第2王子ヒュプノス
ジェマは闇の中にいた。身体が浮遊する感覚。自身を抱き締める腕から感じる魔力には覚えがあった。けれど呼吸が苦しくて、小さな手でその腕にしがみつくことしかできなかった。
「大丈夫だ。すぐにつく。俺には何もできないが、契約者なら、お前を必ず助ける」
その言葉と共に、闇が晴れた。薄暗く、けれどぼんやりとした視界には光が差す。
「契約者! 助けろ!」
「どうしたんだい、ドルゲ。そんなに慌てて……え、ジェマ?」
少し呆れた様子だったヒュプノスは、ドルゲの腕に縋りつくジェマの姿に胸が詰まるのを感じた。足元が、ぐらりと揺らぎ崩れていくような。
「こいつ、呼吸できてねぇ! 早く!」
ドルゲは固まったヒュプノスに叫ぶ。そのままジェマをソファに寝かせようとして、諦めた。ジェマの手は、縋ったままドルゲから離れなかった。
ハッとしたヒュプノスは、手の震えを隠してそっとジェマの肩に両手を載せる。そっと、ゆっくりと。その肩にリズムを伝えるように優しく叩く。
「ドルゲ、そのまま背中を支えていてあげて。ジェマ、こちらを見れるかい? 私の目を見て」
「ッ、かひゅ……ッ……」
「大丈夫。ゆっくり、吐いて」
ジェマが顔を上げると、焦点の合わない瞳がヒュプノスの顔をぼんやりとした視界に捉えようと揺らめく。ヒュプノスは真っ直ぐにその青い瞳を見つめると、どこか寂し気に、けれど優しく声を掛け続けた。
「吐いて。そう。少し吸って、また吐いて。うん、ゆっくりで良いんだよ。私は、ジェマのそばにずっといるからね」
穏やかな声と手つき、背中を支える冷たくも優しい手。ジェマは次第に呼吸を取り戻した。けれど、すぐに意識を失ってドルゲの胸に凭れ込んだ。
「おっと」
「ジェマっ」
「安心しろ。寝てるようなもんだ。契約者、助かった」
ドルゲは酷く安心したように息を吐く。その姿にヒュプノスはジェマの黒髪を撫でながら小さく笑った。
「ドルゲがそんなに慌てるなんてね」
「当たり前だ。こいつがいなくなれば、契約者は……」
「私は?」
ヒュプノスが視線をドルゲに向けると、ドルゲは一瞬躊躇うように視線を彷徨わせて、そっとジェマの髪から【スプーフィングサファイア】を外した。その刹那、ジェマの髪は白く、薄っすらと覗く瞳はルビーとヒスイの輝きを放つ。
「ドルゲ。それはいけないよ」
ヒュプノスの鋭い声に、ドルゲは一瞬ピクリと手が震えた。けれどすぐに深く息を吐き出して首を横に振った。
「でも、外してやらないと、これ、多分そろそろ壊れるぞ。こいつ、普通なら魔力暴走状態になるだけの魔力が身体に溜まってやがる」
「まあ、そうだね。医療行為、ということにしておこうか」
ヒュプノスが寂し気に自身とお揃いのジェマの白髪を撫でつける。ドルゲは揺らめくと、姿を影に変えた。
「俺はこれを持ってシヴァリーとジャスパーのところに行ってくる。助けを求めてくれたのは、ジェットだしな」
闇を通して届いたジェットの悲鳴。ドルゲは影に潜るとため息を漏らして【スプーフィングサファイア】をそっと握り締めた。
「少しでも、兄妹の時間を過ごせたら、良いな」
精霊に血縁はない。けれど契約者が何を大切に想っているのかは、見ていれば分かるもの。
ドルゲはずっと見て来た。1人別荘に幽閉されてからも、国のために努力し続けるヒュプノスを。そしてそんなヒュプノスが、初めて目を輝かせたこと。それがジェマの存在を知ったときだった。
シヴァリーが持ち込んだ【パワーアップくん】。その存在を知ったとき、ヒュプノスはその優秀な頭脳と溢れるほどの魔力を純粋に欲した。そして、偵察から帰ったドルゲからジェマの本当の髪色と瞳の色を聞き、呆然としたまま涙を流した。
「あの子だ……王妃の我儘で殺された、真の王女……私の、妹……そうか、闇の魔力の、妹が……」
ドルゲはそのときのヒュプノスの姿を忘れることができなかった。ずっと探し求めていたものを見つけた喜びと、どうしようもなく手を伸ばしたくなる欲望。復讐心を胸の奥に押し込み、国のために生きていた男が、初めて自分のために望んだもの。
妹を手に入れたい。傍にいたい。会話をしてみたい。あの子のために何かしてあげたい。ただどうか、幸せでいて欲しい。生きていて欲しい。
ジェマを求め、けれど会えない日々の間に、ヒュプノスの願いはジェマに近付くことを諦め、けれど根源的に抱えていた願いを露わにしていった。
「もしも、失うようなことになれば」
ドルゲは喉が渇く感覚に思わず唾を飲み込んだ。ジェマと同格の力を持つヒュプノス。魔法の扱いに対する知識と経験はヒュプノスの方が上。今のマジフォリア王国があるのはヒュプノスが滅ぼしていないからに過ぎない。ジェマが生きる国だから。
もしもジェマがいなくなれば。ヒュプノスはあっさり引き金を引くだろう。国のためを掲げ、全力を持って王妃、第1王子、第1王女、そしてその取り巻きたちを廃する未来を選ぶことは分かりきっていた。
民を蔑ろにする者を、私腹を肥やす者を、国を滅びへ導く者を。そして、ジェマから愛する父を奪った者を、己から愛する妹を奪った者を。ヒュプノスが許すわけがなかった。
「ま、そのときはそのときだ。俺だって、な」
ドルゲは小さく笑って、【チェリッシュ】の玄関の内側に影からひょいっと飛び出した。




