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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
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第四話 - 『邂逅する二人』

 

 

 展覧会のある美術館は、千駄ヶ谷の駅から徒歩で十分くらいのところにあった。

 達郎が会場に足を踏み入れると公開終了時間まで三十分を切っているにもかかわらず意外と人は多く、 それでいて奇妙な静けさと高揚感とに包まれていた。


 受付でパンフレットをもらって(ちなみに残念ながら中年の男性だった)、達郎はゆっくりとそう広くもない会場を回った。絵画鑑賞なんて遡ってみれば中学の課外授業以来かもしれなかったが、存外悪くはなかった。むしろ、心地よくすらある。図書館の空気と似ているからかもしれない。達郎にとって、自分の部屋の次にもっとも寛げる場所だ。どうやら美術館は三番目としてリストアップできそうだ。


 会場の終わり付近、密かに目当てにしていた絵の前についたとき、達郎はまずその大きさと(2メートルは優にある)、 白い壁とのコントラストに目を奪われた。

 こうして目の前にしてみると、印刷では単色に見えた赤も実はさまざまな色が重なり合い、混ざり合い、 絶妙な暗さを演出していることに気がつく。うねる銀色の曲線だけが清らかな神々しさで、浮き出していた。 見ようによっては地獄の釜のようにも見えたが、美しさは確かに存在する絵だった。

 ――イノセント・ジェンダー。無垢な性。どこか強烈な批判を感じるのは俺だけか? 


「その絵が気に入った?」


 ふいにかけられた声はごく穏やかだったにもかかわらず、 達郎は驚きびくっと肩をゆらした。いつのまにかこの絵に見入っていたことに気づく。


「そんなに驚かなくても」


 振り向くと、黒いシンプルなワンピースを着た女が笑っていた。 年は二十代半ばだろうか。顔が小作りで少年のように髪が短く、 しかし横に分けた前髪が目にかかっているせいか大人っぽい――というよりも外国の女性のようなさっぱりとした艶っぽさがあった。

 だがほんの少し、冷えた空気をまとった女だった。少なくとも同世代の女子や、 雑誌に載ってるグラビアアイドルの笑顔なんかとは確実に一線を画しているように思えた。 なにが、どう違うかまでは分からなかったが。


「ごめんね邪魔して」

 と、女はいった。わりと低めで、ゆっくりとしゃべる。

「ずいぶん真剣に見てたから、気になっちゃって」

「はあ、」

「高校生? 美術科なの?」

「はい。いや、 高校生だけど美術科とかじゃなくて……つか、芸術とかむしろ全然わかんなくて」

「へえ。 なのにこんな小さな展覧会に来るなんて珍しいね」

「家庭教師の先生がチケットくれたんですよ。 この個展を開いた人……えっと、」

 達郎は手元のパンフレットを見た。

「一ノ瀬さんって人の知り合いらしくて」


 女は少し目を見開いて、ああ、と納得したように頷いた。


「ああ、なるほどね」

 そして、達朗を頭のてっぺんから爪まで、まじまじと見下ろした。

「……あの、」

 居心地の悪さを感じて達朗は口を開きかけたが、その前に女が今までと打って変わって、ねえ、とフランクに笑った。

「もうそろそろ閉館時間なの」


 そういって女は華奢な腕には不釣合いな、 大ぶりの腕時計をちらっと見た。

 達朗に腕時計の価値はまったく分からなかったが、 緻密な精巧のそれは美しかった。


「よかったら少しだけ――そうだなァ、 十五分くらいロビーで待っててくれない?」

「は?」

「夕飯を一緒にどう? おごるよ。何が食べたい?」

「え……ナンパかよ、」

 思わず達郎が心の声が漏らすと、女は楽しげに笑った。

「そう。ナンパで浮気。ついでにファンの確保ってとこ」

「はい?」

「その絵、わたしが描いたんだ」


 女は颯爽と去り、達郎は背後の絵を振り返った。

 絵画の横にあるタブには、一ノ瀬時子、とあった。





 一ノ瀬時子がロビーに姿を現したのは、十五分どころか三十分を優に過ぎたころだった。

 何度か達郎は、帰ったほうがよくないか? と考え、いやでもちょっと惜しくないか? とも考えながら、 結局しつけの行き届いた犬のように待っていた。柄にもなく高揚していたからだ。

 生まれて初めて、 芸術というものに触れた気がした。今までは“お高く”額縁のなかに収まっているものにしか見えなかったのに、 それがさっきは、おそろしい迫力と生々しさを伴って襲ってきたのだ。


「もう帰ったかと思った」


 ようやく出てきた時子は、達郎の顔を見るやいなやそういった。 それはないだろ、と達郎は密かに思ったが、顔には出さないように気をつけた。礼儀ではなく、意地として。

 時子はさっきとは違って濃いグレーのタンクトップにジーパンという、カジュアルな格好だった。だがその飾り気のなさが逆にスタイルの良さを引き立てている。足元は先ほどと同じ、赤いパンプス。コツコツと軽やかな音を立てて時子は出口へと先だって向かった。


「ごめんねー長谷川さんに捕まっちゃって。行こうか?」


 長谷川さんって誰だ、と達郎は思ったがとりあえず頷いた。

 外に出ると日はもう沈みかけていたが、むっとした熱気はそのままに押し寄せる。肌のまわりにもう一枚、 皮膚ができたような感覚。夏特有の気だるい夕暮れ。 前を歩く時子を見ながら達郎は、首が涼しそうだな、と思った。力こめたら簡単に折れそうだな、とも。


「なにが食べたい?」

 首だけを傾けて時子が尋ねる。

「なんでもいいっすよ」

「じゃあ、そうねえ。カエルのから揚げと味噌煮込みとかどう?」

「は!?」

「冗談、冗談。イタリアンにしよう」


 この人ちょっと変わった人だ、とそのとき初めて達郎は気づいた。

 美術館の駐車場に回ると、時子は立ち並ぶバイクの中でひときわ目立つ鮮やかな青い塗装の400ccバイクに荷物を降ろした。てっきりその隣の白いスクーターだと思っていた達朗は密かに驚いたのだが、バイクに跨った時子はなかなか様になっていた。


「友達から予備のメット借りてきたから。これ使って」


 バッグから出されたヘルメットを被り、達朗はこわごわ時子の後ろに腰を下ろす。

 女性が運転するバイクの後ろに乗るのは初めての経験だった。それをいうならバイクに乗ったのも初めての経験だったのだが。


「もう少し、しっかり掴まってくれる?」

「はあ……」

「大丈夫、大丈夫。怖くないからねー」


 からかわれていることに憮然としながらも、腰にまわした手にほんの少し、力を込める。 微かにバニラのような匂いが鼻先をくすぐった。ひどく居心地が悪いのはきっと女の後ろに乗っているからだ、 そうに違いない、と達朗は何度も自分に言い聞かせた。





 連れて行かれたレストランは美術館からほど近かったが、到着したとき達朗の精神は八割ほど磨り減っていた。 初めてバイクに乗ったからなのか、大雑把すぎる(と感じた)時子の運転のせいなのかは判断がつかなかったが、 とりあえず俺はバイクの免許なんて取らないでおこう、とだけ達朗は決心した。

 レストランはこじんまりとした、比較的アットホームな内装と雰囲気の店だった。 時子は先に立って入ると、入り口のボーイに「予約していた一ノ瀬ですが」と声をかけた。 それを耳にして達郎はようやく、なぜ彼女が自分を誘ったのかということに気づいたのだ。


「いいんですか?」

 席について注文を済ませてから、達郎はそう尋ねた。

「なにが?」

「本当は誰か他の人と来るつもりだったんじゃないかなと思ったんで」

「敬語、使わなくていいよ。苦手なの」

「どーも……で、彼氏とか?」


 時子は目を細めて食前酒に口をつけ、飲んだ後にグラスのふちについた口紅の跡を親指ですっと拭った。 その手慣れた仕草に、達郎は妙にどぎまぎした。


「いいじゃない誰でも。素直に、おいしいものにありつけた事を喜びなさいな」

「はあ」

「それより、君の話を聞かせてよ」

「話? って、何の」

「何でもいい。学校のこと、家のこと、好きな女の子のこと」


 達郎は戸惑いつつ、話した。

 学校は普通。良くも悪くもない。家は母子家庭。父親は幼い頃に他界して、 鬼ババのような母親が一人で育て上げてくれている。好きな奴はいない。今のところ。


「告白されたことは?」

「ない。大体うち、男子校だし」

「毎朝、電車で会う女の子にある日――とかないの?」

「少女漫画じゃあるまいし……別にないよ、そんなん。俺、もてねーし」

「君、会場で目立ってたよ。なんていうのかな、シャープで……ああ、姿勢がいいからなのかな」

「ずっと剣道やってるから。だからかも」

「君みたいなタイプってねー若い頃はストイックな感じなんだけど、 年を取ったら男の色気が出てくるのよね」

「い、色気……?」

「楽しみねえ」


 色鮮やかなサラダを口に運びながら時子は含み笑った。一物ありそうな顔と裏腹に、流れるような美しい仕草だった。

 絵を描くときも、この人はこんな風にきれいな手つきなんだろうか?

 そう思ったと同時に、時子の絵を見たときの衝撃を思い出した。

 そうだ。いわばこの衝撃を彼女に伝えたくて、三十分も犬のように待っていたんじゃなかったか。


「あんたの絵さ、」

 内心で高揚感が湧き上がるのを感じながら、達郎は口を開いた。

「すごく、よかったよ。何がどうってのは、分かんねーんだけど。でも良いってことは分かった。 絵に魅入ったのなんて初めてだったんだ」

「ん、ありがとね」


 ……それだけ?

 少々拍子抜けしたが、達郎はめげずに話を続けた。


「ああいうのって、抽象画? だっけ?」

「君が見てたのはね。他にも色々。基本的には描きたいものを描いてる」

「人も描いたりすんの?」

「人は描かない。そう決めてるの」

「なんで?」

「なんででしょう」


 時子はマッシュルームスープを一口、スプーンで口元に運んだ。 それから悪戯っぽく笑って、垂火に聞いてみたら、といった。


「あいつとは昔馴染みなの。そういえば垂火の教え子だって? 教え方うまいでしょ。 わたしもよく勉強見てもらったりしてたから」

「うまいよ。スパルタと、あの人を莫迦にしまくった態度さえなけりゃ、もっといいんだけど」

「無理でしょー。あいつ性格曲がってるし。君、からかいやすいし」

「からかってるのはアンタらだけなんですけど、」

 時子は、ふっと口元をほころばせた。

「まァ、ああ見えて面倒見はいいから。 教師としてはいいと思うよ」

「はあ」


 とあいまいな返事をしながら達朗は、もしかして今日ここに座るはずだったのは垂火か? と滅多に働かない勘を働かせていたのだが、 口にはもちろん出さなかった。

 あの家庭教師の恋愛事情なんて別に知りたくないし、 すっぽかされてるんならむしろ良いザマだ。彼女がいったとおり、自分は美味しいものにありつけた幸運を素直に喜ぶとしよう。

 メインの羊肉を前に、達朗はそう心に決めた。





 それから食事を終えて支払いを済ますまで、時子はよく喋り(自分のことではなく、 達朗への疑問や応答などだったが)、何度か声を上げて笑ったりもした。 思ったよりも明るい人だな、としか達朗は思わなかったが、垂火ならばこのときの時子がいわゆる躁鬱症の躁の状態だとすぐに気づいただろう。


 レストランを出るとき、時子は初めて携帯を取り出してちらりと見た。 後ろを歩いていた達朗からはちょうど待ち受け画面が目に入ったのだが、白と黒しかない、質素で不可思議な絵だった。

 緩やかなカーブをえがく白い階段の上に女らしき黒い人影が身を乗り出すようにして座っていて、背後には薄闇の空がある。 それだけの絵だが、妙に脳裏に焼きつく絵でもあった。美術館でわずかに研がれた感性が戦慄的な危うさを感じ取ったからだ。


 何年か後に達朗は、その絵がレオン・スピリアールトの代表作である『めまい』だったと知るのだが、 この時にも感じたように携帯の待ち受けにするような絵じゃないように思えた。 と同時に、当時の時子の心情を窺い知るに足る絵だとも思った。




 外に出るとすでに陽は沈みきり、帰り損ねたカラスが一羽、電柱の上から物憂げに地上を見下ろしていた。

 達郎の記憶が正しければ時子は食前酒に口を付けていたはずだが、彼女は至極あたりまえの顔で達朗にメットを差し出すとエンジンをかけた。 まったく酔っていないのは見てわかる。なので達郎も内心ではオイオイと思いつつ、黙ってメットを被り後ろに座った。


「どこに行こうか」


 さっきと違って今度はゆったりと走らせながら、時子が風に負けないくらいの声でいった。 ん? と達朗は後ろで首をかしげる。


「どこって?」

「どこに行きたい?」

 達郎はうろたえて今度こそ、オイオイと口に出した。

「今からどこか行くって? コレ、そういう話?」

「海なんてどう。日本海とかいいよねー あの荒々しい波しぶきは粋だと思うのよ」

「日本海って、このバイクで……? つーか、なんで海」

「新潟ってどれくらいで行けるかなあ」

「なあ、会話はキャッチボールって言葉知ってる?!」

「それともそこの」


 と、その瞬間に急停車したので、達郎は大きく前につんのめった。もはや叫び声に近い声量で達朗は、 オイオイオイ! と叫んだ。すぐ傍を怪訝そうな顔をしたカップルが通り過ぎる。


「やっぱり酔ってんのかアンタ!!」

「なにいってんの、あれはノンアルコールよ」

「え。いや、それならそれで、」

「そこのホテル、行こうか」

「安全運転をさ…………え?」

「いったじゃない。ナンパで浮気、ついでにファンの確保だって」


 つまり、何だ? というか、この状況は何だ? と混乱気味の達郎をよそに、時子は乱暴な仕草でヘルメットを脱いだ。 そして、ひどく真面目な顔で達朗を振り向いた。 ちょうどさっきのカップルが安っぽいラブホテルに入っていくのを達朗は目の端で捕らえた。


「残っているのは何でしょう」


 ふっくらとした唇がそう囁き、微かに口角を吊り上げた。





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