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【9】 悪夢の続き

 夢を見た。

 日を追うごとに少しずつ、確実に自分が自分ではない何かに変貌していく悪夢。


 気が狂いそうな喉の渇き、渇き、渇き。

 変異していく身体の痛みなどそれに比べれば些末なものだった。


 何をしてでも、誰を傷つけてでも、尊厳を踏みにじってでも、とにかく身を焦がすような渇きから逃れることしか考えられない。


 赤く、紅く、朱く。生命力に満ちた鮮血を欲して止まない。

 自分の血ではまるで駄目だった。一時でも自分を慰めることが出来ない。


 この暴力的な衝動の前では理性などちっぽけなものだ。激流に矮小な石ころが抗えないのと同じ。

 流され、呑まれ、最後には砕ける。


 だから、手遅れになる前にケジメを付けた。


 生まれ育った家に静かに別れを告げて、遠く離れた山林の中。

 唯一家から持ち出してきた荒縄で作った処刑台に首を通して、飛び降りた。


 衝撃の後、速やかに訪れた安らぎに安堵した。

 見届け人はいない。

 その筈だった。


「要らないなら僕が貰うよ」


 宙吊りになった身体が揺れる。

 くり抜かれた胸からまだ元気に跳ねる赤い宝石。


 投げ出したはずなのに、どうしてか奪われてはいけないと、手を伸ばした。

 けれども手放したものを返せなど虫のいい話だ。

 空を切っただけの手が何かを掴むことはなく、意識と共に糸が切れたように落ちた。



   ✝   ✝   ✝



「──────」


 真っ白い天井。風に揺れるカーテン。ほのかに香る消毒液の臭い。

 この短期間で二度もお世話になるとは思わなかった景色。


 眼を覚ました灯也はすぐに此処が病院であることを理解した。

 見るからにふかふかの掛け布団でさえ重く感じる程度には身体は弱っている。


 視線を左に動かせば、半分ほど消費した点滴のパック。パックから伸びるチューブは布団に隠れた左腕に繋がれているのだろう。


 苦労して右手を引っ張り出し、眼の前に掲げる。

 手首を包帯で巻かれ固定されていることを除けば、それは十八年連れ添った自分の右手だ。子供の頃に釣り糸で引っ掻いた傷跡も、やたらと短い生命線もそのまま。


「生きてる……のか……?」


 最後の記憶は存外に鮮明だ。

 アイシャを止めるために、何故か吸血鬼に猛毒となる血を浴びせようと、自らナイフで手首を切った。


 壊れた蛇口のようにドバドバと流れ出る感覚に背筋が寒くなった。ああするのが灯也に許された最善手だったとはいえ、冷静に思い返せば狂気の沙汰だ。


 効果はあったとはいえ、結局のところアイシャは仕留めきれず──


「そうだ! あの後は一体どうなったんだ……!?」

「生きてることより、そっちの方が大事なのか先輩?」

「え、カレンさん!? どこから入って来てるの!?」


 いつの間にか窓辺にカレンが腰掛けていた。

 ここが何階であろうと彼女の跳躍力にかかれば文字通りひとっ跳びなのだろうが、やはり常識的な観点から驚愕は禁じ得ない。


 それと同時に胸を撫で下ろした。

 彼女も重傷であったはずだが、少なくとも目に見える範囲では傷は癒えている。右脚にサポーターこそ巻いているが五体満足。熱暴走も収まっており、以前のカレンそのままである。


 ちょうどいい。事の顛末を教えて貰おう。

 自分が生きていることも十分驚きだが、やはり灯也はあの夜が気掛かりでならない。


「カレンさん、吸血鬼はっ、あの後どうなったの? 俺は何日寝てたんだっ。いや、それよりも犠牲者は!? 他の民間人にあれ以上の被害は出なかった!?」

「そうだな。順を追って説明しよう。でも、その前にだ」


 窓辺から飛び降りてカレンはツカツカとベットの傍に歩み寄って来る。

 何か様子がおかしい。

 普段の快活な雰囲気が鳴りを潜めて、有無を言わさぬ威圧感を放っている。


「私は一言、先輩に言いたいことがある。とてもとても重要なことだ。いいか?」

「う、うん……その、お手柔らかに……」


 怒っている。間違いなく。あまりの迫力にカレンの後ろに三面六腕の鬼神すら見えた程。


 身体を起こすこともままならないので逃げることは不可能。

 冷や汗が止まらず、謝罪の言葉を用意する間もなく、両肩を掴まれた。


 感情が高ぶっている為か、カレンの両目は赤く染まっている。

 そのせいで灯也は一瞬、眼の前の少女とアイシャを重ねてしまい、身を固くする。


 ──まさか血が足りずに吸血を!?


「駄目だカレンさん、俺の血は──」

「──どうして逃げなかったんだッ!」


 病室に響いたのは、糾弾の怒鳴り声だった。

 一瞬前の危惧なんて吹き飛んで、唖然としてカレンを見上げる。


「私は言っただろッ! 危なくなったらすぐに逃げろと! 私を囮にしてでも逃げろってッ!! なのにどうして戦ったんだ!?」


 肩を揺さぶられる。

 肉に食い込む爪が痛い。

 ベッドの上で小さく身体が跳ねる度に、身体中が軋む。


「弱っているから、深手を負っているから自分でも倒せるって高を括ったのか!? ふざけるのも大概にしてほしいッ。手負いの吸血鬼ほど恐ろしいとも私は忠告したぞ……!?」


 灯也は自分を激しく嫌悪した。

 忠告を無視したことよりも、カレンを一瞬でもアイシャと重ねてしまったことを。


 熱い雫が言葉以上の非難となって、灯也を叩く。あの夜、命を賭して吸血鬼と戦い、身体を暴走させてしまった時の熱がそのまま形になったようだ。


「なんで……戦ったんだ……様子を見に行くだけって、そう言ったのにぃ……!」

「…………ごめん」


 泣き崩れて病院服を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにするカレンの頭を、灯也は力を振り絞って撫でた。

 集まって来た医師や看護師たちの眼も憚らず、カレンは子供のようにわんわんと泣き続け、灯也は何度となく謝りながら頭を撫で続けた。



   ✝   ✝   ✝



 泣き止んだ後、当然だがカレンは病室から摘まみ出された。

 そもそもが親族以外は面会謝絶。


 それどころかあの祭りの夜、灯也は案の定自傷によって出血多量で心肺停止の状態で病院に担ぎ込まれたらしく、意識不明の重体に陥ったのだ。

 迅速な輸血と蘇生措置の効果があって、呼吸と脈拍は取り戻したものの意識は戻らず。


 五日が経過し、医師は失血によって脳に深刻な障害が起きている可能性を親族に告げていた。最悪の場合、このまま意識を取り戻さないことも。


 だが幸いにも灯也の意識は回復し、そこに不法侵入者の他人が泣き叫んでいるのだから、駆け付けた医師たちはさぞ困惑したことだろう。


 それでも彼等は職務を全うした。

 カレンを捕まえて常駐する警備員に引き渡し、直ぐに灯也の精密検査を開始。それと並行して後見人の叔父夫婦へ連絡。


 当の本人はといえば、覚醒したとはいえ死に体から幾分マシになった程度だ。検査が終わって急行してきた叔父夫婦が着く頃には、再び灯也はまどろみの中。


 ちなみにカレンは醜態を晒した甲斐があってか、恋人と勘違いされて特別に面会許可が降ろされたりしていた。


 甲斐甲斐しくも毎日見舞いに来てくれることは嬉しい限りであるが、叔父夫婦が鉢合わせた時は彼等は着替えだけ置いて直ぐに帰ってしまった。大人の対応なのだろうが叔父夫婦には心配をかけたばかりか余計な誤解が生まれ、灯也としては心身共に気苦労が絶えない。


 起き上って自分で食事を摂れるぐらいの体力が戻るのに更に一週間。夏休みの半分近くが経過していた。


「先輩、りんご剥いたぞ」

「うん、ありがとう」

「蜜が多い。きっとさぞ甘くておいしいに違いない」

「そうだね」

「絶対に美味しいに違いない。そうに決まっている」

「……うん」


 ──────じゅるり。


「よかったらカレンさん食べて」

「いいのか!? 先輩へのお見舞いの品だろ?」

「まだ食べきれる体力は戻ってないし、一切れでいいよ。他の果物も痛んじゃう前に食べて貰えたら有難いかな」

「そ、そいうことなら仕方ない。食べ物を粗末にしてはいけないしな」


 本当に叔父夫婦は出来た大人だ。

 カレンがあまり裕福な生活を送っていないことを察して、わざと灯也が消費出来ない量の見舞い品を置いていくのだから。


(まあでも……)


 リンゴを齧りながらカレンの様子を窺えば、栗鼠みたいに頬袋を膨らませたカレン。幸せそうに甘味を味わうその姿に灯也のみならず、通りかかった看護師までも貰い笑い。


 それはそうと皮むきに使われているナイフは灯也が博士から貰ったものだ。預かっているのだろうが、普通にやめてほしい。


 フルーツバスケットが綺麗に空になったタイミングで、灯也は切り出した。


「カレンさん、そろそろ教えてもらっていいかな?」

「何をだ?」

「あの祭りの夜、戦いの顛末」


 意識を取り戻してからも、灯也の体調や周りがバタバタしていたために、ずっと聞けていなかったことだ。

 けれど忘れていたわけでは無い。むしろ気になって体力が戻り始めてからは心が休まらなかった。


 カレンも取り乱した手前、切り出すタイミングを窺っていたらしく、緩んでいた表情が引き締まる。同時に戸惑いの色が強く現れる。


「やっぱりアイシャを仕留めたのは先輩じゃないんだな」

「憶えている限りじゃね。っていうかその言い方じゃ、あの人は──」

「うん。死んでる。私は直接見たわけじゃないけど、博士曰く首が先輩の近くに転がっていたらしい」


 ならやはり灯也の仕業ではない。


 人間の首というのは人体において最も頑強な部位だ。ボーリング球ほどの重さの頭部を支えるために骨は太く頑強に、筋肉が分厚くこれを覆っている。名刀と言われる刀剣でも首を断つのは難しい。


 ましてや灯也は剣術どころか竹刀も持ったことがない。多少特殊な血を持っていても、死にかけている非力な学生には無理難題である。


「誰がやったの?」

「分からない。私も違うし、博士でもない。ただ……」

「ただ?」


 カレンは言うかどうか迷った素振りを見せたが、灯也の視線を受けて結局は口にした。


「アイシャは心臓が奪われていたらしい。多分、首を刎ねられた後に」


 一瞬、頭痛に目を眇めた。

 似たような話を、いや、似た光景をつい最近見た気がする。

 思い出そうとすると頭痛が強くなり、眼の前が古いテレビのようにノイズで塗り潰される。


「大丈夫か、先輩!? いま看護師さんを呼ぶから」

「いや、大丈夫……。俺は昔から頭痛持ちなんだ」


 ナースコールのボタンに手を伸ばすカレンを押さえて、問題ないと手を振る。

 カレンの声が聞こえてから実際に頭痛は収まっている。

 起こしたベッドに上体を預けて深呼吸を繰り返せば、余韻も直ぐに遠ざかった。


「本当に大丈夫か?」

「平気だよ。むしろ寝たきりで節々が痛いぐらいだから、そろそろ退院したいぐらいだし。……でもそうか、あの人は死んだのか……」


 惜しむような声音だったからか、カレンは不満そうに眉を寄せた。

「何だ先輩、まさか同情か?」


「いやいやいや、違うよ! その……両親の仇を打ったことになるのかな、ってさ」


 何故、親を殺したのか。

 その理由を問いただすために灯也は吸血鬼を追うと決めた。実際にはそんな余裕は無く、誰がアイシャを殺したかという新たな謎が浮上したが、それも追々調べればいい。


 街を騒がせた猟奇殺人もこれで頭打ちになる。

 ひと夏の悪夢はこれでお終いだ。


「ああ、そうか。カレンさんたちはあの人を追ってこの街に来たんだよね。それじゃあ、もう街を出ちゃうの?」


 世話になってばかりで碌な御礼も出来ていない。逸る気持ちでどう恩を返したものかと思案して、沈鬱な表情で唇を引き結んだカレンに気付いた。


「カレンさん?」


 どうしたのだろうか。彼女にしても大きな仕事が終わって喜ぶところだろうに。

 ふっと、夏の太陽が分厚い雲に隠れて、病室が薄く影に覆われた。


「先輩、確かに私たちはアイシャを追って来たけれど、この街で起きている殺人と彼女は無関係だ」

「………………え」


 間の抜けた声が零れた。

 何を言われたのか理解出来ない。


「でも博士も君も俺の両親を殺したのは街で人を殺しているのも吸血鬼だって……!」

「うん。でも私たちは一度もアイシャがそうだ、とは明言していないだろ?」

「それは──」


 指摘されて、ハッとする。

 確かにカレン達は両親の仇は『吸血鬼』と言っていただけ。アイシャが吸血鬼だから灯也が勝手にそう勘違いしていただけだ。


 思い返せば、初めてアイシャと邂逅した時からそれは明らかだ。

 彼女は既に人が殺されていた現場で灯也と鉢合わせた。アイシャが件の殺人鬼であるならばおかしな話だ。その後の出来事が色々と鮮烈すぎて勘違いしていた。


 つまり、まだ何も終わっていない。

 アイシャは事件とは何ら関係ない別件。

 吸血鬼がまだ一人街に潜んでいる。


「誰なんだ、そいつは?」

「……多分、アイシャを殺した奴だと思う」


 何故かこの時、カレンは明言を避けた。知っていて口にするのを躊躇った。

 灯也はそれに気付いたが追及はしなかった。

 気遣うような、それでいて何かを恐れているようにカレンが口を閉ざしたからだ。


 それ以降に会話は無く、面会時間の終了が迫ったところでカレンは帰った。


 翌日。ネットニュースのトップページ。

 祭り会場の大規模火災の記事を脇に押しのけて、『また犠牲者』の見出しがまだ見知らぬ吸血鬼との縁を浮き彫りにした。


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