9.幸せな男女はもう一組
さらに二年後。私がジョゼフィーヌ様に声をかけられたあの夕方から、もう三年以上が経っていた。
私とラファエル様はロジェ様の執務室で、報告書を前に苦笑していた。
「二人とも、十分すぎるくらいによくやっているようだな。頑張っておぜん立てしたかいがあったよ」
ここ一年間の我が国の外交の結果について記されたこの報告書には、二人の新人の名が繰り返し出てくる。この二人は、特に目覚ましい活躍を挙げているのだ。
「ジョゼットとロロ……同時に試験に合格した二人は、息を合わせた交渉術を得意としている。その腕前は、古株の外交官たちの間でも高く買われているそうですね。いずれこの二人は我が国の外交のかなめとなれるだろうと、そうささやかれているとか」
もちろんその名前は、ジョゼフィーヌ様とロジェ様の偽名だ。二人は何食わぬ顔で他の外交官たちに交ざって、今はあちこちを忙しく飛び回っている。
そのせいで、二人の正体を知る数少ない人物の一人である外務大臣は、毎日胃が痛くてたまらないらしい。
ちょっと申し訳ないが、彼にはあと少しだけ我慢してもらうしかない。
当然、王太子とその婚約者の姿は王宮にはない。けれど事前に根回しをしているから、そのことについて騒ぐ者もいないし、民たちにその情報がもれることもない。
「……それはいいのですが、どうして私たちがこのような……」
「まあまあ、気にするなって。似合ってるぞ?」
ラファエル様が着ているのは、ロジェ様が普段着ているものと同じ王太子の略装だ。そうして私が着ているのは、こともあろうにジョゼフィーヌ様のドレスだ。
ラファエル様とロジェ様、私とジョゼフィーヌ様はそれぞれ体格が似通っていたので、こうやって服を借りている。
要するに私たちは、王太子とその婚約者の替え玉を務めているのだ。
「元々お二人は、民の前にはめったに姿を現しません。いないならいないで、周囲に口止めをすれば済むことだったんです。なのにどうして、わざわざ替え玉を? しかも、私たちが?」
「念には念を、ってやつだよ。二百年前の王と王妃の話、あちこち動き回って国に利益をもたらす王と王妃の話はもう広めたけどな」
あの夜、私たちが王宮の書庫で見つけた過去の王と王妃の話。私たちはその事実を利用して、ジョゼフィーヌ様の未来を切り開くことにしたのだ。
「でも、そんな王と王妃ってのもいいかもしれないなって、そう民に思ってもらえるまでには時間がかかるからな。それにその間に、ロジェ様とジョゼフィーヌ様には外交の経験をうんと積んでもらわないといけないし」
そう言って、ラファエル様は軽やかに片目をつぶってみせた。そのまま、私のほうに一歩進み出る。
どうも最近彼は、少々距離が近いように思える。婚約者同士を演じているのだから仕方ないのかもしれないけれど。
「だからそれまで、ぼろが出ないようひたすらにとりつくろう。俺たちの最後の仕事だよ」
「年の頃と体格があの二人と近く、かつ全ての事情を知っている男女。そういった意味では私たちが最適なのだと、理解はしているのですが……」
「な? まあもう少しだけ、付き合ってくれよ。仮とはいえ、俺が婚約者っていうのは嫌かもしれないけどな」
さっきまでの明るい表情から一転、ラファエル様は寂しそうに目を伏せる。彼は本当に、くるくるとよく表情を変える。その変化に、つい見とれることも多くなった。
「あ、いえ、その……嫌では、ありません」
彼の誤解を解きたいなと、そんなことをふと思ってそう口にする。と、彼はぱっと顔を輝かせた。そうして、さらに身を乗り出してくる。
「だったらさ、仮をとっぱらって、本当に婚約者になるっていうのは……」
「それより、二百年前の真相は興味深かったですね」
そんな提案をしてくるラファエル様を無視するようにして、強引に話題を変える。
最近彼は、隙あらばそんなことを言うようになっていたのだ。真面目に受け取ると照れてしまうので、こうやって話をそらすようにしている。
「王たるもの王宮を離れることなく、どっしりと構えているべきものだ。そんな慣習を作ってのけたのが当時の王太子だったなんて、思いもしませんでした」
「ああ、あれな。まったく余計なことをしてくれたよな。……まあ本人からすると、必死だったんだろうけれど」
私が露骨に話をそらしたことを分かっているだろうに、ラファエル様はさわやかに笑って話に乗ってくれた。これも、いつものことだ。
「活発にあっちこっちの国を飛び回る両親に付き合わされてすっかり嫌気の差した王太子が、両親亡き後に新たな慣習を作ってしまった、そんな事情があったなんてなあ」
「若かりし日の王太子の日記には『外交は疲れた』『出かけるのはもううんざりだ』『王宮から出たくない』『そもそも私は口下手なんだ』『父上も母上も元気すぎる、助けてくれ』という言葉がずらりと並んでいましたね。……ちょっと、同情しました」
「俺もだ」
その日記を見つけた時のことを思い出して、二人でくすりと笑う。
この話は、私たち二人だけの秘密だ。他の人に話さなくても策に影響はなさそうだったし、それに過去の王太子もきっとそれを望んでいると思うから。
「一人の王太子の嘆きが作った慣習。それを今私たちがひっくり返そうとしている訳ですね。一人の令嬢の夢をかなえるために」
「……俺たちが作ろうとしている新たな慣習も、また二百年くらいしたら誰かの手によって変えられるのかもな」
「その誰かは、私たちの事情を知って驚くでしょうか」
「きっと驚くさ。そうしてこう思うんだ。当時の状況を思えば、その令嬢は大それた夢を抱いたものだなあ、って」
今度はまだ見ぬ未来に思いをはせて、また二人で笑い合う。ひとしきり笑ってから、ラファエル様がふと柔らかく笑った。
いつもの軽妙な笑いとはまるで違う雰囲気に、思わず目を丸くする。
「……なあ、あんたはわざわざ、ジョゼフィーヌ様の夢をかなえるためにここまで頑張ってくれた。ついでにもう一つ、夢をかなえてくれないか?」
「何の夢でしょうか? そもそも、どなたの夢でしょう?」
「俺の夢だよ。……ロジェ様たちが堂々と本来の身分で外交をこなすようになったら、俺たちがこうやって替え玉をしなくても済むだろう?」
夢と替え玉と、いったい何の関係があるのだろうと思いながら返事をする。
「ええ、そうですね。そうなればやっと、私も教師として働けます。なんだかんだで、もう三年もお預けを食っていますから」
「でもそうなると、今までみたいにあんたと会えなくなるじゃないか。俺は、それが嫌なんだよ。あんたともっと、ずっと一緒にいたい。それが、俺の夢だ」
「……私と、一緒にいたい……ですか?」
まったく予想もしていなかった答えにきょとんとすると、ラファエル様は熱心に言い立ててきた。
「そうだよ。というか俺、隠した覚えはないんだけどさ。あんたのことがずっと気になってるって、一生懸命訴えてたつもりだったんだけど。態度でも、言葉でも」
「……軽口だとばかり思って、受け流していました」
「まあ薄々、そんな気はしてた。だから、改めて言う。俺の気持ちを、きちんと」
きりりと顔を引き締めて、ラファエル様が姿勢を正した。つられて背筋を伸ばし、正面から彼に向き直る。
「ニネット、あんたは鉄の女なんてあだ名がつくくらいには強く、冷静で、賢い。でもジョゼフィーヌ様のために三年も時間を使うくらいにはお人好しだ。それにさ、俺と一緒に策を練っている間、とっても楽しそうだった。結構おちゃめなところもあるなって思った」
真剣に語る彼の顔から、目が離せない。二十年生きてきて、こんなことは初めてだった。
「……ロジェ様が言っていたような、雷に打たれたような感覚はない。でも分かる。俺にとっての運命の相手は、あんたなんだって。このままあんたを逃がしてしまったら、絶対に後悔する」
そうしてラファエル様は、私のほうにさらに一歩進み出てきた。私の手を取り、そのままひざまずく。やけにおごそかに、礼儀正しく。
「どうか、あんたとずっと一緒にいる未来を俺にくれ。俺の夢を、かなえてくれ」
あまりにも突然のことに、すぐに返事ができなかった。ラファエル様の手のぬくもりを感じながら、呆然と立ちすくむ。
これはもしかしなくても、求婚の申し出だ。
ラファエル様は顔を伏せたまま、何も言わない。その手が、その髪が、緊張からかわずかに震えているようだった。
「あ、あの、わたし、は」
驚くほど上ずった自分の声にあきれながら、小さく息を吸う。心臓が少し落ち着いたのを確認してから、言葉を続けた。
「……あの……私は学問なら得意なのですが……そういったことにはとんと疎くて……そんな私でよければ、その……どうぞこれからも、よろしくお願いします」
「やったあっ!!」
私が言い終えるか終えないかといったところで、ラファエル様がぴょんと立ち上がる。
そうして彼は、そのままぎゅっと私を抱きしめてしまった。なんとも無作法だけれど、嫌ではなかった。むしろ彼らしいなと、そんなことを思った。
自然と、口元に笑みが浮かぶ。これが幸せということなのだと、そう確信していた。




