第57話 心を、君に
その風景が夢なのか。
それとも別の何かなのか。
私にはわからなかったけれど、少なくとも現実のようには感じなかった。
無数の輝きにより白く染まった空。
世界中に出現した巨大な循環した9つの魔力の輪。
地脈に流れる無数の魔力と、それらの相互干渉。
でもそれが現実らしい。
現実というものがどこにあるのかずっとわからなかった。私の視界はとても現実味がない。けれど、それ以上に今の現実は現実味がない。現実味がないのが逆に現実感があるというか。
意味わからないけれど。
ふわふわしている。
なんというか夢のような現実だった。
思い返してみれば、いつからこうしているのか、それともどうやってここにきたのか、上手く思い出せない。けれど、それを不思議と思う感情すら、曖昧に溶けていく。
何もしていないのに情報だけが流れて、どこか心地が良いような、それすらむにゃむにゃとした曖昧な微睡の中に消えていくような。
それはとても良いもののような気もする。けれど実感としては、なんというか虚無的だった。
何もない。
この場所には何もない。
多分、何もかもがあって、そのせいで何もない。
無数の魔力が混ざり合って、どこまでが自分でどこからが他人かわからない。そんな感じ。とてもぐるぐるする世界。
痛みも、苦しみもなく、恐怖もない。でも安心もない。だから幸福もない。不幸とも思えないけれど。
多分、本当は逆で。
色々な恐怖や苦しみや痛みが混ざって、全部がなかったことになっている。
だって、この世の問題とは大抵が人間関係か時間にまつわるものだし、その全てが過去のものになったこの状況は、何もなくなってる。
何が起きているのか、わからない。
気づけば私はここにいて……何をしているのかもわからず、感覚だけが浮遊しているような。
声がする。
無数の声が。
言葉として意味を為しているようで、その全てが騒音でしかないような声が。
感覚が落ちていく。
ぐるぐると螺旋の海を。
大きな音の中に。
わかってない。
何もわかってない。
わかってる。全部。
それで、わかっているつもり?
助けて。
どうして。
わからない。
わかろうとしてる?
わかろうとしてる。
ほんとに。
救って。
誰も助けられない。
理解ができない。
どうしてそんなことしたの。
どうしてって。
お前なんか。
あんたがいたから。
わかるわけない。心がわかるわけない。
当然。もちろん。
他人ってことを忘れてない?
こうして混ざっても。
曖昧になっても。
他人じゃなくなっても。
人は人で。
また他人になれば、心を理解することなんかできない。
でも、好きだったのに。
だからなに。
好きだから何?
そんなに特別な事?
好きって。
それに誰かを好きになんかならなくていい。
ここにはもう誰もがいて。
そして誰もいないのだから。
他人がいない。
全員同じで。
みんながここにいる。
もう独りじゃない。
孤立していない。
孤独じゃない。
そうかな。
……これはとても寂しい気がするけれど。
心が遠い気がする。
アイリのことを好きだと感じていた心が。
好き。
好きなのかな。
誰を好き?
自分のこと?
それとも。
誰?
誰かいる?
誰かを好きになるってなんだっけ。
相手を欲しいと思う心。
相手に見て欲しいと思う心。
相手のことを支配したいと思う心。
それが恋。
恋? そんなものが?
そう。そういう醜い心。それを恋と呼んで正当化している。
そんなことない。恋がそんなものなわけない。
子供。
餓鬼?
まるで成長していない。
ずっと成長していない。
苛々する。苛立つ。
その心はとても子供っぽくて、この場にふさわしくない。
嫌い。とても苦手。
こっちに来ないで。
あっ。
違う。
違わない。
違うよ。
正しいことを。
なら、愛は?
……
……
……
……
……
幻想。
誰も知らないもの。
存在しないもの。
誰かのために心を使う。
誰かのための幸福を願い、そのために心を使う。
それが愛だとしても、それを為すことはできない。
結局は自分の心で相手を測るしかない。
だから、相手のためだと言って、自分のための行動をする。
自分がいては愛は成り立たない。けれど、他人を愛するには自分がいる。
なら……自己愛は?
自分のことは好き?
嫌い。
好きじゃない。
苦手。
無理。
大好きと言って欲しい?
いいえ。
やだ。
消えてしまえばいい。
早く死にたいと思った。
自分のことが好きじゃない?
誰もが孤独になれば、自分のことを好きになれない。
自分の嫌な部分は誰もが知っているから。
部分的には好きでも。
完全に好きにはなれない。
自分を好きになるには、他者から承認が必要になる。
ここにいていいって居場所ができないと、不安になるから。
だから、親というのは初めて承認してくれる人になる。
親がいなかったら?
恋人。又は友人。親友。もしくは大衆。
でも、それは存在を認めてくれているの?
それはあなたの能力を認めてくれているだけかも。
存在的居場所を許してはいないかも。
親もそうかも。
子供という形式のあなたに居場所を与えているだけかも。
それとも全部勘違い。
居場所なんか最初からどこにもなくて。
勝手に期待して、それで裏切ったと喚いて。
それで小さな共感に身を委ねたり。
身体を重ねてみたり。
でも、余計に意味がない。
能力的承認に走って、存在的承認から遠のいてる。
存在的承認なんかどこにもない。
嘘つきだから。
裏切るから。
誰もいらないから。
誰も他人を存在的に必要としてないから。
そんなことないよ。
どうかな。
誰もって。
どうして。
……自分で自分の居場所を作れないの?
最初の居場所は他人に貰うしかない。
一度、承認されないと、やり方がわからない。
自分の心の認め方がわからない。
だからあんたには無理なのよ。
だから、お前の心は必要ないんだ。
あなたの心は、誰のことも認めてくれないもの。
私の心は……どうしたらいいの?
諦めて。
来ないで。
どこかに行ってて。
捨てて。
早く消えてしまえばいい。
いらない。
好きじゃない。
嫌い。
会いたくない。
……共感は?
錯覚でしょ。
好きな人と愛し合えて、共感できればいい。
夢物語。
できるわけない。
願望。
しかも、その先にあるものは何?
嫌われるかもしれない恐怖?
それとも飽きられて、消滅する愛情?
薄れていく関係?
愛が錯覚と気づいたときには恋も消えていて。
周りを見れば誰もいなくて。
遠くの他人だけがこちらを見ていて。
そして誰もが私を必要としていない。
居場所がない。
この世界には居場所がない。
だからひとつになった。
ひとつになりたかったんでしょ?
……そうだっけ。
あなたが願ったこと。
あなたが起点になって起きたこと。
でも。
こんなの。
ここには私がいなくて。
良かったじゃない。
君なんかいらないよ。
誰も欲していない。
居場所なんかないわ。
自分のこと好きじゃない癖に。
誰の事だって嫌いで。
世界を拒絶しているのに。
そうだけれど。
今でもそうかもしれないけれど。
ここには私がいなくて……アイリがいない。
それに気づいてしまえば、声は無意味な音になる。
そして、音が去っていく。
アイリがいない。
だから……なのかな。
心がぐちゃぐちゃする。いろいろな思考が流れて、気持ち悪いような感じがする。吐き気という感覚が、身体の感覚を掴めないままに、襲い来る。 かたかたという音とぐらぐらという音が、心の中に鳴り響いている。心の揺れる音というか、魔力的な痛みがする。
……がりがりと音がする。嫌な音。それだけじゃない。いろいろ音が喚くように私の周りを漂っている。今までもずっとそうだったはずなのに。けれど、忘れていた。最近はずっと感じていなかったから。
これまではアイリが守ってくれていたから。ここではそれはない。アイリの心に触れられない。彼女の心は、すでに私の心と同質化してしまっているから。
アイリの心。その心が欲しいと思っていた。 そして、今私の手の中にそれはある。 アイリの心のすべてが私の手の中で、彼女の心を聞くことができる。
私を好きなことも、私を嫌いになりたくないことも、私のせいだと思ってしまうことも、無力感も、エルネスタがいなくなったことによる心の傷も、いろいろな人への共感とそれによる罪悪感も、全部私の手の中にある。
それが心から共感できる。 だって、私の心の中での出来事なのだから。 でも、それはアイリが私の中にあるということで。 こうなってしまえば、アイリは私を守ってくれない。 彼女の温もりによって、私は世界から守られていたのに、それはもうなくて、私は孤独になり、孤立している。
アイリ以外にもいろいろな人がいる。 この魔力の渦の中には、大勢の人がいて、その喧騒がある。 けれど、それはこうなってしまえば、他人じゃない。誰もいない。ここには私しかいない。
いや、この世界に私しかいないのなら、それは私はこの世界にいると言えるのかな。誰もいない気がする。この場所には。 私にはアイリが必要なように、誰だって誰かを求めている。この孤独感はとても怖いけれど、でも私は必要だと思える誰かに会えた。そしてアイリは私を好きでいてくれる。
他の感情があったとしても、私を好きだと思ってくれている。 いや、好きじゃなくてもいい。私の世界にはアイリという他人が必要で、だから、こんなのはもういい。
他人がいないから傷つかない。恐怖もない。 でも、私はもう知ってしまった。
私を包んでくれる言葉も。触れてくれる手。くすぐったい髪も。私の心を探してくれる心も。アイリの温かな行動の全てが、ここにはない。
ずっとこういう場所を望んでいた。
植物のように、大きな幸福もない代わりに、痛みや苦しみや恐怖を感じることなく過ごせたらって。そういう曖昧で微弱な安心の積み重ねこそが、幸福な生活だと信じていた。
でも、それは違った。
少なくとも今の私には違う。
簡単なことがわかっていなかった。 アイリを私の中にしまいこんでしまえば、二度とアイリには会えない。他人は他人ではないと会えない。
私はアイリに会いたい。
また会いたい。
……他人なのに?
どう想われるかわからないのに?
失うかもしれないのに?
確かにこれからアイリの心がどうなるかわからない。
もしかしたら、アイリを手放してしまえば、また離れていってしまうかもしれない。もっと酷いことになって、嫌われてしまったり……何もかも失うことになるかも。
それどころかきっと全部めちゃくちゃにしてしまうかもしれない。私の心の棘はとても鋭利で、全部ずたずたにして切り裂いてしまうかもしれない。ううん。きっとそうなる。私はこれからも色々な人を傷つけて……アイリを傷つけて、多くのことを駄目にしてしまう。
その度に後悔を増やして、居場所を失って、また現実を見失うかもしれない。また孤立する夜が来て、分厚い殻の中に閉じこもってしまうかもしれない。
……でも。
今の私はアイリが好き。アイリに会いたい。
そう思えるなら、私の心のことを少しは認めてあげられる気がする。理解できるかは分からない。何もしてあげられないかもしれない。アイリからはただ奪うだけかもしれない。
それでも私はアイリに会いたいと思ってる。
私がまだどこにいるのかわからないけれど、アイリを好きだと思えるこの心さえあれば、どうなってもいい。
また会いたいと願えるのなら。
また会いたい他人がいるというのは。
とても幸運で。
「きっと幸せなことだから」
そして泡が弾ける。




