第二十一話
渓谷へと一歩足を踏み入れた途端、周囲の空気が肌に張り付くように重くなった。
『鳴き砂の渓谷』。その名の通り、風が岩肌を削り、砂を巻き上げる音が常に微かな鳴き声のように響いている場所だが――今のそこには、妙な静寂が広がっていた。
「……おかしいな。気配が薄すぎる」
先頭を進むレオンが、腰の細剣に手をかけながら周囲を鋭く見回す。
本来なら、外縁部へと逃げ出した影狼たちの縄張りであり、どこから奇襲されてもおかしくない岩陰が連続している。だが、いくら進んでも魔物の唸り声ひとつ聞こえない。落ちているのは、何かの魔物が激しく争った形跡と、不自然に干渉されてボロボロに崩れた岩塊だけだった。
「ギルドの報告通りだね」
カラスが小剣の柄から垂れる白銀の巻布に触れながら、冷淡な声で言った。
「周囲の魔力を含んだ土壌ごと、何かが貪り喰らった跡だ。魔物どもが命からがら逃げ出すわけだ。生存競争の舞台にすらなっていない。ここはすでに、奴の胃袋の中も同然だ」
「ケッ、不気味な静けさだぜ。いっそ派手に出迎えてくれた方が――」
ガロが不敵に笑おうとした、その瞬間だった。
――ズ、ズズ……。
足元の砂が、生き物のように小さく波打った。
直後、大気が激しく震動し、鼓膜の奥を揺さぶるような重低音が渓谷の底から響き渡る。
「おい、地面が――っ!?」
誰かの悲鳴を掻き消すように、俺たちの数十メートル前方の地面が一気に爆発した。
大量の砂煙と巨大な岩盤が天高く跳ね上がり、そこから『それ』が姿を現す。
「――グオォォォォォォォオオオンッ!!!」
凄まじい咆哮。風圧だけで、押し寄せる砂混じりの暴風が俺たちの顔を叩く。
砂煙の向こうから現れたのは、尋常なサイズではない、文字通り「家屋」がそのままのたうっているかのような超巨大な大蠕虫だった。
全長は二十メートルを優に超えている。そして何より異様なのはその質感だ。通常のワーム種のような湿った皮膚ではなく、周囲の岩石や魔鉱石を体内で再構成したという、漆黒の、そして結晶混じりの分厚い『岩盤の外殻』が全身を鎧のように覆っていた。
ただそこに存在するだけで、周囲の空間が押し潰されるような圧倒的な威圧感。生存本能が「逃げろ」と脳内で警鐘を鳴らす。
「くっ……これが、変異種『地喰らい』……!」
「ひるむなッ! 散開しろ!」
ガロの怒号が響く。大盾を構えた『鋼の轍』の重戦士たちが一斉に左右へ飛びのいた。
直後、地喰らいの巨体が、信じられない速度で地面を滑るように突進してきた。その質量自体が凶器だ。
ドガァンッ! と、ガロたちが一瞬前までいた巨大な岩柱が、まるでおもちゃのように粉々に粉砕される。
「仕掛けるよ! 『白銀の風』、散開して注意を引け!」
レオンが叫び、軽戦士たちが風のように渓谷の壁を駆け上がる。上空から無数の矢と投擲ナイフが奴の頭部に降り注いだが、キン、キン、と虚しい金属音を立てて、分厚い岩盤の外殻にすべて弾き返された。
「硬ってぇなクソが! ガロ、受け止めるぞ!」
「おうよ! 舐めるなよ虫ケラがぁッ!」
ガロともう一人の重戦士が、魔力を込めた大盾を地面に突き立て、突進してくる巨体を正面から受け止めにいく。
凄まじい衝撃音が響き、ガロたちの足元の地面がメリメリと陥没した。
「ぐ、うぅぅっ……! 重てぇ……ッ! なんだこの質量は!?」
あの頑丈なガロの顔が、一瞬で苦悶に歪む。押し込まれる大盾。奴の巨体が、ただ前進するだけで前衛の防御を強引に圧殺しようとしていた。
「アルフ、今だ! 奴の側面が空いている、仕掛けろ!」
後ろからカラスの鋭い声が飛ぶ。
「分かった!」
俺は俊敏に地を蹴り、ガロたちが正面で奴の進撃を止めている隙に、無防備な側面へと回り込んだ。
まずは小手調べだ。飾り布には触れず、柄の上の部分を片手で握り込んでいつもの出力で小剣に光刃を纏わせる。
狙うのは、分厚い岩盤の節々と節々の間。硬いのは想定済みだ。いくら変異種とはいえ、この魔法剣の鋭さなら、確実に傷を負わせることはできるはず――!
ガキィィンッ!!
「……っ、浅い!」
手応えは、まるで巨大な鉄塊を叩いたようだった。火花が激しく散り、光刃は奴の外殻の表面を僅かに削り取っただけで、肉の深くまで届くことなく強烈な反発力で押し返された。傷をつけるどころか、こちらの刃が弾かれそうになる。
(やっぱり、生半可な出力じゃ外殻の層すら突破できないか……! なら、これならどうだ!)
俺は即座に後方へ跳んで間合いを戻すと、流れるような動作で、左手に持ち替え垂れ下がっていた白銀の飾り布をくるりと右手に巻き付けた。そのまま、両手で柄を深く握り込む。
第二形態。俺自身の制御だけで扱える、高出力の構えだ。
「おおおおおっ!」
手のひらから巻布の呪力が流れ込み、小剣の光刃が一回りも二回りも巨大化してバチバチと激しい熱風を巻き起こす。その大出力の刃を、もう一度同じ節々の隙間めがけて全力で振り下ろした。
ズバァァァンッ!!
「グオォォッ!?」
今度は確かな手応えがあった。硬い岩盤を強引に焼き切り、肉の深くまで光刃が食い込む。地喰らいが痛みに身悶えし、狂暴な咆哮を上げた。
「やった、通るぞ!」
だが、喜んだのも束の間。地喰らいの反応は、その巨体からは想像もつかないほど敏捷だった。
傷を負わされた怒りのままに、奴は巨体を凄まじい速度でのたうち回らせ、まるで巨大な丸太のような尾を鞭のようにしならせて、俺の視界を完全に塞ぐように薙ぎ払ってきたのだ。
「――っ、速い!?」
高出力を維持したままでは咄嗟の回避が間に合わない。俺の目の前に、圧倒的な質量が容赦なく迫っていた。
「アルフ、防げっ!!」
カラスの鋭い警告とほぼ同時に、俺は右手の飾り布を握り締めたまま、小剣を盾にするように胸の前に構えた。
ドガァァァンッ!!!
直撃の瞬間、全身の骨がきしむような衝撃が襲う。高出力の魔法剣の光刃が、奴の尾の岩盤をいくらか焼き切って威力を減衰させてくれたが、それでも残る質量は圧倒的だった。身体が軽々と宙に浮き、後方の岩壁へと枯れ葉のように吹き飛ばされる。
「がはっ……!」
背中から岩壁に叩きつけられ、地面に転がった。全身に凄まじい衝撃が走り、肺の中の空気が強制的に押し出される。
「アルフレッド君!」
「おい、大丈夫か『白夜の黒翼』のリーダー!」
レオンとガロの焦燥の混じった声が響く。だが、変異種は追撃の手を緩めない。
痛みに狂う地喰らいは、俺を確実に圧殺せんと、その巨大な頭部を天高く持ち上げ、俺が倒れている岩壁ごと叩き潰そうと一直線に落下してきた。
「しまっ――」
身体が痛みに悲鳴を上げ、咄嗟に動けない。視界を覆い尽くす漆黒の岩盤。
「――愚鈍な虫ケラめ、私を忘れるな!」
その瞬間、カラスの凛とした声が渓谷に響き渡った。
彼女の指先から放たれたのは、昼間に仕込んでいたあの奇妙な丸い小物――万が一の際の脱出用として作った、土神の性質を反転させる呪具だ。それが、突進してくる地喰らいの開かれた大口へと正確に吸い込まれていく。
次の瞬間、地喰らいの巨体がピきりと不自然に硬直した。
「ガ、グ……オ……ッ!?」
奴の体内から、どす黒い魔力の霧が噴き出す。土神の硬度を逆手にとった強烈な「腐敗と嘔吐感」の呪いだ。
地喰らいは俺の目の前で激しく身悶えし、凄まじい勢いで体内の未消化の岩塊や胃液をぶちまけながら、たまらず横へと倒れ込んだ。
「ふん、思った通りの反応だな。アルフ、立て! 立てるな?」
カラスが素早く俺の前に駆け寄り、手を差し伸べてくる。普段なら絶対に人前で見せない、前髪を大きくかき上げたあの強い瞳が、まっすぐに俺を射抜いていた。
「……ああ、おかげさまでな。助かった、カラス」
俺はその手を掴んで執念で立ち上がると、すぐに小剣を構え直した。
奴は今、呪術による内側からの拒絶反応で完全にパニックを起こしている。だが、最上位の変異種だ。この程度の足止め、すぐにその強大な魔力でねじ伏せて再生を始めてしまうだろう。
「奴の動きが止まっているのは今だけだ! 全員、一斉に叩き込むぞ!」
ガロが大斧を振り上げ、レオンの細剣が鋭い風の刃を纏う。
傷だらけになりながらも、俺たちの本当の反撃がここから始まろうとしていた。
「約束通り奴の再生の根を断ち切る!」
カラスが鋭く叫びながら、懐から昨日調合した特製の呪符を取り出した。嵐鴫の尾羽に『銀の月砂』と『夜咲き草の毒素』を編み込んだ、対地喰らい用の切り札だ。
「――逆巻け、流動。狂え、大地の軛!」
カラスが呪符を投げつけると、それは地喰らいの傷口へと吸い込まれるように張り付き、禍々しい紫色の光を放った。
瞬間、地喰らいの漆黒の外殻が、まるで内側から沸騰したようにボコボコと不気味に歪み始める。やつの纏う土神の『固定』に対して風神の『流動』が衝突し、さらに月神の『狂気干渉』が奴の術式を完全に崩壊させていた。本来なら瞬時に塞がるはずの傷口から、泥のような体液が溢れ出し、再生の兆候が完全に停止する。
「効いてる! 奴の再生が止まったぞ!」
レオンが叫び、すかさず『白銀の風』の軽戦士たちが猛攻を仕掛けた。
だが、再生能力を狂わされた地喰らいは、その恐怖と激痛から、これまでの統率された動きを捨てて、文字通り「無秩序な発狂状態」へと陥った。
「グオォォォォォォオオオオオッ!!!」
地喰らいは巨体を狂ったように激しくのたうち回らせ、周囲の岩壁に自らの身体を激突させながら暴れ狂う。
前後不覚となった巨躯が、デタラメな軌道で渓谷内をなぎ払う。凄まじい風圧と、雨のように降り注ぐ岩石の破片。
「うおっと!? 危ねぇっ!」
ガロが慌てて大盾を掲げて身を縮める。奴の暴走は凄まじく、迂闊に近づけばその不規則な肉体の蠢きだけで消し飛ばされかねない。
「チッ、再生が止まったのはいいが、マトモに近づけねえぞ!」
「ガロ、焦るな! 確実に隙を狙うんだ!」
俺は第二形態を維持し、右手に白銀の飾り布を巻き付けたまま、目を凝らして突撃の機会を伺う。
地喰らいの尾が岩肌を砕いた直後、一瞬だけ生じた死角へ俺とレオンが同時に飛び込んだ。
「ハァッ!」
レオンの細剣が高速の刺突を繰り出し、奴の側面に小さな風穴を開ける。俺もすかさず、高出力の魔法剣をその傷口へと一文字に走らせた。
バチィィン! と、再び分厚い肉を焼き切る確かな手応え。しかし、奴は痛みに怯むどころか、さらに速度を上げてその場で大回転を始めた。
「くっ、離れろ!」
欲張らずに即座にバックステップを踏んだが、迫り来る岩の皮膚が俺の防具をかすめ、火花を散らす。
攻撃を当てることはできる。カラスの呪具のおかげで、与えたダメージは蓄積しているはずだ。だが、奴の暴れ方が尋常ではなく、まともな連撃を叩き込むチャンスが圧倒的に少なすぎた。
「グガァァァッ!」
追い詰められた地喰らいは、形勢を立て直そうとしたのか、その巨大な頭部を地面へと突き立て、一気に地中へと潜航しようと試みた。
「させるかよぉッ!!」
それを予測していたガロと『鋼の轍』の重戦士たちが、一斉に地喰らいの頭部へと群がる。魔力を乗せた重い一撃を次々と地面へ叩きつけ、大地の硬度を強引に破砕して振動を起こし、奴が潜るための足場を狂わせた。
「上空は任せなさい!」
壁を駆け上がったセシルが、退路を塞ぐように無数の爆辞矢を奴の鼻先に撃ち込む。轟音と共に砂煙が上がり、地中への潜航は見事に阻止された。
「ナイスだ、みんな!」
潜るのを防がれた地喰らいは、再び地上でのたうち回る。
俺たちはその無秩序な嵐のような暴風の中に何度も飛び込み、ヒット&アウェイを繰り返した。レオンの細剣が奴の視界を奪い、ガロの戦斧が外殻の節を叩き割り、俺の魔法剣がその隙間の肉をじわじわと削り取っていく。
じりじりと、だが確実に地喰らいの体力は削られていた。しかし、こちら側の消耗も激しい。
デタラメに振り回される巨体を避け続けるだけでも、体力が、そして何より集中力が限界を迎えつつあった。




