68話
氷柱が刺し貫かんとする標的は勿論、ローブの男――――アスモデウスだが、その隣には未だ一切の動きを見せないリリーが控えている。
次から次へと氷柱を生成していくティターニアにメリアは呼びかける。
「ティターニアさん! リリー・スカーレットに当たってしまうのでは!?」
「そんなヘマは絶対にしないから安心して! というより――――」
ティターニアの顔色は険しい。
彼女は分かっていた。
この程度の魔術では、この男は殺せないと。
「燃やし尽くせ、<ヘルファイアスフィア>」
アスモデウスが淡々と呟くと前方に、あらゆるものを燃やし尽くしてしまいそうな業火の炎球が顕現する。
それはいわば太陽のミニチュアのようなものであり、千の氷柱はその炎球に近づくやいなや瞬く間に溶かされ、蒸発していった。
白い蒸気が両者を隔てる。
一時的にではあるが、視界が遮られるその最中、メリアを真っ直ぐに見つめると、口を開いた。
それはひどく真剣な口調であった。
「一つだけ頼まれてもらってもいいかしら」
「何でしょう……」
「私があいつをリリーちゃんから可能な限り引き離す。だから、その隙にこれを振りかけて」
ティターニアは何も無い空間に手を突っ込むと、液体の入った小瓶を取り出した。
蜂蜜のような色味をした金色の輝きを放つ液体。
「これは黄金のエリクシア……!」
「その反応だとご存知のようね。博識で助かるわ。一応、説明するけど、どんな病気だろうが呪いだろうが一発かければたちまちに回復するスーパー霊薬よ。これを振りかけてやったらおそらく、リリーちゃんは元に戻る」
そう言うと、メリアにエリクシアを手渡した。
「じゃ、頼んだわよ!」
そう言うと、ティターニアは蒸気の中を突っ切っていった。
程なくして、ティターニアと思しき怒声が聞こえたかと思うと、前方から突風がメリアを襲い、それとともに目の前の蒸気も消え去る。
次にメリアの視界に映ったのは、空中に吹き飛ばされるアスモデウスと更なる追撃を加えんと飛翔するティターニアの姿。
ティターニアさんが先手を取った。
ならば、自分のやるべきことはひとつ。
リリー・スカーレットの元へと向かい、この霊薬を振りかけるのみ。
その使命を全うせんとして、駆け足でリリーの元へと向かう。
空間の上方では、高度な魔法同士がぶつかりあってるのだろうか。
爆音がひっきりなしに鳴り響いている。
そんな無茶な戦いが長く続くとも思えない。
「一刻も早く……!」
メリアは内心、焦っていた。
ティターニアの実力は認めている。
だが、アスモデウスの実力はそれに匹敵している。
そうじゃなければ、精霊の女王を相手に実力が拮抗するわけがないのだ。
故に、どれほどの猶予があるのかは不明な上、何よりリリーの変異がまたいつ進行してもおかしくない。
果たして、悠長に振りかけるほどの時間は残されているのだろうか……。
胸騒ぎが止まらないがそれでも、最速で事を成すだけ、それが今の自分に出来る最善の行ない。
そう自分自身に言い聞かせる。
やがて、リリーの目の前にたどり着く。
身長は3メートルほど大きくなっており、一振りで家屋を叩き潰してしまいそうな強靭な腕と脚、角やら翼やら変異前の彼女にはなかったものが露出している。
肌には白い鱗のようなものがビッシリと生え揃っており、それは顔の一部までも侵食していた。
顔付きはリリーの面影を強く残している。
だが、その表情に生気は無く、瞳には虚無が居座っているように見える。
「あとは振りかけるだけですわ――――」
瓶の蓋を開ける。
今まで、何百、何千と繰り返してきたであろうあまりにも日常的な動作。
たったそれだけの簡単な作業。
「――――すぐに元に戻りますわよ」
彼女はもっと笑顔であるべきだった。
屈託のない笑顔は何にも代えがたく可愛らしいことをメリアは知っている。
だからこそ、そんな虚ろな表情などではなく、元のリリーに戻ってほしかった。
沈黙したリリーに頭からエリクシアを振りかけようと跳躍し、ビンの蓋を開け、液体がリリーに注がれようとした――――その時だ。
リリーを覆うようにして半透明のベールが展開される。
振り掛けた黄金のエリクシアがベールの上を滑って無情にも流れ落ちていく。
「あ――――」
何故、どうして、そういった疑問が頭の中に浮かぶ。
メリアは目の前で起こっていることが一瞬、理解できなかった。
いや、理解したくはなかった。
つまり、リリーを元に戻す手段、それがたった今、失われたことを意味するのだから。
「メリアちゃん、避けてぇ!!!!!!!!!!!!」
ティターニアの劈く叫び声にメリアがハッと我に返ったその時、背後から声が聞こえた。
「読めていましたよ。その娘を元に戻そうとするぐらい、ね?」
脇腹に強い痛みを感じたのも束の間、右方に吹き飛ばされる。
その最中、メリアが真っ先に感じていたこと。
それは悔しさだった。
チャンスを作ってくれたにもかかわらず、それを全く活かせないどころか、不意にしてしまう自分が悔しいと。
リリーを元に戻す術を託してくれたティターニアに対して、何の役にも立てなかった自分が悔しいと。
ふと、あることを思い出す。
せめて、あの力が使えたのなら――――
それは、メリアの有する雪薔薇とは異なる力。
自身がまだ幼かった時に使いこなせず、大きな過ちの果てに何処かへと消えてしまった力。
ついぞ、その力が戻ってくることはなかった。
否、彼女をその力を求めたことはなかったのだ。
その力を使う時、自分はまた同じ過ちを犯すような気がしてならなかったからだ。




