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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
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第九話 - 『たったそれだけで』

  

「何が?」

 達郎は震えそうになる声を何とか抑えて尋ねた。

「あんな風に誘ったこと。あの日はちょっとどうかしてた。もし君に誤解っていうか、 わだかまりを残してしまったんなら謝るわ」

「……そんなこと聞きたくねえよ」

「じゃあ、なんで来たの」

「会いたかったから」


 ごく素直に口からその言葉が漏れた。 薄々気づいていたことだが、時子のまえで自分はひどく無防備だ。どうしてこうなってしまうのか分からない。

 時子は含み笑った。達朗は気づかなかったが、自嘲の類の笑みだった。


「ねえ、勘違いだったら笑ってほしいんだけど、君はわたしのことが好きみたいに見える」

 達朗は少しうろたえながらも頷づいた。

「一度寝たからって簡単に人を好きになるもんじゃないよ。 初めてでもなかったでしょ? それに悪いけど、わたしは君と付き合う気はないの」


 まるで予め用意されたように、素っ気なく告げられた言葉に心臓がかっと熱を帯びる。

 慣れてるんだ、 と達郎は確信した。つまり、誰でもよかったのだと時子は遠まわしにいっている。 達朗が抱いている想いはセックスに付随したものであって、自分はそれに応えられないと。

 強く奥歯をかみ締める。今ほんの少しでも唇を開けば酷い言葉が口をついてきそうだった。

 落ち着け、と達朗は自分に言い聞かせた。落ち着け。分かっていたことじゃないか、そんなこと。初対面の人間をホテルに誘ったんだ、そりゃ誰だってよかったに決まってる。 そう、垂火の代わりになるのなら誰だって。

 俯くと、手元にあるさっきの紙が見えた。達郎は深く息を吸って、吐いた。

 分かっていたことだ。 分かっていて、それでもこの人に会いたいと思ったんじゃないか。



「知ってるよ。垂火のこと好きなんだって」

 達郎がそういうと、時子は目元に微かな警戒を浮かべた。

「……だから?」

「付き合ってほしいなんて、そんなつもりじゃない。ただ俺はもっと時子さんのこと知りたいし、俺のことも知ってほしい。 理屈で諦められるんなら、わざわざこんなところまで来てねーよ。迷惑かもしれないけど謝るくらいなら、それぐらい許してくれていいと、思う。ていうか別に謝ってほしくて来たわけでもないけど。だから、」

 段々と何がいいたいのか分からなくなってきて達朗が髪をかきむしると、ふいに時子が吹き出した。

「ちょっと、ねえ……自分がすっごい事いってるって分かってる?」

「爆笑するようなことはいってない…」

「はは、すごい。ドラマみたい。あーもう、あんな言い方されたら普通さ、もっとこう……怒るでしょ?」


 それはつまり怒らせたかったってことか? と達朗は少し勘ぐったが、 この場の雰囲気が前のときと同じ親しげなものに変わっていることを感じ取ったので、口にだすのは止めた。 そんなことよりも嬉しさを表に出さないようにすることに、細心の注意を払わなければならなかった。

 正直なところ、この答えがあっているのかどうかは分からない。 だが、今自分がしたいことには違いなかった。


「ねえ、名前を教えてくれる?」

 帰り際、時子がそう尋ねた。 いわれて初めて名乗っていなかったことに気づく。

「草薙達朗」

「くさなぎたつろう」


 時子はゆっくりと発音した。

 その唇に、あの夜は望めば触れることができたが今はこんなにも遠い。けれど、それ以上に価値のあるものを今は見つけた。

 好きな人が自分の名前を呼ぶ。

 たったそれだけで、こんなにも満たされた気持ちになれるということ。






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