第41話 精神依存
「ただいま」
目を開けて、帰ってきたアイリの姿を視界に収めた時、私は何というか。心の内がどういう風になっているのかわからなかった。どう想えばいいのかわからない。
安心というか、不安というか、安堵というか……全部同じようで、全部違う感情が渦巻いて、そのどれもが正解で、そのどれもが間違っているような。渦巻く感情が余計に感覚を狂わせている。
「おかえり」
この台詞を言うたびに、発しても違和感がなくなったことがどうにもおかしく感じる。もう私にとっては、この家にアイリといることが当たり前になりつつあるらしい。この不安の原因も元を辿れば、そのせいなのかもしれない。
アイリは適当に鞄を置き、私の隣に当たり前のように座る。それになんだか、心底ほっとする。
「あ……」
でも、何を言えばいいのかわからない。最近は少し言葉が重い。
今までアイリとはもっと楽に話せていたはずなのに。後悔を思い出したせいか、言葉がでない。何を言っても、上手くいかない気がして。
けれど、こういう無言の時間もアイリとの時間なら、そこまで苦じゃない。彼女の綺麗な息遣いが、揺れる長い桃髪が、小さく動く指先が、沈黙を感じさせないからかもしれない。
この沈黙を破るのは、大抵の場合、私な気がする。けれど、今日はアイリだった。
「……レーネ、泣いてるの?」
「え?」
泣いてる? そんなこと。
でも、視界が滲んでいる。どうやら、泣いているらしい。私は。どうして。
……どうしてなんて、考えるまでもないのに。でも、笑ってしまいそうになる。こんな風に被害者面をして泣いているなんて。私が傷つけたのに。
「どうしたの? 何かあった?」
アイリがとても不安げに呟く。
彼女はぺたぺたと私の傍に寄る。それを拒絶したりはしない。でも、願うように揺れる瞳で私を見つめるものだから。どんな不安を抱えていたかなんて、忘れてしまった。
……いや、本当はわかっている。でも、忘れたことにしたかった。これをアイリに話しても意味があるように感じなくて。それよりはただこうして、アイリが隣に座ってくれることを感じていたい。
「ううん。なんでもない」
「……そっか」
話したくないという意味を言外に籠めれば、アイリはそれ以上に踏み込んでこない。その辺りの察しの良さは流石というか……私にはないもので。
きっとそういう、私も気づいていない細かな気遣いによって、この関係は維持されている気がする。これだけ傾いてしまっているのに。
「アイリ……」
咄嗟に声が出る。自分でも驚いて口に手を当てる。とてもか細く。
けれど、もう言葉になっていて、アイリの視線がまた私を向く。それを嬉しいと感じるのだから、不思議というか。変化したというのか。
「えっと」
でもどう言えばいいのかわからない。何をいっても意味はない気がするというか。何を言いたいのかもわからない。
「上手く言えない」
だから、それぐらいの事しか言えなかった。
そんな私の様子を見て、アイリは不思議そうに首を傾げる。すぐに何かを思いついたように、にこりと笑う。
「レーネ、触っても良い?」
頷く。肩が触れる距離にいたアイリが見惚れるほどに綺麗な動きで、私の手に触れる。
どうやら手を繋ぎたいらしい。私も手を開いて、指を絡める。
「なんだか溶けちゃいそう」
アイリが呟く。それに答えるように、頭をことりと傾ければ、桃色が視界に広がる。ふんわりとした気分になる。ぽわぽわしているというか。
彼女が私の腕の中にいてくれると、なんだか安心するようになっている。なってしまっている。
「……いいのかな」
私の口からつぶやきが漏れる。
ごく小さな声だったけれど、それをこの距離に座っているアイリが聞き逃すはずもない。
「……やっぱり、何かあった?」
少し不安げに、でもそっと問う。その小さな歩み寄りがとても心地良い。だから甘えたくなるのかもしれない。
でも、本当は私からも歩み寄らないといけないことは分かっているのに。でも、私の心の扉は開かない。
「本当に何もないけど。まぁちょっと、思い出したっていうか」
「……聞かない方が良い?」
アイリがぽつりと問う。
けれど、その問いの答えは私にはない。判断できない。
「わからないよ」
「……じゃあ、聞かない方が楽?」
「まぁ……そうかも」
わかったとだけ呟いて、アイリはまた私の手を撫でる。
そうして私の心をわからないままにしてくれることが、なんだか心地が良かった。ゆっくりと歩んでいるのかわからない私の心を肯定してくれているような気がして。私の心を繋ぎとめてくれているような気がして。
……甘えている。私は。
ずっとそう。アイリと出会ってから、ずっと……アイリの優しさに甘えている気がする。そんなのだから、どんどん私達の関係は傾いていくのに。
でも、昔のアイリなら……
「アイリは話して欲しいかと思ってた」
そうやって、私に言葉を求めていた気がする。
そうやって、心の中身を催促されるのは苦手というか……正直、困っていたから助かるけれど。それでいいんだろうか。アイリの望みを叶えなくていいのか、私には判断がつかない。
……その辺りも私の決断力の無さが露呈しているらしい。
「……いつかは話して欲しいよ。もちろん」
やっぱり……でも、そのいつかは来るような気はしない。だから、アイリの期待は少し重い。
でも、どうしてだろう。なんで、アイリのような人に、話したくないと感じているんだろう。まだわからない。
「でも、レーネを苦しめるのは、嫌だよ」
「苦しめるって……」
苦しいのかな。私は。
答えられないのは確かに苦しい。
けれど、それはアイリのせいじゃなくて……私の、私の問題なのだから。
「……私は、こうしていられるならいいから」
アイリがちょっと強く私の手を握る。
そしてもう少しだけ、身を寄せる。もとより近かったのに、ほとんど密着している。抱きしめているような形なのだから、当然なのかもだけれど。
私の足の間に器用に座り込んで、少しばかり体重を預けてくれる。ぽかぽかとしたほのかな体温が私の腕の中にある。なんとなしに、というよりはほとんど癖のように、アイリの髪を撫でれば、すぐに彼女の顔がほころぶ。
たったそれだけのことで、これだけ喜んでくれるのだから、私も嬉しい。嬉しいらしい。この辺も変化しているというか。まだ慣れていないけれど。
……でも、最近はなんだかおかしい。
こうしてアイリを撫でていれば、彼女が笑っていれば落ち着く。今まではそれだけだったのに。最近は変な感じがする。
アイリといると変な感じがするというか……アイリが隣にいないとざわざわする。彼女に触れていないと、心が揺れて、ぐわぐわする感じがする。いつか同じように視界が傾き、床が崩れていく感覚というのか……
きっと彼女に心の座標定義を任せすぎたせいで、私はどんどん1人でいることが難しくなってきている。のかな。あまり自覚的ではなかったけれど……いつの間にかそんな風になってしまっていたのかもしれない。
でも。それなら……これはほとんど依存な気がする。いや、完全に依存と言ったほうがいいかもしれない。
アイリに依存している。心を見つけたいと願い、アイリが私の心を探そうとしてくれた時には、もう遅かったのかもしれない。
これでいいのかな。
「れぇー……?」
急に撫でるのをやめたせいか、アイリが私の方を見る。
アイリが私の手を取り、自らの頬に当てる。
「あったかい……」
「そうかな」
「うん」
アイリはしとりと頷くけれど、彼女の頬のほうが随分と熱を帯びているような気がするけれど。でもまぁ……私も人のことは言えないかもしれない。
さっきまで自分を抱き寄せるほどだったのに、今はこんなにも温かいのだから。
「れーね……」
静かに綺麗な音で私の名を呼ぶ。なんだかふわふわとする。そんな風に囁かれると変な感じがする。
嫌じゃない。けれど……なんだか慣れない。こんな想いになっていいのかな。
アイリは頬に当てた私の手を撫でる。すりすりと。なんだか私の手で遊んでいるようだった。私もされるがままに、時間を流す。別に嫌じゃないから。
「楽しい?」
「ん……楽しいって言うか、嬉しい」
「そっか」
よくわからないけれど、アイリが嬉しそうにしているのだから、きっとこれで良い……ということにしたほうが楽かもしれない。
でも、本当にそうなのかな。
なんだか悩んだままに、アイリの優しさというか心地よさというか……想いに依存して、不安を忘れている。忘れたことにしている。こんなの、余計に天秤を傾けているだけな気がする。
歪で、傾いて、捻じれている。
こんなのアイリがくれた想いとは違う。はず。それにアイリが求めた想いでもない。
……どうしたら、いいんだろう。
心が安らいで、そしてもわもわする。心にあったはずの鋭い棘は、彼女の柔らかな手で包まれている気がする。
考えても答えは出ない。
ただ時間が過ぎていく。
さっきまで適当に流していた映画の音が小さく聞こえる。もう終幕らしい。画面には関係者の名前が流れている。
アイリと映画を見る時は大抵音が小さい。それは字幕で十分ということ以上に、アイリの声が綺麗すぎるからかもしれない。聞き逃しそうなほど自然にそこにある音を、聴いていたからかも……なんて、思ったりしていることが少し不思議な感じがする。
「映画でも見る?」
終幕が終わり、映画の音が切れる。故に沈黙を破り、形式的に聞いてみる。
けれど、アイリはちらりとこちらを見てから、首を横に振る。
「……ううん。もう少し、こうしてたい」
「そっか」
アイリがそう言ってくれたことにほっとしているらしい。私もそうしたいと思っていたということなのかな。それとも、私がまだこうしていたいと思っていたから、アイリもこうしていたいと言ってくれたのかな。
そこまで、アイリが私の心を捉えているのかはわからない。きっと、私の思いはまだ言葉にできるほどはっきりとした想いじゃない。
それでも、私も同じ想いであれと願っている。それを伝えるように、また彼女の桃髪に顔を半分ほどうずめる。
それだけで、アイリはにゃららと変な声で嬉しそうに笑うものだから。なんだか、独りじゃない気がする。寂しくない。
……私は今、寂しくないらしい。孤独じゃないらしい。
その変化があまりにも嬉しい。
アイリとの関係を壊したくない。それが依存だとしても。
彼女との関係がかけがえのないものに変化している。そのせいでとても怖い。アイリとの関係を失うのが怖い。もうこれ以上、後悔を抱えたくない。
でも……それ以上に、嬉しいらしい。
アイリのことがかけがえのない存在になっていることが、本心から嬉しいと思っているのだから。
「まぁ……いっか」
なんでもいい。アイリさえ隣にいるのなら。悩みも、後悔も、未来も、不安も、全部……アイリが隣にいてくれれば何でもいい。
今は、そう思えた。




