった日、その足でサイズを調整してもらいに行って、以来ずっと愛用している。 肌身離さず身に着けているせいで大分と古びてきてしまっているが、メンテナンスには気を使っているのでまだ何十年も使えるだろう。もしかしたら自分が死んだのちもこの時計は動き続けているかもしれない、と時々考える。


 雨はなかなか止みそうになく、次第に店も混んできたので時子は店を出た。 さっきの店員は休憩なのか、勤務時間を終えたのか、姿は見えなかった。

 コンビニで傘を買って再び当てどなく雑踏の中を歩いていると、男子高校生が数人じゃれあいながら横を通り過ぎる。

 ふいに時子は昨日会った少年のことを思い出し、そういえば名前を知らないことに気がついた。






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