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空白の肖像  作者: 音鳴 凪


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10/14

10. Threshold

 手から放たれたファイルが男の顔に当たり、宙に乱れた紙が舞った。


 うめき声とともに男が顔を覆ってうずくまった隙に、書斎の入り口に向かって走り出したが、扉を開けた瞬間に、まだ完全には回復していなかった足がもつれてしまう。


 廊下へ転がり出た身体は止まらず、向かいの壁にしたたか頭を打ちつけ、目の前が暗くなっていく。


 意識を失ってはダメだ、起き上がって逃げなければ——そう考えながらも遠ざかる意識の中で、左手に鋭い痛みが走った。


 咄嗟に左手に力をこめると、硬い鋭利なものが手のひらに食い込むのがわかった。

 しかし、その痛みのおかげで、霞みかけていた意識が鮮明になる。


「これは……」


 握りしめていたのは、写真立てがあった部屋で拾った鍵だった。

 鍵の持ち手にある葉のようなデザイン部分が、私の手のひらに食い込んでいる。


 部屋の中からは、書類が崩れる大きな物音が聞こえてくる。


 私は立ち上がると、廊下の奥にある扉目掛けて走り出したが、打ちつけた頭に鈍い痛みが走り、左右の白い壁が揺れて視界が定まらない。

 扉はすぐそこにあるように見えるのに、まるで夢の中でもがいているかのように近づけない——。


「……っ」


 とっさに壁へ手をついてこらえると、再び背後から大きな物音が聞こえてきた。

 振り返ると、戸口へ手をかけ、ふらつきながら出てくる男の姿が見えた。


 短く刈り込んだ白髪の生え際から、赤い筋がこめかみへ流れている。

 それを手の甲で乱暴に拭う仕草に、これまでの淡々とした気配はもう残っていなかった。


「くそ! あいつらに監視をさせていたのが間違いだったか。役に立たんやつらだ」


 吐き捨てるようにそう言って男は一歩こちらへ踏み出したが、その足はすぐにもつれ、床へ片膝をついた。


 私は言うことを聞かない膝に拳を叩きつけて立ち上がり、壁にすがりながら扉へ向かうと、ドアノブを回してみるが、びくともしない。


「無駄なことを。逃げられはせんぞ」


 男は鍵がかかっていることを知っているのか、そういって余裕を見せている。

 しかし、鍵がかかっていることは、私も予想していた。


 扉の古風な鍵穴に、手に持った鍵を差し込むと、すんなりと奥まで刺さる感触が伝わってくる。


「貴様! 鍵をどこで——」


 裏返った男の声を背に受けながら、私は扉を押し開けてその向こうへ身を滑り込ませた。



 扉を抜けたとたんに空気が変わった。

 今までの清潔感に満ちたものとは違う、かすかにすえた、埃と湿りの混じったような匂いが鼻の奥に触れる。


 私は急いで扉を閉めると、手探りで鍵をかけた。


 すぐに男の怒声と、ドアを激しく叩く音が響いたが、しばらくすると、足音が遠ざかっていく気配がした。


 ひとまず逃げ切れたことに、ほっと息をついたとたん、消耗しきった身体が、強烈な喉の渇きを訴えてくる。

 ズキズキと痛む頭に手をやるが、出血はしていないようだ。


「——ここはどこ」


 あらためて周囲を見渡した私は、思わず声を漏らしてしまった。


 先ほどまでの白い廊下は消え去り、足の裏に伝わるのは、ざらついて所々が欠けた床の感触。

 どこからか漏れる薄明かりだけが、輪郭の曖昧な闇を辛うじて押しのけている。


 何があるのかも分からない暗がりを手探りで進むと、開いた戸口の先にまた別の空間が続いていて、崩れた壁の隙間から外の光が筋になって差し込んでいた。


 目が暗さに慣れるにつれて、高い天井から下がった煤けた照明の骨組みや、剥がれかけた壁紙、床に散らばったかつて家具だったらしい木の残骸が、少しずつ闇の中から浮かび上がってくる。


 人が住んでいる気配はなく、古びて所々が崩れ落ちた、廃屋と呼ぶほうがふさわしい光景。


 崩れた廊下を抜けた先に、下へと続く階段があった。

 段差に足を下ろすたびに、木が軋む音が響く。


 階段を降りると、埃をかぶった床が広がる空間の向こうに、両開きの大きな扉が見えた。

 扉へ近づくにつれ、隙間から漏れる外の空気を感じる。


「っ……」


 その瞬間、体中に痛みが走った。

 ようやくこの閉鎖された空間から出られそうな気配に、張りつめていたものが緩んだせいだろうか——。


 思わずしゃがみこんだ私の首筋に、ちくりとした感触が走る。


「!!」


 反射的に振り返った先には、白い少女の姿があった。

 その手に握られた注射器の細い針先から、透明な雫がこぼれる。


 なぜ——そう問いただす間もなく、首筋から広がる冷たさが手足の先へと急速に染み出して、膝が自分のものでなくなっていく。


 目の前が闇に閉ざされる中、花のような、果実のような、不思議な香りが、かすかに鼻先をかすめた。



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