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溺れる魚たち  作者: 夏目カガリ
Drowning Fishes
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第八話 - 『Transit umbra, lux permanet』

 

 

 外に出るのを躊躇うほど快晴の土曜、達郎は件の喫茶店を訪れた。

 新学期も始まり、垂火にカードをもらってから実に二週間近くが経っていた。学校が始まったことで垂火との授業は週一回になっている。 授業は相変わらずスパルタだが分かりやすく、母親は実力テストの結果に満足したようだ。 垂火との関係も今までと変わらず、けれどあれ以来会話に時子の名前はまだ出ていない。


 二週間もの間、達郎はひたすら迷っていた。不安要素はいくらでも挙げることができる。

 自分が会いに行くことで彼女を困らせることになるんじゃないか? それどころか、嫌な顔をされたら? これっきりもう会いたくないといわれたら?

 けれど結局、達郎はこうして店を訪れたし、もしSF小説によくあるように未来の自分が訪れてこの先に待ち受ける出来事をつぶさに語ったとしても、 やはりもう一度時子に会おうとしただろう。



 ――っていってもな、普通に考えてタイミングよくあの人が居るとは思えないし……。しばらく通うしかないか。


 などと考えながら、達郎は喫茶店ユーフォリアの扉を開けた。カラン、とカウベルが鳴る。 文明の利器によって冷やされた空気が、心地よく火照った頬を冷やした。

 外観のモダンな雰囲気と裏腹に、内装は古いアンティークで統一されている。 かといって洒脱な風ではなく、アットホームで落ち着いた空間だった。 壁には小さな絵が均等間に飾られている。どの絵も幾何学的な模様が描かれたデッサン風な絵で、おそらくはそれなりの絵なのだろうが、あいにく達郎には子どもの落書きのようにしか見えなかった。


「いらっしゃいませ。一名様ですね」

 正面奥にあるカウンターの向こう側にいた店員が達朗を見て微笑んだ。 三十代前半くらいの若い女で、こげ茶色に染めた長い髪をゆるくサイドで結んでいる。

「お好きな席にどうぞ」

 達郎は少し迷い、カウンターに腰掛けた。テーブルの上のメニューを見て、アイスコーヒーを頼む。 もしかしたら彼女が例の“小夜さん”ではないかと思いながら。

「あの、」

 一ノ瀬さんって人よく来ます? といおうとして、海馬から垂火の言葉が蘇った。


『最近ストーカーになる若者が多いってテレビでいってた』

 ……いや、違う。俺は違うし。

『大抵、皆そういうらしいんだよね』

 …………。


 何といえばいいものか口ごもる達朗を急かさずに、女は柔らかな笑みをたたえたまま待っている。垂火の名前を出していいものかどうか達郎が逡巡していると、店内の奥、おそらくは客用トイレのドアが開いた。

 店員の女が振り向き、つられて達郎が目を向けると一ノ瀬時子が立ち尽くしていた。その表情はつとめて平然としているようにも見えたが、薄く開いた唇は彼女がわずかに驚いていることを示していた。

 時子の顔を見た瞬間、予想していたものよりも遥かに強い恋情が達朗の胸に押し寄せた。

 会ったのはおよそ三週間前だというのに、まるで三百年ぶりに再会したような懐かしさを感じる。

 不可思議な感情だ。恋は一体どこからやって来るのだろう? 内から? それとも外から?

 しかし時子の唇が元のように、きゅっと引き締まったのを見て、達朗は舞い上がっていた心をなんとか地上につなぎとめた。


「垂火……先生から場所を聞いて」

「そう。うん、でしょうね」

「今、話せる?」

「いいよ」

「時ちゃん、奥の席が空いてるからそっちを使ったら」


 二人を交互に見ていた女が微妙な雰囲気を感じ取ったのか、そっと時子に話しかけた。 時子が頷くと、女はおそらく時子のものであろうアイスラテと達郎の頼んだアイスコーヒーを二つ、店内でも奥まった席へ置いた。


「ありがとう、小夜さん」

 時子がそういうと、小夜と呼ばれた女は柔らかく笑った。




 向かい合わせに腰を下ろし、けれど二人とも何も喋らなかった。

 達郎は緊張しながらアイスコーヒーを飲んだ。いいたいことは考えてきたはずなのに、まるで咽喉に弁が出来たかのように、なに一つ口から出てこない。 手持ち無沙汰に、受け皿に乗っていた薄い折りたたんだような形のクッキーを摘み上げる。どうやら、おまけのようだ。


「それね、」

 と、時子が口を開いたので達郎はハッと顔を上げた。

「フォーチュン・クッキー」

 割ってごらん、といわれて半分に割ると、中から小さな紙が一枚出てきた。 開くとそこには米粒ほどの字で、こう書かれていた。


 Transit umbra, lux permanet.

 影は過ぎ去り、光は残る


 悪かったわ、と時子が呟いた。




 

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