三九、
ごぼっと喉から血を吐きだした。ラオの口周りと胸が、鮮やかな赤色に染まる。
穢れが、主人であるラオに牙をむいた。そして食おうとしている。
ラオは微笑んで、鳥船に右手を差し出した。
それは助けてほしいのか、さっさと逃げろと忠告したのか、鳥船にはわからなかった。
穢れが、半球の形に変化しようとしている。ラオを包み込んで食べる気だ。鳥船にしようとした時と同じように。
鳥船は左手の痛みも涙も忘れて、とっさにラオに手を伸ばした。
ぎりぎりではあったが、ラオの震える手を掴むことができた。
だが、そのせいで鳥船も穢れに巻き込まれた。
穢れは、食料がもうひとつ飛び込んできたという認識でしかないのだろう。
鳥船は鉄の臭いで満ちたラオを、必死に抱きしめた。
「いわくす、馬鹿なことを」
「ちょっと黙ってろ!」
「君は、とことん俺を呆れさせるね」
「うるさい!」
鳥船に、策などなかった。こんな時、自分にも思兼並の知恵と機転があればと、悔やんだ。
――助けなければ。ラオを、助けなければ。
さっきまで戦っていた『敵』であるというのに、鳥船はラオを見捨てるという考えを最初から持っていなかった。
自分とラオ、どちらもこの穢れから逃れるためにはどうすれば、それしか頭になかった。
(助ける。助けるんだ。何かあるはず。俺は……鳥之石楠船なんだ、こんな困難、なんてことないはずだ!!)
なんだか、きゅうに背中がむずがゆくなる。じんじんと熱くなり、掻き毟りたい衝動を鳥船は押さえつけた。
今は背中の違和感を気にしている場合じゃない。ラオを助けなければ。
このままでは、ラオが死んでしまう。
(助ける。なんとしても、何をしても!!)
鳥船は、強く願った。ラオの無事を、ラオの回復を。自分とラオが、穢れに呑まれぬことを。
――ふいに、背中の違和感が消えた。
鳥船は、無意識に、ラオを抱えたまま、地を強く蹴った。
高く跳躍して、穢れを食い破った。
ばさりっ、と鳥船の背中で、何かが動いた。
不思議に思って後ろを確認すると、朽葉色の翼が、はためいていた。
うかがう限りでは、それは自分の背中から生えている。鳥船は瞬きを繰り返す。これは、幻の一種か?
穢れは鳥船とラオを突け狙うが、空を自由に飛ぶ鳥船を捕まえることは困難だった。
鳥船は、鳥のように飛ぶ行為を無意識に理解していた。どうすれば風に乗れるか、どうすれば真っ直ぐ飛べるか、どうすれば目的地へたどり着けるか。翼が生えた直後から、そういった情報が頭の中に飛び込んできた。
このまま一旦結界を解いて社に戻ることもできる。だが、避難しては穢れが社を壊さんと攻撃を続けるだろう。社には、人間たちがいる。神々がいる。最後の切り札が、いる。
彼らを守るためには、この穢れを今のうちに駆除しておいた方がいい。
鳥船は、穢れを見下ろす。半球が無数の腕に形を変えた。奴らの動きがぎこちない。何かを必死で押さえつけているようにも見える。まるで痛みに苦しんでいるような。
(何だ? 核を破壊したようには見えないのに……)
通常、異形は『核』となる場所を破壊されると形を保てなくなって消滅する。逆に言えば、核さえあればどこを傷つけられても再生する。
異形には本能がある。だが痛覚は鈍い。
核を突かれたわけではないのに、鳥船とラオを食っていた異形は身(とは違うのだろうが、鳥船にはそうとしか表現できない)をよじらせて何かに耐えている。痛いのか?
鳥船は空から異形をじっと見下ろしていた。左手の痛みがいつの間にか消えている。ひょっとしたら、自分に翼が生えたことがきっかけで、体が驚いて痛みを忘れているだけなのかもしれない。どちらにしても、痛みが消えたのは都合がいい。
異形が、痛みに耐えながら、鳥船へとその殺意を向けていく。鳥船は肌に伝わるその気配を受け止めていた。
背を優しく撫でるように、殺意が這っていく。異形が、明らかに敵意を向けているのだ。
殺してやる。食ってやる。貶めてやる。貪ってやる。そんな憎悪が、殺意や敵意となって、鳥船にぶつけてくる。
鳥船はその恐怖を振り払い、ラオを左手で抱えたまま、右手の櫂を構え直す。じっと目を凝らす。核を探すのだ。
無数の手が、バラバラと緩急を付けて鳥船に襲い掛かって来る。鳥船はそれをしっかり読み取り、翼を動かす。
まるで、手足を動かすのと同じように、翼を自在に操るのが簡単だった。今まで、翼を用いて空を飛ぶなんてことはなかったのに。
異形の手による奇襲を、鳥船は手と手の間をうまく掻い潜って擦り抜ける。鳥船を休ませるつもりなどないらしい。
異形は交代しながら鳥船に襲い掛かる。主に翼を狙っているようだった。それをもいでしまえば、鳥船の機動性を大幅にそげると本能が理解しているからだろう。
敵の猛攻をさっさっと回避していくなかで、鳥船は敵の弱点を探りつづけていた。
戦いに慣れているためか、それとも緊急時のせいなのか、鳥舟の目はやけに冴えていた。異形の核を見つけ出す為に、ぎっと目を見開いて、奴らの動きひとつひとつを見逃さない。
左手にラオを抱えているせいで素早さは落ちているはずなのに、鳥船の、風が駆けるようなその飛び方には、まるで重さを感じさせない。
――そこか。
鳥船は核を見つけた。無数の手の根本……付け根である。
無数の手を操る根源は、根っこにあった。
そこから放つ瘴気が強い。何かが焦げるような臭いがそこから生まれている。刺激臭が鼻をつく。少し吐き気が込み上げてきたのを、無理やり飲みこむ。
鳥船は異形達の攻撃の隙間から隙間を縫うように飛び、あっという間に異形の根本である核へと辿り着いた。
瘴気がぶすぶすと立ち込めるそこに近づいて、余計に刺激臭が襲ってきた。だが鳥船は、それも一瞬で終わると自分に言い聞かせ、櫂をそこへぶち込む。
異形は核を破壊すれば死ぬ。それは、穢れと戦い続けてきた自分にとっては常識だった。
ただ、その核を素早く見つけ、正確に突く。幾度となく異形に立ち向かってきた鳥船には造作もない。ただ、左腕に抱えるラオという重しがあるだけのことである。
鳥船は櫂を核にめり込ませることに、成功した。手ごたえがあった。
ぐにゃりとやわらかい感覚が、櫂を通して伝わってきた。此奴の核は、弾力性があったようだ。
よし、と鳥船はうなずき、さっと異形から距離を取る。ひゅんっと空へ退避し、核を破壊された異形の末路を見守る。
異形が消滅するまで油断してはならない。鳥船は翼をはためかせ、無数の手をうねらせていた異形の断末魔を聞く。
ひとりやふたりという数では足りないほどに、絶叫があたりに木霊する。甲高い声が、鳥船の耳をつんざく。鳥船はそれをじっと耐えていた。
恨みのこもった悶絶の声が腹に響いてくる。その声もだんだんと弱まり、最後には手が霧散し、消滅を確認した。
鳥船はそっと地面に降り立ち、そしてふわっと座り込んだ。
今さらになって胸の鼓動が早くなる。どくんどくんと早鐘を打つのがよくわかった。足に力が入らない。左手の痛みもまたぶり返してきた。
背中と額からどっと汗が噴き出る。緊張が解けたのだ。
鳥船はゆっくりと深く呼吸して、心を落ち着けた。
その心が落ち着くまで、結界を解かずにいた。
結界が解けたのは、それからおおよそ一時間を要した。




