Menu7 ケーキ
これは、さきちゃんが産まれる前のお話です。
さきちゃんはお空の上から地上を見下ろしていました。隣には、さきちゃんのお友達も一緒です。
昼はふわふわの雲に乗って、夜はお星様の上で見ています。
地上では沢山の人達が、忙しそうに動いていました。
「ねえ、誰にするか決まった?」
お友達が尋ねます。さきちゃんは首を横に振りました。
「うーん、まだ。どうしようかな」
「僕はあの人かな。とっても明るくて、優しそうだから」
お友達がゆび指す先には、眩しいくらいの笑顔を浮かべた女の人がいます。確かに、あの人ならば素敵です。
でも、さきちゃんは真剣な様子で会話をしている夫婦が気になって仕方ありません。一体何の話をしてるのでしょう?
さきちゃんは二人に近付いてみました。
「ねえ、いっちゃん。私、そろそろ子供がほしいの」
「うん、そうだなあ。俺達結婚して四年目だし、子供ができても良い頃だよな」
「そうよね。でも、避妊をしている訳でもないのに出来ないのは、どうしてだと思う? もしかして、何か問題でもあるんじゃないかしら」
「奈々子」
「私、不妊治療専門の病院へ行ってみようと思うの」
「うーん、どうだろう。それはちょっと早いんじゃないか? 単にタイミングが悪かっただけとか」
「ううん。実は私、半年前から基礎体温を測っているし、タイミングも見ているの。でも、妊娠する気配が無くて、おかしいなって思ってたの」
「そうだったのか。奈々子がそこまで思っているなんて、全然気が付かなかったよ。うん、分かった。何かあったら教えてくれ。俺も協力するよ」
どうやら二人は子供が欲しいようでした。
奈々子さんのお腹の中は、どうなっているのでしょう。さきちゃんは奈々子さんのお腹を見てみました。
すると、ふわふわとして、お空の真っ白い雲のようでした。見るからにとても居心地良さそうです。
なのに、どうして赤ちゃんが出来ないのでしょう?
さきちゃんは奈々子さん達が気になって仕方ありませんでした。
数日後、さきちゃんは再び奈々子さんの様子を覗いてみました。
すると、奈々子さんは病院にいました。どうやら色々と検査を受けたようで、何度も溜息を吐いています。今日の奈々子さんは、いつもと違って元気がありません。とても疲れた様子ですが、一体どうしたのでしょう? 心配になったさきちゃんは、奈々子さんに付いて行きました。
表情の冴えない奈々子さんは、お家に帰って樹さんとお話してます。
「いっちゃん。今日の病院の検査、痛くて辛かった」
「そうか、しんどかったんだ。検査って大変なんだなあ」
「うん。それでね、先生から、次回はいっちゃんも一緒に検査を受けるように言われたの」
「えっ、僕も? …うん、そうだよね。分かった。仕事が休めるか聞いてみるよ」
「ありがとう。お願いするわ」
数日後、二人は揃って病院を受診すると、検査を受けていました。
様々な検査の結果、奈々子さんの体に異常が見つかりました。
奈々子さんには赤ちゃんが宿るために必要な、卵がある時と無い時があったのです。だから、妊娠できなかったのでしょう。
検査の結果を知った二人は、度々相談し合っていました。そして、不妊治療を受ける事になりました。
それからの奈々子さんは、長い間病院に通い続けていました。
薬を使って治療を続けますが、一回、二回目の治療は上手くいきません。奈々子さんはどんどん元気が無くなっていきます。傍で見ているさきちゃんは、奈々子さんには聞こえないと分かっていても、応援せずにはいられませんでした。
三回目のチャレンジで、ついに奈々子さんの治療は成功しました。
卵は無事に、奈々子さんのふわふわとしたお腹の中で育ち始めたのです。
さきちゃんは嬉しくて仕方ありません。奈々子さんと樹さんも、喜びを噛み締めています。
奈々子さんのお腹の準備が整うと、さきちゃんは迷わず奈々子さんのお腹の卵に飛び込みました。一生懸命に治療を受けている奈々子さんと、それを傍で支えている樹さんが大好きになっていたのです。
「樹さん、奈々子さん。わたしのお父さんとお母さんになってね」
さきちゃんは、奈々子さんのお腹のお布団に包まれました。そこは、温かくてとっても居心地良い場所でした。
さきちゃんが奈々子さんのお腹に宿って六カ月が経ちました。初めの頃はとっても小さな体でしたが、今では随分と大きく育ち、手や足を動かすとお腹の壁に当たります。
それに、奈々子さんや樹さんの声が、はっきりと聞き取れるようになりました。奈々子さんは優しい声で、お腹の中のさきちゃんに話しかけてくれます。さきちゃんは、返事の代わりにお腹の壁をぽこんと蹴りました。奈々子さんが嬉しそうに笑う声を聞くのが楽しくて、幸せでした。
それは、ある日突然襲ってきました。
苦しいよ、お母さん!
さきちゃんは体のあちこちが痛くてバラバラになりそうです。ぎゅっと全身が引き絞られて、息ができません。さきちゃんを包むお腹の壁が、ぎゅうぎゅうと締まってさきちゃんを押し出そうとします。まだ、六か月です。お腹の中から外に出るには、準備ができていません。
助けて!
さきちゃんは辛くて苦しくて、身動きできなくなりました。
わたし、このまま死んじゃうのかな?
ぼんやりと思った時、お母さんの唸り声が聞こえてました。
ああ、お母さんも苦しんでる。
「私の赤ちゃん、頑張って。大丈夫、すぐに病院に行くからね」
何度も繰り返し話しかけてくれます。お母さんだって、とっても辛そうなのに。
誰かが救急車って言ってます。
……おかあさん。
さきちゃんはそのまま意識が無くなってしまいました。
「私の赤ちゃん頑張って。お願い、生きていて」
お母さん?
いつの間にか痛みは消えていました。もう、どこも苦しくありません。
わたし、生きてるよ。がんばったよ。
さきちゃんはお腹をぽんと蹴りました。お母さんが小さく驚いた声を上げました。
さきちゃんは元気である事を伝えたくて、お腹の壁をぽこぽこ蹴りました。
「ああっ、良かった! 私の赤ちゃん、良く頑張ったね。ごめんね、苦しかったでしょう。お母さん、もう無理しないから」
お母さんの声はかすれていて聞き取り難く、度々つっかえました。
「赤ん坊も奈々子も無事で本当に良かった。一時はどうなるかと思ったよ。もう、このまま出産まで仕事は休んだ方がいいな」
「……そうさせてもらう。いつもありがとう、いっちゃん」
お父さんの声も聞こえます。
さきちゃんは危うく早産しかけましたが、なんとか落ち着きました。
その日以降、奈々子さんは仕事を休みました。
「もう、十か月だな。予定日まであと一週間か。ああ、無事産まれてくれよ」
「そうだね、赤ちゃん。お母さん、あなたに会えるのが楽しみだよ」
大丈夫だよ、お父さん。わたしもだよ、お母さん。
ばしゃん!
とうとう破水が起きました。いよいよ出産です。さきちゃんの周りを包む、お腹の壁がきゅうきゅうしています。
「私の赤ちゃん、一緒に頑張って乗り越えようね」
うん。いっしょにがんばるよ。大丈夫、すぐに会えるから。
全身がぎゅうぎゅうと締め付けられて、頭の形が歪みます。苦しいけれど、なんとか耐えて進みます。
外からは、お母さんの声が聞こえてきます。うんうんと、とても辛そうな声です。
お母さんもがんばってるんだ。わたしだって!
さきちゃんは、ゆっくりゆっくり体を回転させました。少しでも、外へつながる道を通り抜けやすいように。
突然、周りが眩しくなりました。体の締め付けが無くなります。全身がひんやりとした空気にさらされて、とても寒いです。
さきちゃんはお母さんのお腹の中から、外の世界に出たことが分かりました。
思いっきり、さきちゃんは声を張り上げました。声を張り上げると胸が大きく膨らんで、どっと血が全身をめぐりました。
わたしは生きてる。
声は言葉にならなくて、代わりに甲高い鳴き声が出ました。
やった! 無事に産まれる事が出来たんだっ!
大きな事をやりとげたという気持ちが、体中をぐるぐると満たします。あと、ほんのちょっぴりですが、二度と戻れないお母さんの腹の中が恋しくなりました。
「可愛い女の子ですよ、お母さん」
誰かが言ってます。
さきちゃんは泣き続けました。
お母さん、どこ?
「私の赤ちゃん、産まれてきてくれてありがとう」
お母さんの優しくて震えるような、ぴかぴか輝く声が聞こえます。
体が温かい何かに包まれました。
とくん、とくん。
聞き慣れた心臓の音が聞こえます。
お母さんだ。
お父さんが泣きそうな声で、良くやったって繰り返してます。
お父さん、お母さん、初めまして。ようやく会えたね。
「咲ちゃん、お誕生日おめでとう。一歳になったんだよ」
さきちゃんは産まれてから初めての誕生日を迎えました。
さきちゃんはイチゴのケーキを頬張りました。三層に分かれたケーキは甘酸っぱいイチゴがたっぷりです。もぐもぐすると、スポンジがふわっ、クリームがとろっとなりました。
「咲、誕生日おめでとう。あっという間の一年だったな。お前は知らないだろうけど、お父さんとお母さんの間には、なかなか赤ちゃんを授からなくてね。でも、諦めないでいたら、お前が産まれてくれたんだよ」
「そうよ、咲ちゃん。だから、このケーキみたいに家族みんなの思い出を少しずつ重ねていきたいのよ」
さきちゃんは知っています。お父さんとお母さんがとっても苦労して、さきちゃんを産んでくれた事。
頼もしいお父さんと優しいお母さん。二人の笑顔はお陽さまみたいです。いつもと変わらないお家の中は、お母さんのお腹の中のようです。
温かい笑顔に囲まれて、さきちゃんの顔も輝きました。
読んで下さいましてありがとうございました。
今回で最終回となりました。
この企画を運営してくださった、桜庭春人さんには深く感謝いたします。また、最後まで楽しく参加する事ができたのは、共に参加して下さった皆様と読んで下さった皆様のおかげです。
皆さま、ありがとうございました。