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言葉は鉛になる ―声が凶器になった世界で、最も危険な声を持つ男―  作者: 景都 (けいと)
言葉は鉛になる

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32/34

#32 鉛金

紬が、言の声の色を見た。


 VMB本部の屋上。春の午後。手話レッスンの合間に、言が試しに声を出した。囁き程度の、掠れた音。


「……紬」


 紬の名前。たった二音。だがそれは、言が声を失ってから初めて紬に向けた声だった。


 紬は目を見開いた。


 言質化はしていない。囁き程度では構文が載らない。ただの音声。だが紬は、その音の周りに何かを感じた。


 視界の端で、微かな光が揺れた。


 金色の——いや。琥珀。


 紬は自分の目を疑った。言質化に免疫があるはずの自分が、声の「色」を見ている。大沈黙の劣化が進み、免疫のベースラインが下がり続けている。言質化していない通常の声ですら、微弱な構文の揺らぎを含んでいて、それが紬の揺らいだ免疫をわずかに透過している。


 琥珀。言の色。


 紬はタブレットに打った。手が震えていた。


『聴こえた。……言さんの声。それと、色。琥珀色の光が、ほんの一瞬見えた』


 言はメモ帳を取り出した。


『俺の声の色が見えたのか』


 〈うん。きれいだった〉


 言のブレスレットに触れている手が止まった。紬が自分の声の色を見た。免疫が揺らいでいる証拠であると同時に、紬が初めて「声の世界」に触れた瞬間だった。


 紬がタブレットに打ち込んだ。


『朝倉さんの「完全解放」が実現したら、わたしも声の世界に参加できる。色が見えて、力が感じられる世界。それは……正直に言えば、魅力的だよ』


 言はメモ帳に書いた。


『分かる。お前が声の世界を知りたいと思うのは、自然なことだ』


『でも』


 紬のタブレットの画面が変わった。


『でも、わたしと言さんの関係は、声がないから成り立った。筆談で、手話で、表情で。声がなくても通じ合えると信じたから繋がれた。完全解放の世界で、その関係はどうなるの? 声が全部物質化する世界で、わたしたちの「声のない対話」は、まだ価値を持つ?』


 言は紬の目を見た。紬の目は潤んでいた。


 メモ帳にペンを走らせた。


『持つ。声があってもなくても、お前との対話は変わらない。声は手段だ。通じ合うのは、手段じゃなくて意志だ』


 紬はメモを読んだ。唇が震えた。


 〈……ずるい。いいこと言うの、ずるい〉


 手話の動きがいつもより大きかった。


* * *


 分析室。言と詠と律が、第三の文法の設計に取り組んでいた。


 言は構文聴覚で「新文法の構造」を聴き取ろうとしていた。大沈黙の設計仕様書を参照しながら、新しい文法のルールを一つずつ設計する。


 構文聴覚のセッション。琥珀色の瞳に光の粒子が浮かぶ。言は大沈黙の抑制構文の構造を「聴き」、その上に新しい層を「重ねる」イメージを描いている。


 嘘は不発になる構文。意志が虚偽を含む場合、構文の接合が成立しない仕組み。


 呪詛は話者に反射する構文。悪意を含む構文が発動した場合、対象ではなく話者にフィードバックが返る仕組み。


 誠実な言葉はそのまま力を持つ構文。意志と共鳴と構文が全て「真」である場合のみ、言質化が正常に発動する仕組み。


 メモ帳に設計図を書き出していく。詠が横で読み、原始文法の知識で補正する。律が論理的な矛盾がないか検証する。紬が全体を整理してデジタル化する。


 四人の共同作業。声を使わない設計作業。世界の文法を書き換える——そのための設計図が、メモ帳とタブレットの上で形を成していく。


 詠が言った。


「形は見えてきた。だが実行には——お前の声が完全に戻る必要がある。SS等級の全力で、新文法を世界に刻む。声帯が耐えられるか」


 言はメモ帳に書いた。


『分からない。だが——声が戻るのを待つだけでは足りない。声を取り戻すために、声を恐れることを止める必要がある』


 ロゴフォビアの克服。十五歳から十年間、言を縛り続けてきた恐怖。


 ブレスレットに触れた。母の手編み。十九歳の誕生日。「おかえり」の記憶。


 ——鉛だと思っていた。自分の声は。


 だが鉛には、鉛の使い方がある。


* * *


 声を取り戻す鍵は、恐れを手放すことだった。


 VMB本部の屋上。言と紬が向かい合っている。手話レッスンではない。今日は——声のレッスンだ。


 言は目を閉じた。喉の奥に、まだ鈍い痛みがある。構文的な損傷。物理的な傷ではなく、言質化のフィードバックが声帯に刻んだ「構文の傷跡」。声を出そうとすると、この傷跡が声帯を締めつける。


 だがここ数週間、傷跡は薄れつつあった。囁き程度の声は出る。時折、それより少し大きな声も。回復は進んでいる。だが完全ではない。


 言が声を出そうとするたびに、ロゴフォビアが邪魔をする。声帯の傷跡と、十年間の恐怖が重なり合い、喉を締めつける。


 構文的な損傷は回復しつつある。残っているのは、心の傷だ。


 紬が手話で言った。


 〈わたしは声を出せない。言さんは声を出さなかった。でも、わたしたちは通じてる。声があってもなくても〉


 言は紬の手話を見つめた。


 〈だから、怖がらなくていい。あなたの声は、鉛じゃない〉


 言の目が熱くなった。左手首を強く握った。


 ——鉛じゃない。


 十年間、自分に言い続けてきた。「俺の言葉は鉛だ」。重くて、硬くて、人を傷つけるもの。母を三年間沈黙させた声。窓ガラスを割った一音。封印核を補強して声帯を焼いた声。


 だが鉛は——盾にもなる。放射線を遮る壁にも。重さは、守る力にもなる。


 言は口を開いた。


「……紬」


 囁きより少し大きな声。掠れているが、聴こえる。


「……俺の声は、鉛だ」


 紬は首を振ろうとした。だが言はメモ帳に手を伸ばさなかった。声で続けた。


「鉛でいい。鉛のまま——誰かを守る壁になれるなら」


 声が——微かに琥珀色に光った。


 言質化。囁き程度の声で。通常ならあり得ない。だが意志と共鳴と構文が完璧に揃っていた。ロゴフォビアが初めて緩んだ瞬間の、剥き出しの声。


 琥珀色の光は一瞬で消えた。だが紬はそれを見た。揺らいだ免疫で、琥珀の色を見た。


 紬の目から涙が零れた。声のない涙。


 〈……見えたよ。きれいだった〉


* * *


 律がコーヒーを持って屋上に来た。言と紬の様子を見て、足を止めた。


 紬が泣いている。言は静かに立っている。空気が微かに温かい。


 律は何も訊かなかった。コーヒーを二つ、二人の足元に置き、一歩下がった。


 それから——律は言った。


「篠宮さん。私は『信じます』」


 律の声が、銀色に光った。根拠のない誓約。契約師として最も難しい言質化。保証も条件もない、ただの信頼。


「声が戻るか分からない。新文法が成功するか分からない。でも——信じます」


 銀色の光が、言と紬を包んだ。保護契約ではない。ただの誓約。律の、計算を手放した言葉。


 詠が屋上の階段から現れた。四人が揃った。


 詠は何も言わなかった。ただ四人を見渡し、静かに笑った。


「五千年。待った甲斐があった。——もう一度、言おう。何度でも」


* * *


 翌朝。VMB管制室に緊急警報が鳴り響いた。


 世界五箇所の封印核で、同時に異常な構文反応が検出された。


 出雲。チチカカ湖。ギザ。シベリア。トンガ海溝。


 五つの封印核に、原声会の攻撃チームが到達していた。


 氷見局長の声が管制室に響いた。


「始まった」


 言は立ち上がった。声はまだ完全ではない。しかし——


「……行く」


 囁き。だがその一言が、微かに琥珀に光った。

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