番外編「玉座を捨てた両手と甘い果実の記憶」
◇アレク視点
羊皮紙の表面を滑る羽根ペンの先が、乾いた微かな摩擦音を立てていた。
インク壺から黒い液体をすくい上げ、帝都から届けられた決裁書類の末尾に自身の署名を流れるような筆致で書き込む。
ルキウスが連絡役を引き継いでからというもの、帝都からの書簡はかつての血生臭い派閥争いや足の引っ張り合いの報告から、税の徴収状況や国境の物資輸送といった実務的で平穏な内容へと大きく様変わりしていた。
あの吹雪の夜にシリウスを断罪し、辺境離宮の不可侵を絶対のものとして知らしめた効果は絶大だったようだ。
保守派の貴族たちは沈黙を守り、皇帝の決定に異を唱える者はもはや帝都には一人として存在しない。
最後の書類に署名を終え、アレクは羽根ペンを木製の簡素なペン立てに戻した。
深く息を吐き出すと、開け放たれた窓から初夏の入り口を思わせる暖かな風が吹き込んでくる。
風が運んでくるのは、湿った土の匂いと、芽吹いたばかりの若葉の青々とした香りだった。
アレクは背もたれに体を預け、自身の手のひらを目の高さに持ち上げて静かに見つめた。
厚い皮膚で覆われた無骨な手には、幼い頃から剣を振り続けてできた硬い剣だこが刻まれている。
だが今は、その剣だこの隣に、クワを握り土を耕すことで新しく作られた別の豆がいくつも並んでいた。
この手はかつて、他者を傷つけ、権力を誇示し、自分自身を守るためだけに存在していた。
帝都の冷たい石造りの城で過ごした日々の記憶が、ふと脳裏をかすめる。
幼くして玉座に座らされたあの日から、周囲の人間はすべて敵か、あるいは自分を利用しようとする野心家ばかりだった。
誰も信じることができず、食事すらも毒見役が安全を確認した冷え切ったものしか口にすることができなかった。
味などとうの昔に完全にわからなくなっていた。
ただ生命を維持するためだけに、砂を噛むような思いで喉の奥へ流し込む日々。
隙を見せれば一瞬で足元をすくわれる権力闘争の中で、アレクは自らの内に猛獣を飼いならし、常に他者を威圧する鋭い気配を張り巡らせていなければ生き残れなかったのだ。
火打石を打ち合わせたような、焦げた匂いを伴うαのフェロモン。
それは皇帝としての絶対的な威厳であると同時に、誰にも触れさせないための冷酷な鎧でもあった。
その鎧がどれほど重く、息苦しいものであったか。
辺境の森で魔物に深い傷を負わされ、冷たい土の上で死を覚悟したとき、心の中には不思議と安堵の感情があった。
この重すぎる鎖からようやく解放されるのだと、暗闇の底へ沈んでいく意識の中で静かに目を閉じた。
だが、その冷たい暗闇を切り裂くように、彼が現れた。
柔らかな布の感触と、鼻腔をくすぐる香ばしい肉の焼ける匂い。
目を覚ましたときに差し出された、熱い肉汁の滴る食事。
それを口にした瞬間、止まっていたアレクの時間に再び熱い血が巡り始めたのだ。
彼が作る料理には、冷え切っていた細胞の隅々にまで染み渡るような、生命力そのものが込められていた。
そして何より、彼から漂う微かな甘い香りが、アレクの中で常に牙をむいていた猛獣を優しくなだめ、尖りきっていた神経を嘘のように鎮めてくれたのだ。
アレクは窓枠に肘をつき、外の畑でしゃがみ込んでいる薄茶色の髪の青年へと視線を向けた。
レオは麦わら帽子を被り、小さなスコップで土を掘り返しながら、新しく植えた野菜の苗の周りに丁寧に土を寄せている。
その小さな背中を見つめているだけで、アレクの胸の奥がじんわりと温かなもので満たされていくのを感じた。
あの吹雪の夜、帝都へ向かう馬車の中で彼の匂いが恐怖に染まるのを感じたときの、心臓を素手で握り潰されるような絶望的な焦燥感は、今でも忘れることができない。
肺が凍りつくような冷たい空気を吸い込みながら、馬を潰す勢いで雪道を駆け戻った。
もし彼が傷つけられていたら、帝都の貴族どもを一人残らず処刑し、自分もこの命を終わらせるつもりだった。
暗い地底湖で、彼に刃を振り下ろそうとしていた男を見た瞬間、アレクの中の猛獣が鎖を引きちぎって暴れ狂った。
容赦のないαの気配で男たちの精神を叩き潰し、その場に転がした。
だが、震える彼を腕の中に抱きしめ、その柔らかな体温と甘い果実の香りを確かめたとき、猛獣は再び深い眠りについたのだ。
彼を守り抜くことができた。
その安堵感が、怒りよりもはるかに強くアレクの心を満たした。
彼が運命の番であるという確信は、そのときすでに揺るぎないものとなっていた。
春の訪れとともに彼を襲った、あの強烈な発情期の波。
甘く熟しきった果実のような、濃密で官能的な香りが寝室を満たした夜。
アレク自身のαとしての本能もまた、理性を焼き尽くしそうになるほどの強烈な渇望に突き動かされた。
だが、かつての彼を苦しめていた暴力的な衝動はそこにはなかった。
ただ彼を安心させたい、彼を愛し、魂の深い部分で溶け合いたいという純粋な慈愛だけが、アレクの行動を支配していた。
震える彼の肌に触れ、熱を分け合い、互いのフェロモンが調和していく過程は、どんな言葉よりも深く二人の繋がりを証明していた。
激しい波が引き、腕の中で安心しきったように眠る彼の寝顔を見たとき、アレクは自分がこの世界で最も価値のある宝を手に入れたのだと確信した。
帝国の領土も、黄金の装飾品も、この小さな食堂で彼と過ごす時間には到底及ばない。
アレクは窓辺から離れ、ゆっくりとした足取りで厨房の方へと向かった。
竈の火はすでに赤々と燃え盛り、大きな鉄鍋からは食欲を刺激する香ばしい匂いが立ち上り始めている。
外での作業を終えたレオが、裏口から籠を抱えて戻ってきたところだった。
「仕事は終わったみたいだね。少し外の風に当たったら」
レオが前掛けで手を拭いながら、琥珀色の瞳を細めて微笑みかけてくる。
その笑顔に向けられるだけで、アレクの心は静かな凪の海のように穏やかになるのだ。
「ああ。お前が畑で土まみれになっているのを見ていたら、俺もクワを握りたくなった」
「もう夕食の準備ができるから、畑仕事はまた明日にしてよ」
レオが軽く笑い、籠の中から瑞々しい緑の葉野菜を取り出して洗い桶の水に浸す。
冷たい水が跳ねる音と、野菜の青々とした匂いが厨房の空気を洗っていく。
アレクは彼の背後に立ち、その細い腰に両腕を回して引き寄せた。
レオの肩がわずかに跳ねるが、すぐに力を抜いてアレクの胸に体重を預けてくる。
深い樹海の静寂を思わせるアレクの香りと、甘く熟成された蜜のようなレオの香りが、夕暮れの厨房で優しく混ざり合った。
玉座を捨てたこの両手は、もう二度と剣を握って血を流すことはない。
土を耕し、クワを握り、そして何よりも、この腕の中にある愛しい伴侶を永遠に守り抱きしめるためだけに存在している。
アレクはレオの首筋に顔を埋め、その柔らかな肌の感触と温もりを、魂の奥深くに刻み込むように静かに息を吸い込んだ。




