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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
2/29

2011年、深夜①

恋愛小説ですが、文体はやや硬質な感じ、糖分はあまりありません・・・。

今、自分にあるだけの力を全て注ぎ込んだ作品です。

まだ連載は始まったばかりですが、少しでも長くお付き合いいただけたらなと思います。

 

 

 月のない夜だった。

 かといって、では今夜は星々が主役かといえばそうではなく、光は地上のものだった。


 金曜の夜の新宿は、今からが一日の始まりといわんばかりに賑わっている。人、人、人の群れ。 その群れの中を早足ですり抜けながら、草薙達朗は携帯を取り出して時間を確認した。約束より少し早いが、待ち合わせの相手はおそらくもう来ているだろう。昔から時間には正確な男だ。

 『ARIA』と書かれた看板を見つけ、達朗は携帯をコートのポケットに仕舞う。 半地下に降りて重厚な扉を開けると、奥のカウンターに呼び出した相手はいた。 背中しか見えなかったが、一目で彼だと知れる。

 達郎が黙って隣に腰掛けるとその男、 垂火(たるひ)恭平は頬杖をついたままゆっくりと達郎を見て、 少し笑ったようだった。


「いくつになったんだっけ」

 垂火がたずねた。

「二十四。今年で五」

「マジかよ。二十八くらいかと思った。相変わらず仏頂面だからさ」

「あんたは全く変わんねえな。ヒアルロン酸とか注射してんの」

「驚いたわ。皮肉がいえるようになったんだな」


 実は半ば本気でいったのだが、軽くいなされた。本当にあの頃とまったく変わっていないように見えるのは、 どういうわけなんだろうか。

 初めて垂火恭平にあったとき、達郎は十七才だった。世界で一番手に入れたい人がいて、世界で一番この男が憎らしかった。 あれから年月は矢のように過ぎ去り、今、自分はあの頃の彼らと同じ年齢になっている。にわかには信じられない事実だ。

 垂火が片手をあげてバーテンダーを呼んだ。達郎はジントニックを頼み、 煙草に火をつける。そして皮肉っぽい笑みを浮かべてみせた。


「とっくに俺の携帯番号なんて消してると思ってたよ」

「一言、お祝いがいいたくてね。今をときめく新人作家がむかしの教え子だなんて、鼻が高いだろ」

「その節はどうも…」

「色々教えてやったなぁ。煙草とか、上手なキスの仕方とか」

「教わってねえよ、適当いってんじゃねー」


 バーテンダーの若い青年が、なにか可哀相な視線をちらりと向けてきたので、達郎は低くすごんだ。

 垂火はちょっと笑って(その笑った顔が昔に比べてずっと柔らかく見えたことに達郎はひそかに驚いた)、 カウンターの艶やかな黒いテーブルをコツコツと爪で鳴らした。


「読んだよ、おまえの書いた本」

「へえ。どうだった」

「あんな地味な話でよく賞が取れたもんだと感心した」

「奇遇だな、俺もそう思う」

「暗いし、重いし、回りくどいしね。あと解説してた評論家、 俺キライなんだよな」

「個人的なことは置いとけよ?!」

「まあでも、よかったじゃねーの。夢が叶って」

「……この先どうなるかは、まだ分かんねえけど」

「大丈夫だよ。地味で荒削りだったけどいい話だった。孤島で図書館を営む未亡人と、司書の求人を見て訪れた青年。 彼女の死んだ旦那は気に食わなかったけどな。皮肉屋で、絶妙にひねくれた感じの」

「モデルはあんただけどな」


 垂火は、うっそォ、と女子高生みたいなわざとらしい声をあげた。

 外見と同様に、 こういうふざけた誤魔化し方も変わっていないようだ。


「そういえば冒頭で引用されてたボルヘスの詩だけど」

「ああ、あんたがくれた本にあったヤツだよ」

「少し驚いた。懐かしくて」

 垂火はくぐもった声でそっと、独り言のように口ずさんだ。



    人気ない広間で、沈黙を守る

    書物は時間の中を旅する。

    背後に取り残された夜明けと夜の時刻、

    そして私の生、この慌しい夢。



「俺は、ハッピーエンドになるんじゃないかと思ってたよ」

 少しの沈黙の後、垂火が呟いた。

「哀しい結末は現実だけで十分だろう?」





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