1.高らかに宣言する令嬢が一人
「ニネット! こ、これからわたくしは、あなたをいじめることにいたしましたわ! ええと、か、覚悟なさって!」
夕暮れの学び舎、二人きりの教室に響いた、妙にぎこちなくも不思議な宣言。そんな言葉に、私の生活は引っかき回されることになった。予想外の方向に。
ここは王宮に隣り合って建つ、貴族の子女が通う学び舎だ。入学は任意。入学試験はなし。貴族の子女であり、十五歳以上であれば誰でも入れる。
王都に屋敷を持つ者はそこから通うし、遠方から来ている者のために寮もある。寮というより、王宮の離れのようなものではあるけれど。
この学び舎に通う理由は様々だ。将来の当主として様々なことを学ぶために来た者、年を取ってから新たな趣味として学び始めた者、そもそも勉学には興味がなく他の貴族との親交を深めにきただけの者など。
中には、やんちゃが過ぎてここに放り込まれたなどという変わり種もいるらしい。
伯爵家に生まれた私も、変わり種の一人ではある。当主の妹の孫という立場のせいか、私には伯爵家の一員として家を盛り立てていくのだという、そんな思いはあまりなかった。というか、ほぼなかった。
それに、普通の令嬢が好む社交生活というものが、どうにも性に合わなかった。実のないお喋りとたくさんの噂話、そうして恋の話。どれ一つとして、興味がなかった。
だから私はこの学び舎に入り、思う存分学ぶことにした。政治に経済、自然学から軍事まで、手当たり次第に幅広く。実家で行儀作法の練習ばかりしていた頃よりも、ずっと楽しかった。
わき目も振らずにひたすら勉学のみに励んでいる私は、学び舎ではちょっと浮いた存在ではあった。
でも特に困ることもなかったので、毎日教師のところに通ったり、図書室や自室で自習したりと、それはもうのびのびと学んでいた。
そもそもあまり勉学をする気がなく、学び舎を社交の場ととらえていた令嬢たちには、そんな私が異様なものに見えたらしい。
彼女たちはひそひそこそこそと陰口を叩き、たまに嫌がらせなんかも仕掛けてくるようになった。
といっても、たまに持ち物がなくなってとんでもないところから見つかるとか、その程度のことでしかなかった。
しかも彼女たちはあまり深くものを考えないのか、行動がとても単調だった。おかげで私は、隠されたものをすぐに見つけ出せるようになっていた。
だからやっぱり、私の生活は快適だった。卒業後はここで働いて、次の生徒を教え導いてほしいと、教師たちから声をかけられている。
私もそうしたいと心から思ったので、家族に連絡を取って頼み込んだ。しばらくして、半ばあきらめ気味の『好きにしなさい』という返事をもらえた。あの時は本当に嬉しかった。
令嬢としてどこかに嫁いで退屈な日々を過ごすよりも、ずっとずっと素敵な未来が私を待ってくれている。そうして私はより一層、勉学に励んでいたのだ。わき目もふらずに。
そんなことを思い出しながら、目の前に立っている女性を見つめる。
彼女はなぜかちょっと涙目で、ぷるぷると肩を震わせていた。なんだか、毛の長い小さな犬を思わせる姿だ。
たった今私をいじめるのだと宣言した彼女はジョゼフィーヌ様、私と同じ十七歳。でも同じなのは年齢だけ。
彼女は公爵家の娘で、しかも王太子たるロジェ様の婚約者だ。とっても愛らしい美貌にレディの見本のようなふるまい、高い知性に慈愛あふれる、非の打ちどころのない女性だと評判だ。
私と彼女は、立場から生き様から、まるで違う。そんなこともあって、私は今まで彼女と口をきいたことすらなかったのだ。
それがどうして、夕暮れの教室で彼女と二人きり、訳の分からない宣言を聞く羽目になっているのか。分からない。いくら考えても分からない。なんだ、この状況は。
「……あの、申し訳ありませんが、あなたが私に、その、何をすると?」
仕方なく、おそるおそるそう問いかける。すると、ジョゼフィーヌ様はわたわたとあわてふためき始めた。何だかちょっと可愛らしいかもしれない。
そうして彼女はどうにか気を取り直して、もう一度口を開いた。
「でっ、ですから、わたくしは、その……あなたをいじめると、そう言っているのですわ」
「……なぜでしょう? 私が何かあなたの気に障るようなことをしたのであれば、謝罪いたします。今後は行いを改めるよう、そう努力もいたします」
「いえ、そうではないのよニネット。あなたは悪くないわ。何にも、悪くないの」
「ならばどうして、そのようなことを……見たところ、あなたはそのような愚かな行為に手を染める方だとは思えないのですが」
「それは、その……とにかく、わたくしは……」
ジョゼフィーヌ様が、しょんぼりとした顔で口ごもる。やっぱり彼女のさっきの発言は、何かの気の迷いだったのだろう。よし、このまま説得してしまおう。
「思いとどまってください、ジョゼフィーヌ様。今でしたらまだ、何も聞かなかったことにできますから」
「ですから……わたくしはどうしても……」
そうしているうちに、ジョゼフィーヌ様の声はどんどん弱々しくなっていった。ほっそりとした手を胸元でぎゅっと握りしめ、うつむいてふるふると震え始めた。
「わたくしは……わたくしは……ううっ」
そしてなんと、彼女は泣き始めてしまった。白い頬を涙が伝っていくさまは、女の私からしても守ってやりたくなるくらいに可憐だ。
仕方なく彼女を手近な椅子に座らせ、泣き止むのを待つ。見回りの講師が来やしないかと、内心はらはらしながら。
「ううっ、ひっく……迷惑かけてごめんなさい、ニネット」
「いえ、別に迷惑ではありません。ただ少々驚いただけで」
いじめると宣告した相手に、素直に謝っている。やっぱりジョゼフィーヌ様のしたいことは、よく分からない。でも、彼女をこのまま放っておく気にもなれない。
「あの、何か事情がおありなのでしょうか。その……私でよければ、相談に乗りますが」
ふとそんなことを口にすると、ジョゼフィーヌ様はぱっと顔を輝かせた。しかしすぐにおろおろと視線をさまよわせ、可愛らしい眉をきゅっと寄せてしまう。
「ニネット、あなたが相談に乗ってくれるのなら心強いわ。でも……どこから話せばいいのかしら」
状況は全く分からないけれど、どうやらジョゼフィーヌ様は、何か困り事を抱えているようだった。少し考えて、彼女に尋ねる。
「そもそもジョゼフィーヌ様は、どうして私をいじめるなどとおっしゃったのでしょう? 私はあなたのことを直接存じてはいませんが、うかがっているあなたの評判からは、まるで想像もつかない行いなのですが」
「そう! そうなんですの! わたくし、自分の評判を落としたかったんですの!」
私の問いに、ジョゼフィーヌ様はまたぱっと顔を輝かせた。駄目だ、どんどん訳が分からなくなっていく。頭を抱えたいのを我慢して、もう一つ問いかけた。
「……どうしてまた、そのような……あと、どうしてその対象が私だったのでしょうか」
「それは……『鉄の女』でしたら、少しくらいいじめても大丈夫かもしれないと思いましたの……実際、他の方々の嫌がらせをものともしておられないと、そう聞いておりますもの。ごく普通の令嬢をいじめてしまったら、気に病んでしまうかもしれませんし……」
「『鉄の女』、ですか? それはいったい……」
「あら、知らなかったんですの? 『鉄の女』はあなたの二つ名ですわ。他者の嫌がらせにも全く動じることなく、常に堂々としているあなたに、みなが与えた称号のようなものですの」
そんなあだ名がついていたとは、気づかなかった。そしてそれは、称号ではないような気がする。
どちらかというと平然としている私に業を煮やした令嬢たちが、いらだちまぎれにつけたあだ名のような気がする。
ともかく、ジョゼフィーヌ様が自分の評判を落とすにあたって、できる限りの配慮をしようとしたことだけは分かった。配慮の方向性が根本的におかしい気もするけれど。
「それで結局、あなたは自分の評判を落として、どうされたいのでしょうか。何か、理由があるのでしょう?」
もう一度、真正面から問いかける。戸惑うジョゼフィーヌ様をじっと見つめて、答えを待った。
彼女は恥じらうように目を伏せて、そっと口を開いている。吐息のような言葉が、とぎれとぎれに聞こえた。
「申し訳ありません、聞きとれませんでした」
謝罪して、彼女の顔に耳を寄せる。少しだけ間が空いて、かすかなささやき声が聞こえてきた。
「わたくし、婚約破棄されたいんですの」




