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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
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第二十五話 - 『死者との記憶、生者との対話』

 

 そうやって市川圭輔が残りの寿命を愁いていたころ、当の垂火は墓地にいた。

 雪の気配を肌で感じる冷え切った午後、墓地にはまったく人気がなかった。


「つい数日前、時子さんも来られましたよ」


 顔見知りの住職は穏やかな声でそういって、血管が青く透けた指をついと向けた。 立ち並ぶ墓石のうちのひとつに、目の覚めるような真紅の花が寄り添っている。 近づくと、まだ真新しいダリアが添えられていた。 時子は毎年、墓場にそぐわないような派手な色合いの花ばかりを飾る。

 花立ての水を変え、垂火は丁寧な手つきで持参した白菊をダリアの背後に飾った。空からは音もなく、同じ清らかさを持つ白い雪が舞い落ちてくる。 雪の降る様を“しんしん”と最初に表現した人間は、世界でもっとも優れた詩人にちがいない。

 墓石の前にしゃがみ、垂火は静かに語りかけた。敬謙な修道士のような眼差しで。


「時生さん、久しぶり」

「今年も来たのか、垂火」


 と、そんな揶揄を含んだ笑い声が聞こえた気がしたが、もちろん願望が作り出した幻聴だ。死者は語らないし、笑わない。死者が持っているものは骨と沈黙だけなのだから。

 西からの突風が勢いよく墓地を駆け抜けて、思わず垂火は目を閉じた。すると十代の頃の記憶が、海馬から風とともに頭の中を吹き抜けた。



『俺が好きなんだろう?』

 そう一ノ瀬時生はいった。捕食者の余裕を浮かべながら。

『知ってるよ。俺が好きなんだろう?』

 愛する者を誰が欺くことができるだろうか。

 古いラテン語の教訓にあるように。誰もがそうであるように。

 垂火は莫迦正直に、そうだと答えた。時生は笑った。

 震え上がるほどの酷薄さがそこにはあって、背筋が急速に冷えるのを感じた。



 一ノ瀬時生という人間を思い浮かべるとき、イチジクの木に絡みつく蛇のイメージつきまとう。外見から受ける印象は柔和で清廉であったが、それは単なる顔の皮一枚の話でしかなく、それどころか実際はずっと狡猾で屈折した男だった。

 だが、稀有な人間ではあった。 おそらく目に入るもの、耳に入るものの殆どをあの男は理解できていたに違いない。 気位が高く、頭が切れて、空恐ろしいほど人心掌握の術に長けていた。 他者の望む“自分”を察し、演じることにかけて天賦の才があったのだ。もしかしたらそれは生きていく上で、後天的に身につけたものかもしれない。

 そんな、どうしようもなく難儀な男でお世辞にも善人とはいえなかったが、それでも唯一、妹だけは愛していた。 強烈に、潔癖に。


 時生に宿る愛情の全ては、時子にのみ寄せられていたのだろう。 あの捻くれた男が血の繋がった妹にだけは、なんの裏表ない笑みを惜しげもなく見せていた。 だがその妹に見せていた顔が果たして真実だったのかは、もはや知るすべもない。 というのも垂火から見て時生はどこか、良き兄であることを使命のように思っている節があったからだ。

 俺にはどうだっただろう? と、その後何度となく垂火は思い返した。

 あの男は、俺にはどんな顔を見せていただろう? 他の人間に対するほどには己を飾り立てていなかったが(というのもおそらく、メリットがなかったからだ)、 あれが素顔だったとも思えない。だとすれば、あまりに歪んでいる。 そうして結局、顔の無い男のまま彼は死んだ。

 死者はなぜ美化されるのだろうか。本当に、お世辞にも善人とはいえなかった。 傷つけられたし、否定された。 なのになぜ今思い出せるのは、僅かばかりの微笑みだけなのだろうか?




--------------------




 疲労を引きずり、一時間半の運転の末ようやく代々木にある自宅マンションに着いたとき、既に陽は落ちていた。 玄関ロビーの自動ドアを開けるために鍵を差し込んだとき、ふと背後に気配を感じた垂火は肩越しに振り向いた。


「あんたに訊きたいことがある」

「テレビのいうことは半分信じておくべきだな。たしかに最近、ストーカーになる若者は多いらしい」


 皮肉をたっぷりと沁みこませて垂火がそういうと、達朗は赤くなった鼻をすすった。 果たしていつから待っていたのか、耳朶も同じ色に染まっている。

 達郎は未だかつてないほど真剣な顔をしていた。だが、垂火にとってそんなことはどうでもよかった。 もう息をするのすら億劫だったのだ。昨日は徹夜で論文に掛かりきりだったし、 それでなくとも“今日”は毎年、体調不良に陥る。 今すぐにでもアルコールを呷ってベッドに倒れこみ、夢も見ずに眠りたかった。


(それなのになんでこのクソガキは、こんな時間にこんなところに居るってんだ?)


 苛立ちを募らせて垂火は目の前の“クソガキ”を睨んだ。 そのジェイソン並みの凶暴な目つきに達郎は一瞬ひるんだが、それでも退こうとはしなかった。 今を逃せばもう二度と、この男に面と向かって立ち向かえる気がしなかったからだ。


「あんたと話したいことがある。今、すぐに」


 垂火は肺からフーっと息を吐き出した。丸二日かけて蓄積された疲労が、四肢の隅々に蹲っていた。

 世の中には知らない方がいいこともあるんだよ、と彼は心のなかで呟いた。 そんなことも、この子供はまだ知らないんだな。

 自動ドアを開け、エレベータへ向かいながら垂火は顎をしゃくった。


「来いよ。熱いコーヒーくらい飲ませてやる」



 部屋に入ると垂火は大雑把な仕草でソファの上にジャケットを投げると、キッチンに立った。 モデルハウスにあるような近未来的なオープンキッチンは美しかったが、手入れが大変そうだというのが達朗の第一印象だった。 家具はスタイリッシュなデザインで、モノトーンで統一されており、そのため観葉植物の生きた色が目を引く。

 達朗の部屋のように壁にポスターが何枚も張られてはいないし、雑誌類が山積みにされてるわけでもない。 全てはあるべき場所にあるべき配置で収められていて、住人の几帳面さを垣間見せていた。


「ここ、一人で住んでんの?」

「そうだよ」

「あんたって金持ちだったんだな。なんで家庭教師のバイトなんてしてんの」

「俺じゃない、親が金持ちなんだ。羨ましいだろ」


 温度のない声でいってから、垂火はコーヒーの入ったマグカップを両手にソファに座った。 ひとつは達朗に渡し、もうひとつはソファの前にある低いテーブルに置いた。


「それで? 何が訊きたいって?」

「あんたがホ……ゲイって本当なのか」

「本当だよ。前にいったろ」

「いってねえよ」

「いったよ。男が好きだって」

「……マジとか思わねーだろ、普通」

「で? そんなことをわざわざ確認しに来たわけ? 安心しろよ、 間違ってもお前の貞操を奪ったりしねーから。俺にだって好みがあるんだ」

「あの人の気持ち、知ってるよな」


 誰のことだ? と惚けられる空気でもなかったが、素直に頷く義理もなかったので、垂火はその中間を取った。 つまり黙ってコーヒーを飲んだ。


「最初から、なんか変だとは思ってたんだ。うまくいきすぎてた。あんたは仕組んだんだ。展示会のチケットをくれたのも、 ユーフォリアの場所を教えてくれたのも――違うか? 違わないよな、 あんたみたいな人間がメリットもなしに俺の恋路を手伝ってくれるわけないもんな?」

「ユーフォリアのことを教えたのは、お前が時子と寝たと知ったからだ。 展示会の件は別にそんな画策、しちゃいなかったさ。 だってまさか初対面の、しかも俺の知り合いの女とベッドインするなんて思ってなかったし? ストイックかと思ってたけど意外と肉食系なんだな」

「……ッ! あれは、俺も後悔してる」

「なんでだよ。結果的に全て、お前にとっちゃ棚からぼた餅だっただろ? 好きで、 手に入れたいんだろ? なら手段は選ぶなよ。俺がいなきゃ時子にとってお前はあの夜一晩きりの付きあいで、 一週間も経てばキレイサッパリ忘れられるような存在だったんだから」

「あんた……まともじゃないぜ。男が好きならさっさと身を引けよ。 いつまでも思わせぶりな態度とってんじゃねえ。あの人は本気だよ。本気であんたみてーなどうしようもない男が好きなんだよ。 俺よりあんたの方が知ってんだろ!?」

 今にも起爆しそうな怒りを押し殺して達が叫ぶと、垂火は目線をマグカップに落とした。


「昔、好きな人がいたんだよ」

 全く脈絡のない言葉に達朗は怒鳴りかけたが、寸でのところで我慢する。

「死ぬほど好きだったんだが、俺が死ぬまえに向こうが死んだ。それで俺は死んだそいつに勝手に誓った。 時子を守るってね」

 彼がこの世で唯一慈しんだ妹を、俺が代わりに守ると。

「葬式があった日、時子は俺を好きだといった。 もちろんあいつは当時から俺が同性愛者だと知っていた。それでも好きだといったんだよ、泣きながら。 あいつらはこの世でたった二人の家族だったんだ。 その片割れが死んだその日に、時子は俺に好きだっていったんだ」


 そこまで話して、垂火は煙草に火をつけた。エアコンは動いているはずなのだが、 やけに寒くて話すたびに喉が凍りつくようだったのだ。煙でもいいから熱がほしかった。 もしかしたら風邪でもひいたかもしれない。


「時子は返事を求めなかったし、俺は返事をしなかった。 そのまま時は優雅にも過ぎ去り、俺たちはこうして未だにどっちつかずのままってわけだ。 ……たぶんお前が思ってるほどね、俺たちはイノセントな関係じゃないんだよ。 俺には俺の、時子には時子のエゴがある。あいつは俺の性癖を知ってなお傍に居たいと望んでるし、 それは俺の望みとも一致してるんだ。だから俺たちはこの関係を続けてる。 プラトニックな恋人同士を真似た、依存関係を。俺たちは共犯なんだ」

 一口だけしか吸っていない煙草を、ガラス製の灰皿にゆっくりと押しつける。

「これで満足か?」


 そういって垂火は、口角を僅かに上げた笑みを向けた。 すこしでも付き合いの長い人間なら、その笑顔の裏に途方もない遣る瀬無さが渦巻いていることに、すぐ気づいただろう。 もちろん達郎も気づいた。


「わかったら帰れよ。頼むから」

 吐き捨てるような言葉にしばらく達朗は逡巡していたが、やがて腰を上げた。

「俺には理解できねえよ。理解したいとも思わない」


 玄関のドアが閉まる音が聞いてから、垂火はソファに仰向けに倒れた。 身体は疲労していたが、今夜もまた熟睡できそうにない。

 自己嫌悪。

 精神を蝕む毒のひとつである。







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