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第一話:巫女

 1999年、7の月。恐怖の大王によって人類は滅亡する。


 そんなノストラダムスの大予言によって、世間は騒がしさを増していた。


 もっとも、俺にとってそんなことはどうでもよかった。身に降りかかる不幸の連続で、それどころではなかったからだ。


 就職活動は今のところ全滅。二年付き合い、同棲までしていた彼女には浮気されて逃げられた。


 バイトから帰ると、住んでいるアパートからは彼女の荷物だけが綺麗さっぱり消えていた。


 もうどうにでもなってしまえと自暴自棄になって愛車のバイクであるスーパーカブに跨り、行き先も決めずに走り出したのがつい先ほどのこと。


 頭上で浮かぶ月に導かれるようにして、俺は気が付けば見知らぬ山道を走っていた。


 月はいつでも頭上にあり、世闇を優しく照らしてくれている。まるで地上にいる人々の生活を見守り、記憶するように。


 空に煌々と輝く月を視界に入れながらも、俺は暗い山道をバイクに乗って走り続ける。バイクから灯されているヘッドライトが細い道を浮かび上がらせていた。


 俺は一体、どこへ向かっているんだろうか……そんなことを考えていた時だった。ふいに、道の先に何かが落ちていることに気が付いた。


 轢かないよう慌てて右へハンドルを切った途端に嫌な予感がした。咄嗟に前後のブレーキを強く握り込む。だが、傾いていく車体が制御不能に陥ってしまう。


 前輪が路肩の砂利を踏み、ぐらりと大きく揺れる。次の瞬間、バイクは横倒しになり、俺の身体はシートから放り出された。


 浮遊感が全身を覆い、強い衝撃と共に地面へと叩きつけられる。頭を守るように身体を丸め、そのままゴロゴロと地面を転がっていく。


 ようやく勢いが止まった時には、全身がジンジンと熱を持っていた。静寂に包まれた山道の端っこで、俺はしばらく荒い呼吸を繰り返す。


 恐る恐る身体を動かしてみると、幸いなことに骨は折れていないようだった。どうやら、擦り傷だけで済んだらしい。


 服の汚れを払いながら立ち上がり、愛車の状態を確認しようと、痛む身体に歯ぎしりしながら倒れたバイクを起こしタイヤを回してみる。


 ブレーキパッドと干渉する鈍い音が響いた。これではもう、走行は不可能だ。


 不幸なことは、こうも重なるのか。辟易としながら、俺はロードサービスを呼ぼうと携帯電話を尻ポケットから取り出した。


「……嘘だろ」


 取り出した携帯電話の液晶には、蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。電源ボタンを押してみるが反応はない。


 山道には街灯もない。右は斜面。左は真っ暗な谷だ。周囲に民家らしきものも見当たらない。


 思わず盛大にため息を吐いた、その時だった。


 藪の中で何かが動いた気がした。俺はバイクに積んであった懐中電灯を取り出して、そちらへ光を向ける。


 そこにいたのは、一匹の黒い蛇だった。じっと動かずに、こちらを見ている。


 さっき避けようとしたのは、こいつだったのか。


 蛇は逃げようとしない。まるで俺を見定めるように、その場でじっとこちらを見つめていた。


 妙な居心地の悪さを覚えながらも、俺は蛇から視線を逸らす。ここで蛇と睨み合っていても仕方がない。時間を浪費するだけだ。


 バイクに積んであった懐中電灯を手に持ったまま、俺はもう動かなくなってしまったバイクをその場に放置して、どこかも分からない道を歩き始める。


 聞こえるのは虫の声と、自分の足音だけだった。


「頼むから、何も出ないでくれよ……」


 暗い山道を一人で歩き続ける恐怖を紛らわそうと、声に出して呟く。幸いな事に何にも遭遇することはなく、そのまま十分ほど歩いただろうか。


 山道が途切れ、少し開けた空間へと出た。斜面側には何処かへと続いている長い石段がある。


 石段の先へと懐中電灯の光を向けると、その先に赤い鳥居が立っているのが見えた。さらにその先からは、灯りが漏れているのが分かった。


 もしかしたら、この先に神社があるのかもしれない。だとしたら社務所があり、そこに人がいる可能性もある。


 どことなく懐かしい気持ちになりながらも、俺は痛む身体を引きずるようにして石段を上がっていく。


 やがて辿り着いた鳥居を潜り、境内に足を踏み入れた。そして、そこから見えた光景に思わず息を呑んだ。


 境内の中央に、巨大な神木が聳え立っていた。三重に巻かれた蛇を模したかのような注連縄。夜空を突くように伸びる枝葉。神木の周りに囲いがしてあり、まるでそれが人の侵入を拒む結界のようにも見えた。


 囲いの外まで足を進め、巨大な神木を見上げる。その圧倒的な存在感に気圧され、思わず呆然としてしまう。まるで神話の中の巨木が、そのまま現れたかのようだった。


 そして、はたと気付く。その神木の向こう側、社務所と思われる建物の前に、一人の女性が立っていた。


 白い狩衣に鮮やかな朱の袴。まっすぐに伸びた黒髪が夜風に揺れている。神聖でありながら、どこか現実感が希薄だった。


 ようやく人に出会う事が出来た。その喜びを押し殺したまま、俺は女性の方へ足を進めた。


 足音に気付いたのか、巫女姿の女性がこちらを見る。目が合うと、女性はこちらに向けて静かにお辞儀をした。


 漆を塗ったような艶のある黒髪は背中まで伸びている。それとは対照的な白い肌は、まるで陶器のようだった。顔立ちはどこかあどけなさを残しており、童顔と呼ぶに相応しい。小柄な体型と繊細な雰囲気が、その儚さをより際立たせていた。


 切り揃えられた前髪。その下にある、大きな瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。心の奥底まで見透かされているような気分になった。


「こんな夜更けに……参拝ですか?」


 その声は静かで透き通っていた。冷たい水が澄んだ湖面を流れるような、不思議な響きだった。


「いえ、そういう訳では……」


 言いながらも、俺は彼女の顔から目を離せずにいた。


 なぜか分からない。けれど、月明りに照らされた彼女の顔を見ていると、初めて会う筈なのに、初めて会った気がしない奇妙な感覚に囚われた。


「……私の顔に何か?」


 不思議そうに首を傾げながら、巫女はそう尋ねた。


「あ、すみません。以前どこかで会ったことがあるような……そんな気がして」

「……私はいま、ナンパされているのでしょうか」

「え?」

「初対面の女性に対して、どこかでお会いしましたか? と聞くのはナンパの常套句だと母から聞いております」

「いやいや、そんなつもりは」

「ナンパではないのですね……残念です……」

「は? 残念?」

「ええ。一度で良いから殿方にナンパというものをされてみたいと思っておりまして。これから待ち受ける試練を前に、その願いが叶ったかと期待したのですが」


 神秘的な見た目には似つかわしくない発言だった。思わず口元が緩む。素直に面白い人だな、という印象を受けた。


「神に仕える巫女さんが、ナンパされたいだなんて願望を口にしても良いんですか?」

「はっ! 確かに……天蛇様に聞かれたら叱られてしまうかもしれません」

「天蛇様?」

「はい。環世之天蛇《かんよのてんじゃ》様。この神社で祀っている神様のお名前です」


 環世之天蛇。聞いたことのない神の名だった。


 神様という言葉に、一瞬だけ胸の奥がざわつく。自然に頭上の月を見上げてしまったが、俺はすぐに視線を戻した。


「いてて……」


 ふいに身体へ痛みが走る。平静を装っていたが、転倒のダメージは思っていた以上に残っているようだ。


「どうかなさいましたか?」

「じつは麓の町からバイクを走らせていたんですが、先ほどそのバイクで転倒しまして。その時にバイクは故障、ロードサービスを呼ぼうにも携帯は故障。打つ手なしの状態で彷徨っていたところ、ここに辿り着いた訳でした」

「それは……災難でしたね」


 彼女は気遣うような表情を浮かべた。だが次の瞬間、その表情が僅かに強張る。何かを警戒するように、彼女は遠くへ視線を向けた。


「冥蛇《めいじゃ》様……」

「え?」

「怪我の手当てを……と言いたいところですが、もうあまり時間がありません」

「時間?」

「はい。すぐに、ここから離れましょう。私が案内しますので、付いてきてください」


 先ほどとは打って変わり、強い口調だった。彼女は俺の手を掴み、そのまま歩き始める。


 俺は突然の行動に戸惑いながらも、手を引かれるまま彼女の後を付いていくしかなかった。

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