14. Black
突き飛ばされた男は、すぐに身を起こそうとするが、その腹の上へ、姉が馬乗りにのしかかった。
爛々と見開かれた目で、ランプを取り落とした両手を、男の喉へと伸ばしていく。
「やめて、お姉様っ」
妹が二人のほうへ駆け寄ろうとしたが、その目の前で、揉み合う姉の身体がぐらりと傾いだ。
そのまま仰向けに倒れた姉の腹部には、淡いランプの光を反射した刃物が突き立っていた。
真っ白な服の中心から、違う色のしみが、じわりと広がっていく。
「お姉様!」
突き飛ばされたときに打ちつけたのか、男は後頭部を押さえてその場にうずくまっている。
私はもう一度暗がりに目を走らせ、足元に転がっていた朽ちた椅子の残骸を見つけた。
崩れ落ちた椅子の足を拾うが、思ったよりも重い。
両手で掴み上げたそれを、うずくまる男の頭めがけて振り下ろすと、鈍い手応えとともに、男の身体は力なく床へと崩れ落ちた。
肩で息をしながら、姉妹のほうを振り返れば、姉を抱き起こした妹が、こちらを見上げている。
「——あなたは、早く、ここを去るべきです」
出口であろう闇の一点を指さした妹の頬には、涙が伝っていた。
「いいえ、あなたたちも一緒に逃げるのよ」
「……私たちは罪を犯しました。もう、外では生きていけません」
その声は、この場の惨状に似合わないほど、不思議に穏やかだった。
「だめよ! 一緒に行くの。その子は私が運ぶわ」
そう言って姉妹のもとへ駆け寄ろうとしたが、足首が何かに掴まれ、床へ膝をついてしまう。
足元を見ると、さっき倒れたはずの男の手が、私の足を握りしめている。
「離しなさい!」
もう片方の足で男を蹴り放そうとするが、信じられないほどの力で掴まれた手は、一向に離れる気配がなかった。
「……!」
妹が落ちていた椅子の脚を拾い上げ、男へと振り下ろすと、男は私の足首から手を離し、その攻撃を防いだ。
「貴様ら!!」
男は血まみれのまま、覆い被さるように妹の身体を押さえつけ、その細い首へと手をかけた。
「——妹から手を離せ!」
助けに入ろうとした私を、一つの影が追い越していく。
腹に刃物を突き立てたまま駆け寄る姉の手には、先ほど取り落としたはずのランプが握られていた。
そのランプを、男の頭部目がけて、力いっぱい叩きつける。
硝子の砕ける音とともに、男の頭髪に火が移り、またたくまに顔全体が炎に包まれた。
くぐもった絶叫が、廃屋の闇を揺らす。
炎は、男の身体から、油の染みた床板へ、朽ちた壁へと、瞬く間に這い広がっていく。
「私は、姉と、ここに残ります」
力尽きたように倒れ込んだ姉の身体を、妹がそっと抱き寄せる。
「……ありがとう。そして、ごめんなさい」
「——っ」
手を伸ばそうとした私を、熱風が押し戻す。
迫る炎の壁が、私と姉妹のあいだを、見る間に隔てていく。
炎に煽られて滲む視界の中で、最後に見えた妹の横顔に、ふと、見覚えのある微笑が浮かんだ気がした。
姉が浮かべていた——あの、恍惚とした表情。
しかし、それを確かめる間もなく、二人の姿は、揺らめく赤の向こうへ、滲んで遠ざかっていった。
*
迫り来る炎に追われるように、崩れた戸口を抜け、外へ転がり出ると、冷たい空気が、肺の奥まで流れ込んできた。
頭上には、暗い空が広がっている。
雲が広がっているのか、月も星明かりも見えない。
振り返ると、屋敷を包む炎が広がりはじめていた。
赤い舌が、夜空を舐め、火の粉が、闇へと吸い込まれていく。
……私は、誰なのだろう。
名前も、ここへ来た理由も、何ひとつ、わからないままだ。
私を逃がしてくれた、優しい妹。
けれど、炎の向こうで最後に見た顔に浮かぶ感情を、いったいどう呼べばいいのだろうか。
私は助けられたのか、それとも——選ばれたのか。
屋敷からの熱風に、思わず後ずさった足元が、水たまりを弾いた。
ひと際強い風が吹き、屋敷を包む炎をさらに巻き上げる。
その風に雲が払われたのか、細い月明かりが差し込む。
今、水面を覗き込めば、そこに私の顔が映るだろうか。
そこに映る顔が、もし——。
私は、水たまりから目を逸らすと、冷たく暗い夜の中へ、一歩を踏み出した。
(了)




