精神安定剤? 後 1
それから数日経って、体育祭の日。
「ぅあっつ~い・・・」
じりじりと太陽が照りつける、6月の空。
くっきりと鮮やかな青空が、私達の頭上に広がってる。
熱中症対策のためグラウンドには、競技の行われる中心部分を取り囲むようにして、クラスごとに網ネットが頭上に張られている。
そのお陰で日差しはあまり感じないんだけど、暑さだけはどうしようもなかった。人がいっぱい集まってるし。
じっとしてても、汗がにじむ。今日は運動するから、後ろで高い位置に纏めてすっきりした首元にも、つうっと汗が流れて気持ち悪い。
それに正直、私、あんまり運動って得意じゃなくって、テンション下がり気味だった。
応援するのはいいんだけどねー。
クラスの群れに混じって競技中のクラスメイトを応援していた私は、一息つくとペットボトルのお茶を一口飲んだ。
ちなみに凜は今高跳びに出てて、隣にはいない。
前線で鉢巻をして応援していた鈴木さんが、そんな私の隣にやってきた。
「井上さん、そろそろあなたの番じゃない?障害物競走だったよね?」
私は頷いた。足遅くっても関係ないやつ選んだので、障害物競走。なんか、足の速さっていうより根性でなんとかなるような気がしない?
意外なことに、鈴木さんは体育会系のヒトだった。つーんとしたイメージとは違って、応援にも非常に気合が入っている。クラスのカラーの赤い鉢巻を額に締めて、指定の白いTシャツをノースリーブのようにぎりぎりまで袖部分を織り込んでるその姿はどう見てもやるき満々だった。
釣りあがり気味の瞳を生き生きと輝かせて、鈴木さんは懐から青い布を取り出してくる。
「ほらこれ、暑いから、出番まで着けていきなよ。ひんやり気持ちいいよ」
それは、熱中症対策で最近売れ行き好評といわれる某商品だった。水を絞って首に巻いて使うタイプのやつ。
いそいそとそれを差し出す鈴木さんの姿に私は思わずぷっと噴出してしまった。後ろで一つに纏めた毛先が揺れる。
「え。なに、なんで笑ってるの」
「いやえっと・・・『姉御』だなあって」
付き合ってみると、鈴木さんは非常に面倒見のいい性格をしていた。
ほら、今だってわざわざ私を呼びにくる辺り、その証拠だと思う。
黙って私に付いてきなさいタイプかと思いきや、わりと細々と世話を焼くタイプのほうだった。周りがそれに頼って付いていく感じ。
なんだかそのギャップが最近心地いい。意外にもおっとりがたなの凜とも気が合うみたいで、たまに二人で私をいじってきたりするのはちょっといただけないけど。
「変なあだ名つけるのやめてよね。
・・・あ・・・」
「―――え?」
話しながら鈴木さんが、急にグラウンドに釘付けになったので何事かと私も視線を向けて、すぐに納得した。
凜と同じ高跳び、グラウンドの隅っこの方でひらりと身体を翻すモデル並みのシルエットには見覚えがあった。ていうか、一人漂う雰囲気が違うからすぐわかる。氷室だった。
ちらりと鈴木さんの横顔を伺うと、じっと瞬きもしないで、氷室の姿を追っている。
「・・・成功したみたいだね」
白い大きなマットに背面とびで着地した氷室は、周りから拍手を貰っていた。鈴木さんの真剣な眼差しになんだか口元を緩めていると、鈴木さんは私の言葉に我に返ったみたいだ。
「ほらっ、笑ってないでがんばってくるのよっ」
「い、いだだだ」
照れ隠しにばしんと背中を叩かれて、私は苦笑を零しながら右手でぴしっと敬礼の形を取った。
「了解ですー、井上愛那、精一杯がんばってきまーっす。
あ、でも結果悪くても許してね」
「何言ってるの、一番しか認めないからねっ」
なんて鈴木さんはつんと顎を背けたけど、帰ってきたら文句を言いながらもなんやかんや世話を焼いてくれるのが想像できたりして。
「行ってきまーす」
私は軽くそう言いおくと、アナウンスのあった障害物競走の召集場所へと歩き出した。ありがたく、鈴木さんに借りた布を首元に巻いて。
今日の私は、運動しやすいように髪の毛を後ろで高い位置に纏めてあるから、ちょっと目立つけどせっかくの好意だし、貰っておこう。
ひんやりと首元を冷やす青い布が、ネットを出て容赦なく降りかかる日差しを、ちょっと緩めてくれる気がした。うん、ありがとう、鈴木さん。
それにしても、暑い。
まだ梅雨入りはしていないから、独特のじめっとした暑さはないんだけど、その分じりじりと肌が焼かれるのがわかる。やだなぁ、日焼けしそう。
全学年が集まるグラウンドで、人の波を避けながら暑さに辟易する私の目に、向こうから歩いてくる見知った姿が飛び込んできた。
「あ・・・・」
人の波より頭一つ分高い、独特の人を寄せ付けない雰囲気を持つその人を見つけて自然、足が止まった。
と同時、相手も私に気づいたようだった。ちょっとだけ驚いたように一瞬目を見開いてから、私の方へとやってくる。
「っ、こ、こんにちはー高橋君」
「・・・ああ」
う、声が上ずっちゃったよ私。だってこの前頭を撫でられたのはまだまだ記憶に新しい出来事で。
気恥ずかしくってたまらない。
それでも自然な笑顔笑顔と唱えて頭上の高橋君の顔を見上げれば、見慣れた眉間に皺の表情を見つけて、なんだかほっとしてしまった。っておかしいな、私。
「・・・・・・?」
じいっと見つめられる、高橋君の視線は私のアタマにあった。
反射的にこの前のことがよぎって頭をガードしてちょびっと後ずさりしてしまった。
だってこの前みたいに頭をわしわしってされたら、直すのが大変なんだよ。慌てて高橋君の関心をアタマから逸らすべく話題を探す。
「た、高橋君も今から競技?わたし、障害物競走なんだ。高橋君は?」
「いや、俺は・・・終ったとこだ」
ふっと高橋君の視線がアタマから私の顔に落ちてきて、ほっと胸を撫で下ろした。
相変わらす鋭い目つきなんだけど、すっかり慣れてしまって、返ってその方が落ち着く気がするのが不思議だった。
頬を緩めて、高い位置にある顔を見上げると、動きに合わせて首筋で一つに纏めた毛先が揺れた。
「高橋君は、あと何の種目でるの?私は、後は全員参加の二人三脚で終わりなんだー」
「――――」
高橋君が、ちょっと目を細める。
「俺は、後はリレーが残ってる」
「リレー?!そっかぁ、高橋君運動部だもんね、足、速い?」
「・・・遅くはない」
と言った後で、高橋君が、す、とまた視線を私の頭に向けた。
「・・・それ」
ぎゃ。ぎくりと私の身体が強張る。
「いつもと髪型違うんだな」
「えっ、う、うんっ。ほらっ、暑いから」
私はまたまた頭をガードして、顔に誤魔化し笑いを貼り付けて後ずさったんだけど、高橋君の瞳が穏やかに弧を描いたのを見て固まってしまった。とくんと胸が鳴る。
「くろすけの尻尾みたいだな」
その視線は、私の後ろで一つに纏められた猫っ毛に向けられてる。私が首を動かすと、同じ用にふわりと揺れる毛先は、確かに動物の尻尾みたいだ。
「く・・・ろすけ」
え・・・っと、それってもしかして。
「黒ネコさんの名前?」
訊ねると、高橋君が小さく頷く。
わあ。
「そっかぁ、名前決まったんだ。かわいいね」
「―――俺じゃない、姉貴が決めた」
大柄でいかにも男っぽい顔つきの高橋君の口から零れる、その可愛らしい響きが微笑ましい。
ふいと高橋君が視線を逸らしてそんな風に言い訳するのがなんだか可笑しかった。ちょっと照れてるみたい。
気持ちがゆるゆるとほぐれて、すとんと次の言葉が自然に出た。
「いいなぁ、会いたいなぁ」
あの柔らかな毛並みが懐かしい。小さな肉球がとてもかわいくって、愛しくって、心のままにぷにぷにしてたことを思い出す。そのたびに猫パンチくらっちゃったけど、それもかわいいんだよね。
回想する私の相好は緩みっぱなしだったに違いない。
っていうか、誓っていうけど、別に、他意はなかったのよ。
「―――会いに来るか?」
だから、そんな私の様子を見下ろして、そう訊いてきた高橋君の言葉に私はびっくりして目を瞬かせてしまった。
え。
思わずその精悍な顔を凝視してしまった私に不審そうな眼差しを落とし、高橋君はもう一度繰り返した。
「アイツに、会いに家にくるか?―――明日の土曜日午後なら、部活も終ってるから空いてる」
「―――」
言葉を失う私とは逆に、事も無げに話す高橋君。
ってえっと・・・うん、び、びっくりしてるのは私一人なわけで。
え。うち?うち、って、お家ってことよね?
落ち、落ち着け私。黒ネコさんに会いにおいでって誘ってもらってるだけなんだから!
顔に熱を帯びるのが自分でもわかって、心の中で必死に言い聞かせる私の目は多分泳いでた。「・・・井上?」と不思議そうな声に呼ばれて、ぷるぷると首を振って邪念を追い払う。
「う、うん!ご迷惑じゃなければ是非!」
にっこりと笑ってそう言うと、ふ、と高橋君が口元を緩めた。
「わかった。じゃあ、明日の2時頃、○○駅の改札前でいいか?」
「うん、大丈夫」
「そうか。・・・そろそろ、行かないと不味い。井上も、出番が近いんじゃないか?」
高橋君が、グラウンドに響くアナウンスに耳を傾けながらそう私に聞いてくる。確かに、障害物競走に出る選手を呼ぶ最終アナウンスが響き渡っていて、我に返った私は俄かに焦りだした。
わあ、不味い。早く行かなくっちゃ!
「じゃあな」
「うん!ばいばい!」
慌てて私は、高橋君と別れて召集場所に走り出した。
人の波を掻き分けてちょっと進んだところで振り返ると、反対側に歩いて行くその背中を確認する。
う、お家に行くことになってしまった・・・!
ちょっとだけざわめいた心臓の音を首を振って誤魔化し、私はまた、前を向いて走りだした。
で、無事、障害物競走終了してきました。
ちょうどネットを潜るのがうちのクラス前だったんだけど、「いのうえさーん!!」「愛那ー!」と聞き覚えのある高い声が聞こえてなんだか恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになった。結果は健闘むなしく4位。うん、でも私にしたらよく頑張ったほうだ。
「ただいまー」
クラスのところに戻ってくると、高飛びを終えた凜が出迎えてくれた。
「おかえりー。お疲れ様だったね」
にこにこと労ってくれるほっそりした姿は、周りの暑さを感じさせない涼やかな雰囲気を纏ってる。なんだか爽やかな風が通り抜けたような清涼感。
その綺麗な笑顔に心を癒されながら、私はどさりと凜の隣に腰を降ろした。
「ふいー、つっかれた」
「ここから見てたよ。4位だったね、残念」
「うーん、私にしては大健闘だよ」
とか言ってると、ぺしりと頭を叩かれた。振り返ると、氷室だった。
「なーに満足してんだよ、言っとくけど、ぜんぜん大したことないからな。つか、もっと走れたんじゃね」
相変わらず、可愛い顔立ちに似合わず口が悪い男だ。
むうっと私は唇を尖らせる。
「運動神経いいあんたと同じにしないでよ。これでも精一杯だったんだから」
とかやってると、やっぱり前列に陣取って応援していた鈴木さんが、私の声に気づいたのか勢いよくこちらに振り返ってやってくる。
「井上さ・・・」
けど、その足が氷室の姿を認めて止まってしまった。その腕には、スポーツドリンクのペットボトルが抱えられていた。
「・・・・?」
なんだかその表情が微妙に強張っていて、いつもの強気な目元とかが、力を失っている。不思議に思ってその眼差しを追って、私はあちゃあと頭を抱えたくなった。
氷室が、冷たい目つきで鈴木さんを見つめていたから。
いつもは無関心を決め込むその氷室の態度に、鈴木さんは尻ごんでしまったみたいだ。
う、うわあうわあどうしよう。私もあんまり、こいつがこんな風に冷ややかな態度とるところ見たことなかったので、内心思い切りたじろいでしまった。隣で凜が「あらら・・・」と暢気に呟くのが耳に届く。
「―――なんだよ」
無機質な氷室の声音が、鈴木さんの心に突き刺さるのが見えた気がした。
「な・・・んでもない、ごめんね!」
気丈にもそう言って鈴木さんは笑うと、たっとクラスメイトを避けてその場を立ち去って行った。
うーんと・・・。
「・・・きついんじゃない?」
「どこが。白々しく近づいてくるからだ」
はき捨てるようなその言葉に、眉をしかめるほどには、私は鈴木さんのことが好きだし同情してしまう。
かと言って私が鈴木さんを庇うとなんだか逆効果な気がする・・・と考えていると、隣に座っていた凜がのんびりと口を開いた。
「ペットボトル」
「え?」
気詰まりな沈黙が落ちた後のその声に、私と氷室は顔を向けた。
ふわりと凜が笑った。
「ペットボトル、持ってきてくれたんだよ、鈴木さん。愛那に。
ほら、私ももらったもん」
そういって凜が腕に持つそれを掲げて、にっこりと微笑んだ。
・・・あ。さっき、そういえば、鈴木さん、ペットボトル持ってた気が。
「自意識過剰だけで、相手を傷つけるなんて最低だよね?」
凜が綺麗に笑う。なんだかそれはいつもと違って力強いというか・・・何らかの意思を持っての笑顔は、なんというか、珍しく棘があった。
向けられた氷室は驚いた表情で凜を見返した。まあ、めったにないことだから氷室もびっくりしたんだと思う。でも、凜の言葉を理解したのかその後で端正な顔が不機嫌そうに歪んだ。
「―――・・・自意識過剰か、わからないだろ」
「そう?けど私、氷室君と一緒に居てるとき、鈴木さんがこっちに寄ってきたのまだ見たことないよ」
ねえ?と急に矛先を向けられて、私は内心慌てながらも、こくりと頷いた。
・・・そういえば、そうだ。『氷室君と友達になりたいから井上さんと友達になりたい』と言いながら、私が氷室と話してるとき、鈴木さんが私に近づいてくることってなかった。
氷室の可愛らしい丸い瞳の縁が、羞恥のためかちょっと赤くなる。気づいてなかった所を突かれたって感じだ。
そんな氷室に、凜は言った。
「鈴木さんは、ちゃんと考えてる女の子だよ」
凪いだ海のような穏やかな声で、凜がそう締めくくった。いい終わるとにっこりと微笑んで私に視線を移す。
「あ、愛那、次100m走みたい。応援しに行こう?」
「う、うん」
誘われて、私と凜は前列に移動したんだけど、私は気になってちょっとだけ氷室の方を盗み見た。氷室は、唇を噛んで立ち尽くしている。
それから私は、「よっこいしょ」とのんびりとした声を挙げながら、前列の応援席へと移動したほっそりした姿を眺めやった。その表情には、先ほどの力強さはなくいつもの優しい微笑みが浮かんでいる。
・・・凜が怒ったとこ、初めて見た。
私の視線に気づいたのか、ぺろりと凜がかわいらしく舌を出した。
「・・・やっちゃった」
その茶目っ気のある態度に私も笑顔を返した。
うん、まあそう。
そうやって怒るくらいには、私も凜も鈴木さんたちのこと友達認定してるってことだった。