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三八、

 結界を張り重ねた。自分が果てるか、相手の戦意が喪失するまで、この結界は解けない。

 額にまかれた包帯は、緩くほどけて風にふわふわと漂う。


 鳥船は、社を背に、愛用の櫂を右手に握り締めた。

 

 前方には、忌まわしき天敵がいる。

 自分をどん底まで貶めた、黒衣の青年が。


 漆黒で身を包んだ青年――ラオは、驚いたような表情で鳥船を見つめた。


「ごきげんよう、石楠。怪我はもういいのかい?」

「お陰様でな。ほんとはまだ動いちゃいけないけど」

「ほう。己の傷も顧みず社を守るか。なかなか感動的だね」

「そりゃどうも。……で、この地震はあんたの仕業かい?」

 鳥船はたずねる。


「そうだよ。これもマザーのお達しでね。だがあまり効果はなかったようだ。この国に住んでいたら、人間でも妖怪でも、地震にはさほど驚かないんだね」

「まあ、良くも悪くもな。さっきの揺れを起こしたのは、ただビビらせるだけが目的か?」

「とんでもない。君をおびき寄せるために、地中の穢れを爆発させたのさ」

「なに、」

 鳥船は眉をひそめた。


 穢れが地下に潜むことは珍しくない。ただ、それは地上へ吹き出す前に、神々や穢れを祓う専門の人間が、事前に対応して浄化する。地下の穢れが噴火することの方が珍しい。


 ラオは、そうなるよう仕向けた。天照たちの社付近は結界と浄化により穢れ濃度は低いと踏んでいたが、こんなに近くまで穢れが潜り込んでいたとは、鳥船も考えが及ばなかった。

 おそらく、少しずつ、穢れを静かに進ませていたのだろう。鳥船や天照が気づかないほど、辛抱強くゆっくりと。


「しかし君は優秀だね。地震が発生するやただごとではないと察知し、薄くて強い結界を社に張る。そして自分は門番だ。存外機転がきくね」

「お褒めの言葉ありがとうよ。……雑談は終わりにしようか。俺はあんたをぶちのめさなきゃならねえんだから」

 鳥船は、櫂の先をラオに向ける。おやこわい、とラオは肩をすくめてみせる。

 くく、と口端を歪めたラオは、あざけるように鳥船に問うた。

「できるのかな? 君は俺にあれほどのことをされた。そんな俺に、立ち向かう無謀さが君には残っているのか?」


 ラオは、鳥船を穢した。

 暴力で、言葉で、体で、あらゆる手段を用いて鳥船の神格を貶めた。

 本当に危険な状態に陥るほどに、鳥船を痛めつけた。その恐怖は、鳥船の心に深く残っている。


 だが、鳥船はその恐怖を振り切ってでも、目の前の男を叩きのめすと決断した。

 恐怖はある。だが、ひとつ幸運なことがあった。


「ぐっすり眠ってたら、あんたにされたことはすっかり忘れちまったよ」


 深い眠りについていた鳥船は、まどろみながら、恐怖として植えつけられた記憶を曖昧にしていた。

 おかげでか、恐怖がフラッシュバックして鳥船を苛むことがなかった。


「これで有利不利はなくなった。あとは……あんたを叩きのめすだけだ」

「へえ。そりゃ楽しみだね」


 鳥船は、地を蹴る。


 見た目よりずっと重い櫂は、当たれば相手をひるませるに充分だ。鳥船は様子見で一撃をラオに入れる。

 左方から横へ薙ぐようにして振るわれた櫂は、ラオの右腕によって防がれた。みしっ、と何かが折れかける音がする。

 完全に骨を折ることはできなかった。だがそれで充分だ。

 

 ふいに、ラオと目があった。冷え切った瞳が、自分を見下ろしている。感情が読み取りにくい。戦いに血をたぎらせるでもなく、目の前の小さな自分をあざけるでもなく、憎悪があるでもなく、ただ、静かに鳥船を見下ろしている。


 鳥船はいったん下がり、櫂を構え直す。先をラオに突き付けて、相手の行動を見守ってみる。

 ラオは帽子をかぶり直し、ようやく構えをとった。腰を少し落として右手で来い来いと挑発する。


 その挑発に乗ってやった。今度はラオの腹部目掛けて櫂を突き出す。ラオはそれをすっと横に避け、櫂を伝うようにして鳥船との距離を詰めた。

 目と鼻の先に、ラオがいる。鳥船は櫂を突き出した状態のせいで体ががら空きである。

 ラオが、すいっと右手を取船の前に突き出す。また首根っこ掴む気か。

 鳥船はさっと身をかがめてそれを避けた。横へ飛んで一旦距離を取る。


 櫂の長さ分だけ距離を取ることができるゆえ、鳥船は一方的にラオを攻撃できる。だがラオは距離を取られたら一気に間合いを詰めて来る。


 最初に戦ったときとの違いは、これだった。

 ラオは一方的に鳥船の攻撃を受けては回避の繰り返しだった。そして追い詰められたふりをして、鳥船を圧倒した。

 

 今は、鳥船の攻撃をやりすごしたら即座に攻撃を仕掛けて来る。武器は持っていない。殴るか蹴るかでこちらに立ち向かってくる。怪しげな呪術を使うでもない。ただ時々、帽子を気にしているだけだ。いっそあのひらひらした襟巻を引っ張り上げてやりたいと鳥船は思った。


 形成が逆転した。ラオが積極的に攻め入って来る。

 鳥船はそれを櫂で受け流す。隙を伺って、攻撃のタイミングを待つが、まだ来ない。

 ひゅんひゅんと、ラオの脚が風を切る。鳥船はそれを必死で避ける。横髪にかする。鳥船は防御が乏しい。一撃でも当たったらひとたまりもないだろう。


 ラオは流れるように、鮮やかに攻め込む。荒々しさがまるでない。

 鳥船は櫂を振り下ろし、ラオの目線を頭上に向けさせる。ラオが両腕で頭上をガードした。

 それを待っていた鳥船は、ぱっと櫂を離し、華奢な拳を目いっぱい握ってラオの腹へと沈ませる。


「ぐふっ」

 ラオのうめき声が漏れた。だがそれで終わらせるほど、ラオも甘くはない。鳥船の手首をつかみ、力任せに投げ飛ばした。


「わ、わっ」

 空中に放り出された鳥船は、櫂も持っていない。胴体が隙だらけだ。このまま何もせずに地上へ落ちて行けば、間違いなくラオの攻撃をまともに受ける。


 予想通りだった。ラオは落ちて来る鳥船の前髪を強引につかみ、鳥船がのがれないよう先回りした。

 鳥船は迫り来る鉄拳をほとんど反射で受け止めた。左手のひらでラオの攻撃を受け止める。左手から、いやな音がした。

 痛みを無視して、鳥船はラオの手から逃れようと、足でラオの肩を蹴り飛ばした。一瞬ラオが怯んで、手の力を緩める。


 その隙に、地面に落ちていた櫂を右手で拾い上げてそのまま上段へと振り上げる。態勢が崩れていたラオは、やっとのことでそれを回避した。


 だがそれが命とりだった。後方へと上体をそらしたせいで、ラオのバランスは一気に崩れた。よろめいたラオに、鳥船は右手の力と遠心力で、櫂を横に薙ぐ。

 ラオの胴に重く沈んだ。その手ごたえが、あった。


 ラオが、後方へ吹っ飛ぶ。穢れに満ちた地面へずしゃっと擦りつけられた。

 今度は油断しない。鳥船は呼吸を整えながら、じっとラオを見守る。


 気だるげに、ラオが起き上がる。ぺっ、と砂を吐く。帽子と前髪に見え隠れした瞳に、静かな殺意が宿った。

「……やるね、石楠」

「っ」

「君は強い。さすがだね。だけど、それだけだ。それだけでは俺に勝てない」


 ラオの周囲に穢れが集まる。黒い煙のような穢れが、無数の細い腕となって、蠢いている。


「君は忘れてしまったのかな? 穢れに呑まれる恐怖を」

 にぃ、とラオが感情らしい感情を露わにした。

 口端を釣り上げ、動揺している鳥船を嗤う。くくく、と喉を鳴らして愉快に嗤う。


 鳥船は、得体の知れない恐怖を味わった。

 今さらになって足がすくむ。背筋が凍る。額から嫌な汗が垂れた。左手の痛みがぶり返す。櫂を握る右手に力がこもり、震える。


 ラオが、穢れに命じる。鳥船を飲み込めと。

 無数の腕が、一斉に鳥船に襲い掛かる。鳥船は横へ跳躍してそれを回避した。つい一瞬前まで自分のいた場所が、穢れによって一気に腐敗していく。ぶしゅうっと瘴気が生まれた。あれにつかまったら今度こそ自分はただではすまないだろう。


「さあ、あの可愛い鳥を食べてしまいな」


 ラオの低い声が穢れに命じる。穢れは忠実に従い、逃げ続ける鳥船を執拗に追いかけた。

 

(……っくそ)

 まだ隠し玉を持っていたんだ。いや、隠し玉のうちには入らない。彼奴は穢れと一緒にやってきたんだから、穢れを操れたところで不思議じゃない。

 鳥船は内に蘇る恐怖を振り払いながら、ひたすら穢れから逃げ続けた。こういった類の攻撃は、おおもとであるラオの戦意を喪失させればいい。

 だが、ラオの周囲も穢れに守られて、まともに攻撃ができないだろう。

 

(どうすれば)

 鳥舟は歯ぎしりした。左手の痛みが予想以上に重く、櫂を握ることができない。片手で櫂を振り回さなければならないのは、大きなハンデだった。


「あ」


 腕の一本が、鳥船の細い足首を掴んだ。

 血の気が引いた。穢れに喰われる。飲み込まれる。

 

 ぐっと引き寄せられ、地面にたたきつけられる。必死に逃れようと手足をばたつかせるが、穢れから振り解くことはできない。

 足首にひやりとした感触がつたう。足が侵食される!


「や、やめ」


 ぶわっ、と、無数の腕が鳥船に覆いかぶさった。鳥船が、穢れに飲み込まれた。




「ふ、くくく」

 ラオがおかしそうに嗤う。

「残念。食われてしまったね、石楠」

 無数の腕であった穢れは、半球の形になって鳥船を閉じ込める。

 このまま放置していれば、鳥船は穢れに呑まれて神格を失うだろう。行き着く先は堕天だ。堕天した神は、世に災いをもたらし、御霊を消耗して惨めにぼろぼそになって死んでいく。


「もっと楽しませてくれると思ったんだけどね」

 ラオは誰にともなくつぶやいた。半球型になった穢れを見下ろし、鳥船が食われていくのを想像している。

 

 ラオは、一度鳥船を食った。その味は極上だった。甘美でありながら後味が爽やかな、優しい味だった。

 それを穢れも堪能している。少しだけ残念だった。また、あの味を楽しみたいと、心のどこかで思っていたから。


「ねえ、石楠」


 ラオが声をかける。

 その先の言葉は、紡がれなかった。


 半球型の穢れが突如破裂し、消滅したのだ。

 ラオは目を見開き、びちゃりと破片が頬に飛び散るのも気にせず、その事態を凝視した。

 ありえない。穢れに呑まれたら、天つ神でさえ生き残るのは困難だというのに。


 穢れに呑まれて神格を貶められていたというのに、神力が弱っていたはずなのに、鳥船はそれを打破した。


 あっけにとられているラオを見るや、鳥船は好機とばかりに飛び込む。

 ラオの懐へもぐりこみ、右手にありったけの力を込めて、ラオの胸部に櫂を叩き込む。

 鳥船の攻撃に反応が遅れたラオは、防ぐこともできずまともにその攻撃を受けた。

 

 ふらりと、ラオの足下が崩れる。

 鳥船はとどめとばかりに、櫂をもう一度横に薙いだ。

 力なく、ラオは櫂に胴を殴打され、またも地面に擦り付けられた。ラオの帽子が、遠くへと飛ばされる。

 ラオは大の字に手足を伸ばして、地面に倒れ伏していた。


 鳥船が、ゆっくりとラオに近づく。先ほどの穢れは、なぜか鳥船の周囲をうろついているだけで何もしない。鳥船の指示を待っているかのようにもうかがえた。


 ラオは力なく鳥船を見上げた。すこしだけ、ぎょっとした。


「……驚いた」


 ラオは独りごとのようにつぶやく。


「君は、敵を前にして泣くのか」


 

 鳥船は、泣いていた。


 大声を出すでもなく、嗚咽を漏らすでもなく。

 顔をゆがめるでもなく、鼻をすするでもなく。


 ただ静かに、はらはらと、涙を流して泣いていた。



「別に。あんたが敵じゃなかったらよかったのにとか、思ってさ」 

「あきれた。君はどこまでも不思議な神だね」

「不思議でもなんでもない。俺は、ただの鳥船だ」


 ラオに戦意はない。これ以上は襲ってこないだろう。油断はしないが、鳥船はどこかでこれ以上戦わずにすむのを安堵していた。

 鳥船は櫂を肩に置いて、ラオに右手を差し伸べる。

「いいのか。また不意打ちをするかもしれないよ」

「しないよ。そんなことする力、もう残ってないだろ」

「ふ、お見通しか」

「なんとなくだけどな。来いよ。あんたを社でかくまってやる」

「悪いけど、俺はそういう施しを受ける訳にはいかない」


 ラオは鳥船の手を無視して、何とか上半身を起こす。

 そして、鳥船をどんっ、と突き飛ばした。


「ぅ、わっ!」

 鳥船は尻もちをつく。立ち上がろうと態勢を整え、不意にラオの瞳が優しく光るのが見えた。

 

 ふわりと微笑んで、ラオは、


 鳥船に付き従っていたはずの無数の穢れに、胴を刺し貫かれた。

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