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ギイ ギイ
部屋に入ると足音が大きく響く。そして中には誰も居なかった。
「なんだ、誰も居ないのね。あ、涼しい」
そしてエアコンだろうか? 涼しい空気が室外に流れだす。だが何かがおかしい。部屋には家具らしい家具は一切無く、天井付近にいくつもの棒が部屋の上部の右端から左端に規則的に設置されており、そこにハンガーがびっしりと掛けられていた。が、それには何も掛かっていない。なのに何かが掛かっているかの如く、室内のエアコンの微風に合わせ、ゆらゆらと動いている?
「え? 家具も何もない? ハンガーはあるけど……いや、怪しいわ! おはようございまーす! 誰も居ないんですかあああ? おはようございまあああああす!! 隠れても無駄ですよおおおお? 全て分かるんだからねええええ?」
照男の件もある。誰か透明になる術でも使って潜んでいないかということも考え、必要以上に声を上げるも反応はない。不気味なほどに静か。
だが、ここはいつもの普通の和室ではない。
ふすまを開けた瞬間、まず感じた物、それは嗅覚の異変だった。涼しい空気に交じって鼻腔を刺激したそれは、どこか生々しい、しかし特定の起源を辿れない、湿ったような、あるいは鉄が錆びたような微かな匂いだった。それは換気の悪い閉鎖された空間特有のものではなく、もっと有機的な、しかし正体の掴めない不快な香りで、アリサの表情は一気に曇る。
「お、お邪魔します」(何この臭い……? それに足が重い? なんで?)
とことこ
一歩。
二歩。
三歩。
その時だった。
カラン。
「え?」
思わず振り返る。だが、誰もいない。音の正体は入口付近に掛かっていたはずのハンガーが一つだけ揺れていた。その音だろう。
左右にゆっくりと揺れている。
ギイ……ギイ……
まるで今しがた誰かが触れたかのように響く。
「風……?」
そう呟く。しかし部屋の空気はほとんど動いていない。いや。むしろ動いているのはハンガーの周囲だけだった。
まるで見えない何者かがその隙間を通り抜けたかのように。さらにアリサは天井を見上げる。
何十本もの棒。そして大量のハンガー。改めて見ると妙だった。数がおかしい。異様に多い。
まるで何かを大量に吊るすためだけに作られた空間。それも一着や二着ではない。数十、あるいは百を超えるほど。
「洗濯物……を乾かす専用の部屋? にしては天井が高すぎるよね」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。しかし。
キュイ……
どこかで音がした。アリサは反射的に顔を向ける。
何もない。何も見えない。だが、見えないはずの場所に、確かに視線を返された気がした。
そう、何かがチラチラと動いている様に見えるのだ。そして何もないのに足取りが重い。更に何故か明かりがつけっぱなしだが、部屋の空気は重く、まるで部屋全体の酸素が別の何かに吸い尽くされているかのように薄い。
『何か見えないものが複数、頭上付近でゆっくりと、しかし確実に揺らめいている』
のが僅かに感じ取れる。もちろん確証はない。それに視覚に直接捉えられるものではない。しかし、視野の端、焦点の定まらない空間に、
『水中に光が屈折するような、あるいは薄い靄が微かに波打つような、掴みどころのない歪み』
が、幾つも、確かに存在しているのだ。これは彼女ならではの直感の鋭さからくるものなのか、それとも? ただの気のせいなのか? 視点を一点集中している時には現れず、その輪郭は更に曖昧になり、視線を外し、ぼうっとしている時に周辺視野にわずかに入り込む違和感。その瞬間にだけ、謎の「歪み」の影が網膜に焼き付くように自己主張を始める。それらは何かの形を成しているのかもしれない。あるいは、それ自体が呼吸をしているかのように、不規則に膨らんだり、縮んだりしているようにも見える。その見えない
『何か』
が動くたびに、アリサの鼓膜を、ごく微かな、しかし粘着質な
『キュイ、キュイ……』
という摩擦音が撫でる。まるで、ガラスに鋭利な金属を滑らせるような、ゾッとする音だった。それは耳の穴から脳髄へ直接、冷たい針を刺し込まれるかのような嫌な響きを含んでいる。見えないものがこれほどまでに存在感を主張していることに、アリサの胃の奥から吐き気を催すような不快感がこみ上げてくる。まるで、脳が認識できないものを無理やり認識させられているかのような、神経的な圧迫感だ。全身の皮膚が粟立ち、首筋の産毛が逆立つ。
「うっ……うええええええ」
思わず嗚咽に似た喉の奥から出る呻き声が漏れる。そして起き抜けで空腹であるはずなのに、何かが腹の奥から込み上げてくる。 そう、視覚が受け入れられない情報と、聴覚や嗅覚からくる不快な感覚が混ざり合い、平衡感覚すら狂わされるような錯覚に陥る。いつもなら脳内で自動的に発動するはずの好奇心旺盛な思考さえ、この不快な空間の雰囲気によってかき乱され、正常な判断を下すことを拒絶している。自身の脳が
『危険だぞ、これ以上この空間を調べるな』
と危険信号を激しく鳴らしているようにも感じるのだ。アリサは思わず片手で口元を押さえ、もう一方の手で壁を探り、助けを求めた。だが、触れた壁の感触すらも、どこか冷たく湿っており、まるで生き物の肌に触れてしまったかのような錯覚に襲われ、思わず手を引っ込める。この部屋には、目には見えないが、確かに
『何かが充満している』
その存在の曖昧さと、触れられない実在感が、アリサの精神を蝕むように、深く、重くのしかかり、彼女の常人離れした好奇心からくる進行しようとする意思すらをも削ぎ落とす。限界だった。アリサはふらふらになりながら、這うようにして外へ逃げ、出口でへたり込む。
「はあはあ……え?」
部屋を出た瞬間だった。さっきまで感じていた吐き気が嘘のように軽くなる。夏の朝の蒸し熱い空気さえも、今のアリサにとっては癒しの空気となったのだ。
肺に空気が入る度、異物が体から出て行く気分になり、呼吸がだんだん楽になる。
「すううううう……はああああああ」
アリサは本能的に何度も深呼吸を繰り返す。外の空気はいつも通りだった。
つまり。気分が悪かった原因は自分ではない。
あの部屋だ。間違いなくあの部屋そのものがおかしい。だが今は何も考えられない。
「はあはあ、な、なんなのあの部屋? あれ? ここ和室っぽいのに全てが畳じゃなくてフローリングが入り口にあったわ?? あれもウグイス張り? で、上にはハンガー? みたいのが沢山掛かってた……で、でも、な、何もなかったよね? で、でも……目がおかしくなった? 何この感覚……まだ起きたばっかりだから? いや、そんな……」
ブー、ブー
「あら? 何よこの忙しい時に……」
携帯が振動音を鳴らす。照代のツイートだ。何気なく見ると、1枚の画像とともに
『おいしそう、これがおすすめメニューらしいわよ』
とつぶやいている。
「はあはあ、こんなの見てる場合じゃ……空気を入れ替えないと……」
汗だくでスクロールし画像を見る。大きな肉が映っている。いかにも辛そうな赤いタレがその肉にかかっているな。私も腹が減ってきた。だが、私は負けない。
「お! これはおいしそう……いや、いかにも辛そう……胃もたれするわ……今入った部屋のせいでちょっと胃がムカムカするから、一気に食べるのは危険そうね……はあはあ……なんだったんだよあれ……あれ? てか今回は本当につぶやいてるじゃん。ふうふう……お見合いを経て、あの子も人間的にも成長したのかも? 人って簡単に成長するんだね。まるでソシャゲのガチャで被ったキャラを重ねただけ強くなれるような謎であり全く努力の形跡が見えない成長をするじゃん。
実はあの子、データ上の存在だった? 可能性はゼロではない……なわけないかwww後で褒めてあげないとね。でも確保だけはしとかないとね! 早く行かなきゃ無くなっちゃう」
すると
「姉さあああああああん! まだ起きてないでござるかあああああ? 姉さああああああん!」
照代の呼び声が下の方から響く。その声に現実に立ち返り、奥に歩みを進める足を止める。
「ちょっと! あのおばさん! 姉さんって……大声で言うなよ……ここ、じっくり調べたいなあ……後でまた来よっと。逃げる訳じゃないからね! 多分腹が減ってたからあんな失態をしたのよ! 戦闘準備してからまた必ず来るからな。覚えとけ!」
まるで負けを認めているような発言だな。急いで姉さん発声装置の電源のオフへと向かう。
スー パタン タタタタタ
「あっ! 起きてた!」
「ごめんごめん。でも姉さんはあまり大声で言っちゃ駄目よ?」
「すまないでござる」
「そう言えばツイッターで呟いてたけどこの屋敷は携帯禁止じゃなかったの? メイドさんが言ってたよ?」
「もちろん父さんから許可を得て使ってるでござる」
「てことはWi-Fiはあるのね? まあそこらへんに色々な近代技術がある屋敷だしそれくらい当たり前よね」
「そうね。生徒だけ禁止ってことね。でもあんなに楽しみにしてたおすすめメニューに遅れるなんて……どうして?」
「あの布団の中さあ居心地良すぎて……出たくなくって。布団にチェーンでも付いてる感じで逃げ出せなかったよ」
「ああ、どおりで……姉さんは永眠の間で寝たでござるね?」
「あそこ永眠の間って名前だったの? 確か秘匿の寝床の間って名前だったよ?」
「ああ、実は拙者も正確には覚えておらんでござる」
「だよね。この屋敷の部屋いちいち覚えにくいもん。鍛冶屋の名前は霧隠の炉だし、昼食と夕食を食べたところは闇饗秘饌の間で、お風呂は潜影檜の湯の間でしょ?」
「流石姉さんでござる。拙者、一つたりとも覚えてないでござる!」
「大体わかるわ。でも確かに永眠しても仕方ないレベルの心地の良さだったわ」
「あそこの布団は2日に一回は寝ているでござる。逆に毎日は危険でござる」
「ああ、わかるわあ! 二度と出られない気がする」
実際体験した者のみが分かる感覚なのだろうな。
「私のツイート見た? あれはいい物でござるよ。拙者、姉さんと一緒に食べる為に食べずに待っていたのでござる」
「みたわよ。良く撮れてた。おいしそうだと思ったよ。やっぱり新聞記者って撮影上手いんだなって思ったわ。そして本当にツイート出来たってのも感動したのよ。よく頑張ったじゃん」
「そこに気付いてくれて嬉しいでござる! 流石姉さん!」
「うーん」
「あれ? どうしたの?」
「さっき入った部屋ね。なんかゆらゆらしてたのよ」
「どこ?」
「変な英語で書かれた部屋よ」
「ああ、あそこね。あそこは分からないのよ。一度も入ったことないわ」
「そうなんだ。確か家に戻ってまだ一週間もないくらいでしょ?」
「ええ。でもこの屋敷広すぎて全部屋を網羅してはいないのよね。高校生までいたけどその時と随分変わっちゃっているし、あの事件さえなければここに帰るつもりはござらんかった」
「ってことは12年ぶりに帰ったのね?」
「そうでござる。それにあそこはカギがかかっているはずでござるし……」
「え? でも開いてたけど?」
「え? そうなの? じゃあ鍵を閉め忘れたのかもね」
「へえ」
「しかし元気がないでござるね」
「腹が減ってそれどころじゃないの」(それとあの謎の部屋に入ったせいで気分が悪くなったってのもあるかもしれない)
「ではいざ一階へ急ぐでござるよ」
「あ、お見合い終えて感想は? 一晩経ったけど誰かに絞れた?」
「3人にまでは絞れたでござるが……」
「遅い! でも脱落者がいるんだwwwで、誰なの?」
「秘密でござる」
「あっそ。じゃあご飯に行きましょう」
「素っ気ないでござるねえ……」
「食い下がって欲しかったのかい!!」
「そうでござる!!!」
二人は長い廊下を歩く。窓から差し込む朝日。しかしアリサは何度も振り返ってしまう。
あの部屋がある方向を。
「何で振り返ってるの?」
「いや……」
すると、振り返った時に偶然壁には歴代当主らしき肖像画を見つける。
「この爺さんは?」
「真田行家の創始者、真田行照故だったかしら?」
「あ、これも生きてる故って言い換えられるじゃん。よく出来てるよねー。で、隣の奥さん? は?」
「……」
「あら?」
「思いつかないで……ござる」
「先祖の名前を思いつかないって……ああ、よく考えたら照代と照乃ぐらいしか女の名前で真田行に続く名前ってないもんなあ」
「まだいきてるこでいいでござる」
「んな投げやりな……じゃあ死んだと思っていて起き上がったら
『まだ生きてる子!』
って言うのね? あんたはまだ生きてるよ! これは普通。お母さんも、まだ生きてるの! これもいい。で、問題の作品、まだ生きてる子! やっぱなんか変ね」
「まだ生きてる子なんだよってことで何とか……」
「統一性がないなあ」
「他に何があるねん! 無理やん」
「なんで関西弁やねん! ドアホ!」
そう言っている間に食堂に到着。ついにおすすめメニューとの対面である。




