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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
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第一話 - 『2004年、夏』



 達郎が初めて垂火たるひ恭平に会ったのは、高校二年の夏休みのことだ。


 それなりにハイランクな大学の研究科に籍を置く垂火と、もしかしたら平均以下かもしれない高校に通う達郎は、それぞれが普通にすごしていれば接点などないはずだったが、世間一般の母親がそうであるように達郎の母親は息子の成績を憂いていたし、達郎もまた世間一般の高校生がそうであるように、一年後に訪れる受験に対して何も考えていなかった。


 家庭教師を頼みました。と、母親が朝食の席で声も高らかに宣告したのは夏休み初日のことだ。 あらゆる反論はことごとく却下され、達郎はさっさと家出しなかった自分を呪った。


「垂火恭平と申します」


 玄関の敷居で、にっこりとそう微笑んだ家庭教師は、いとも容易く母親の信頼を得た。 自然な色合いの黒髪はどことなく誠実さを演出していたし、ほどよく流行に乗った服装は洒脱な印象を受けた。 だが、せめて女子大生を切望していた達郎にとってその要素は厭味でしかなかったし、 自分の母親が若い男に頬を赤らめる場面は、見ていてかなり微妙な気持ちになった。


「まず一ついっておくけど」

 と、達郎の部屋で母親が出した紅茶を飲みながら垂火はこういった。

「優しくものを教えるのは苦手なんだ。死ぬ気でついてきてネ」

 達郎はもう一度、心のなかで自分の運命を呪った。




 家庭教師は一分の狂いもなく毎朝十時に達郎の家を訪れ(それも彼の評価を上げた)、 母親の世間話をうまく交わしたり適当に付き合ったりしながら、十二時前後には帰る。 そしてまた三日後の朝十時きっかりに訪れる。


「大当りの先生じゃないの」


 月・木の週二回、 母親の朝は早い。仕事に出る前に家中を磨き上げるからだ。 つやつやに潤った唇で得意そうに笑う母親をじっとりと見ながら、 達郎はしゃくしゃくとコーンフレークを咀嚼した。


「教え方はどう? 学校の先生と、どっちが分かりやすいの?」

「まァ……悪くはないんじゃねーの」


 それどころか、うまいといっても差し支えなかった。相当なスパルタではあるが。 今まで一ミリたりとも理解できなかった数式が理解できたとき、思わずガッツポーズをしてしまったのは記憶に新しい。 あまり話したくない事実だ。

 しかし実際に近い未来、 三学期最初の実力テストで達郎の成績は本人すら予想しなかったハイジャンプを遂げたので、 たしかに家庭教師として垂火恭平は“大当り”だったのだろう。

 能力と人間性は、また別物であるのだが。





「お前の脳みそはスポンジですか?」


 丸めた参考書でパシパシと自分の肩をたたきながら、垂火はそう毒づいた。言葉が刃物なら間違いなく致命傷のするどさだ、と達郎は思う。


「俺が思うに、前回まったく同じ単語が出たよな。 なんで英単語ひとつまともに覚えられないかねーどうせグラビアアイドルのスリーサイズとかは言えるんだろ?」

「いや、言えねーし」


 スリーサイズとか、と言いかけたが睨まれたので断念した。問題集を見下ろして、 ひたすら『Avoid=回避する、免れる』を頭にたたきこむ。いつものごとく、じゃあ例文をひとつ作ってみろといわれたので、 達郎はしどろもどろにこういった。


「アイドゥライクトゥー・アボイド・ユアレッスン、アズ・スーン・アズ・ポッシブル (出来る限り早くあなたの授業を免れたいです)」

「…………正解」

 危うく窒息しそうな沈黙のあと、垂火は低くそういった。




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