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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
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第十八話 - 『俺だったら』

 

「オレンジジュースと紅茶とコーヒー、ビール、冷酒、ワイン、どれがいい?」

「オレンジジュースで……」


 初めて訪れた時子の家の居間で、達朗は身を硬くしたままそういった。 時子はグラスに並々とオレンジジュースを注ぎ、自分はコーヒーを片手に正面に座った。


「ねえ、正座くずせば」

「あ、うん」

「座布団、使いなよ」

「うん」

「そんなに堅くならなくても、いきなり銃ぶっ放したり押し倒したりしないよ」

「……ハイ」


 達朗は座布団の上にあぐらを掻いた。

(莫迦か、俺は。なに緊張してんだ、不審に思われちまうだろ……!)

 と彼は必死で自分にそう言い聞かせたが、既に不審に思われていることには気づいていない。 うろうろと視線を泳がせながら話題を探していると、棚に乱雑に詰めこまれているデッサン帳が目に入る。


「あれってデッサンのやつ?」

「うん。見る?」

 濃緑のデッサン帳を時子は何冊かを適当に引き抜いて、畳のうえに投げて寄越した。

「……時子さんって見かけによらず結構ガサツだよな」

「育ちが悪いもので失礼」


 一番近くに落ちた一冊を達朗は手に取った。表には鋭角な文字で、《 1997年①》とだけ明記されている。

 白い紙の上には、石膏像が澄ました顔で様々な角度から描かれており、他にも花や果物といった静物画が並んでいた。 ただの濃淡な線の重なりや交わりが、どうしてこんな風になるのか達朗にはまったく理解できなかった。

 そうやって次から次にページをめくっていると、呼び鈴が鳴った。誰か来たらしい。


「宅配かな。ちょっと出てくるね」


 玄関へと向う時子の背中に達朗は生半可な返事をして、次のデッサン帳に手を伸ばす。 そして、あらかた見終わったとき、ひとつの事実に気がついた。

 人物画がひとつもない。


「そういえば、まえにいってたな。人は描かないとか」


 ひとりごとを呟きながらデッサン帳を元にあった場所に仕舞おうとすると、一番下の棚に、 あと数冊同じメーカーのものらしきデッサン帳を見つけた。 達朗が引き寄せて見てみると、他のものと違ってその三冊のデッサン帳の濃緑の表紙には、何も記載されていない。

 ページをめくると、そこには俯きがちに本を読んでいるセーラー服を着た女生徒の姿があった。 少し予感していた通りに、どうやら人物画専用のデッサン帳らしい。 同級生だろうか、他にも学ラン姿の少年や少女たちが紙の上で一瞬の青春の煌めきを宿している。 頻繁に出てくる青年は先日、写真で見た時子の兄だろう。

 その中に見知った顔を見つけて、達朗は手をとめる。


「店長……おそろしく変わんねー」


 背景はないが、着ているエプロンでユーフォリアに居るときの小夜だとすぐに知れる。 髪型こそ今とは少し違うものの、その他はむしろ違いを見つける方が難しいほどだ。 実際のところ、あの人いくつなんだろうな、と考えながら次のデッサン帳を手に取った達朗は、 最初のページをめくった瞬間、右手を僅かに硬直させた。


 そこには自分と同年代に見える垂火恭平が、頬杖をついた横顔をあらわにしていた。退屈そうな、眠たそうな横顔。しかし次のページでは、破顔した笑みを浮かべている。

 止まりかけていた指を再び動かす。結局その一冊は全て、垂火しかいなかった。いつもは馬鹿にしたような笑みか、もしくは人畜無害な好青年の顔しか見せない家庭教師も、白い紙の上ではまだ幼さを残していた。

 時子が戻ってくる気配を感じたので、達朗は慌ててデッサン帳を全て元あった場所に押し込んだ。




「もう参るわ。新聞の勧誘って、何であんなにしつこいかなー」


 戻ってくるやいなや時子は、疲労と苛立ちを交えてドサリと畳に腰を下ろして胡坐をかく。達朗は適当に同意の声を洩らした。時子がちらりと棚の一番下に目をやったことには気づいていない。


「なあ、人は描かないっていってたよね」

「よく覚えてるね」

「なんでか訊いてもいい?」

「ダメ。くだんない理由だから。ちなみに、そこにあったのは高校時代のヤツ。 卒業してからは課題でしか人は描いてない」


 その言葉に、達朗は慌てて勝手に見たことを謝ったが、時子は気にしていない風に軽く片手を振った。


「高校か…そういえば、達朗も高校生なのよね。なんか、たまに忘れるけど」

「いいよ、忘れて」

「十代って不思議よね。たった一年が、大人になってからの十年よりも濃密な気がする。 何もかもが退屈だと思ってて、でも実際は何もかも新鮮なだけなんだよね」

「そうかなぁ」


 個人的に、同年代のクラスメイトを見ていてそうは思えなかったので達朗が呟くと、時子がふいに手を達朗の顔に伸ばしてきた。予期せぬ接触に達朗の心臓は突如として、うるさく騒ぎはじめる。パブロフの犬のように。条件反射で、あの夜に触れた肌の温度を思い出す。


「卒業したら分かるよ、今がどんなに恵まれた環境か」

「そう、かもな」

 と適当に同意しながら、頬に触れていた指先からさり気なく逃げる。 その頬がわずかに赤くなっているのに気づき、時子は思わず吹き出した。

「ごめ、はは、かわいい」

「かわッ……!? からかうなよ!」

「ごめん、ごめん。なんか駄目ねえ、高校生の男の子と話す機会なんてここ数年なかったから緊張しちゃって。 ジェネレーションギャップってやつかなー」

「それ、絶ッ対に嘘だろ!」


 チェシャ猫のような笑みを浮かべて、時子はジーンズのポケットから煙草を出す。 百円ライターが一瞬火を点し、すぐに消える。もはや手馴れた仕草だった。


「うまい?」

「まずい」

「じゃあ、なんで吸うの」

 呆れていった達朗に、時子はわざとらしく格好つけながらしみじみと煙を吐き出す。

「大人になるとねえ、何でもいいから温もりがほしいときがあるのよ少年」

「……何でもって、つまり誰でも?」

 思いがけぬカウンターに、時子はやや目を見開いた。が、すぐに細めるとひっそりとした口調で尋ねかけた。

「そんなに許せない? 愛情の伴わないセックスが」

「分からない。けど、」


 そんなの自分を削るだけだろ。

 と達朗はいうつもりだったが、咽喉の奥に飲み込んだ。その“自分を削るだけ”の行為がそもそもの始まりだったことを思い出したからだ。 自分がいっていい台詞ではない。

 その代わり、出会ってからこの数ヶ月の間ずっと疑問に思っていたことを口にした。 まぶたの裏にはまだ先ほど見たデッサンがこびりついていた。

 頬杖をついて、虚空を見詰める横顔。歯を見せた照れくさそうな笑顔。

 丁寧な黒い線の集合体が作り出した、時子の目から見た垂火恭平。

 髪の一本一本にいたるまで、触れれば溶けそうなほど甘やかな思慕に満ちていた。

 ひしひしと伝わってきた濃密なそれに心臓が押しつぶされそうだった。



「告白、しねえの?」

 “誰に”とは口にしなかったが、もちろん時子は補語が誰を指すのか理解した。

「したよ」

「えっ、いつ?」

「高校のときに」

「……でも、今も好きなんだよな」

「質問ばかりね」

「俺だったら、」

「あ、そういえば本。これね」


 勢いよく口を開いた達朗を時子は絶妙なさり気なさで遮り、 本棚からカバーの擦り切れた文庫本を抜き出して渡した。


「あ、ありがとう」

「わたしが好きなのはね、呼吸できる水の中にいる女の人のエピソード。 髪を揺らして音楽を奏でるの。めちゃくちゃでしょ」

「なにそれ、すごい」

「返すのはいつでもいいから」

「うん、ありがとう」

 達朗が話を煙に巻かれたことに気がついたときには既に、時子は煙草を片手に立ち上がっていた。

「またね」

 そういってから彼女は、母親のような表情で達朗を見た。




 玄関の鍵を閉めてアトリエに戻ると、しばらく時子はさっきまで達朗がいた空間を見詰めた。 やがてうっそりと立ち上がると居間のテーブルに残された、飲みかけのオレンジジュースを流しに捨て、グラスを洗う。

 ついでにシンクの掃除をしていると、前触れなく動悸がした。 もはや馴染み深い感覚。意志とは無関係に、心臓が早鐘を打つ。

 泡のついたままの手を乱雑に拭き、食器棚からフォートナム&メイソンの紅茶の缶を出した。 以前、海外土産にもらったものだが、今はアールグレイの代わりに刻まれた苔色の草が入っている。

 草とフィルターを巻き紙に乗せて細く巻き、糊のついた部分を舐めて貼りつける。 アトリエの横にある縁側に腰かけ、火を点けた。 一口吸ったとたん、舌が軽く痺れる。だが、動悸は徐々に治まった。

 縁側に座って煙をくゆらせながら、耳を澄ます。垣根のせいで外の様子は一切見えないが、音は聞こえる。 犬の鳴き声、電車の音、かすかに子どもの笑い声。 平和で退屈で、善良なる日々から零れた音の群れ。 そのなかに、低く達朗の声が混じった。


『俺だったら』


 眩しすぎて、沈みかけた夕陽に目を細めた。







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