2・泥棒
寒さで眼が覚めたアリアは、ベッドから起き上がり、冷え切った空気に身を震わせた。
薄っぺらな窓から隙間風が吹き込み、火の気のない部屋は冷え切っていた。
吐いた息が白い。
「さすが築二十年」
誰もいない部屋にアルトの声が響いた。
かなりくたびれている鉄筋五階建てアパートの三階の部屋。
だが、贅沢は言えない。
生活拠点にしているアパートは他にもあるのだ。一時しのぎの住まいだからベッドさえあればいい。
広さだけは十分にある殺風景な部屋を、小走りして電気ヒーターの電源を入れた。
身体を丸めてその前に座り、リモコンでテレビをつけた。
都内の雪景色が映った。
ニュースは、東京でこの冬初めての積雪と報じ、JRの運休やダイヤの乱れ、首都高速の閉鎖、転倒者が何人などと伝えていた。
「午後から出かけないとならないのに」
テレビ画面に文句を言った。
都会の冬は無味乾燥だ。
一月のどんよりとした灰色の空が一層外出したくない気分にさせる。
しかし、絶対に行かなければならない用事があった。
午前九時十分。
普段は昼過ぎに起きて、午前三時か四時頃に眠りにつく不健康な生活をしているのだから、今日はかなりの早起きだ。
まずは頭をすっきりさせなければと思い、アリアはのろのろと立ち上がって浴室へ行きバスタブの蛇口を開いた。
冷えた浴室で湯気が真っ白く立ち上る。
脱衣かごに寝巻を脱ぎ捨て、まだ湯が少ないバスタブに足を入れた。
「あっつう!」
思わず足先をひっこめた。
冷え切った足先にはぬるい湯でもひりひりと熱かった。
白い足先をそっと湯船に入れた。
バスタブに湯がたまる頃にはぬるくなっていた。
手のひらで肩に湯をかける。
細身で丸みのない体つきは少年のようだが、腕を動かすたびに小さな胸のふくらみがほんの少し揺れた。
伏せていた瞳を窓に向けた。
四角い窓枠に薄っすらと積もった雪が目に留まる。
「雪か……」
眉をしかめて重いため息をついた。
幼年時代は雪の街にいた。
嫌な過去ばかりのはずなのに、どこか懐かしく感じる雪。
ぐうとおなかが鳴った。
「感傷に浸っている場合じゃなかった。何か食べていかないと」
肩につきそうな髪にブラシを通し、白いシャツと茶のパンツに着替えると、二十歳前後の中性的ないでたちになった。
時間を気にしながら、残りものの食パンを、ティーバックの紅茶で流し込み、窓から外の様子をうかがった。
相変わらず環状七号線は騒々しく、積雪でいつもより渋滞していた。
その道路わきに車が一台停まっているのが見えた。
男が二人乗っている。
「刑事さん、まだいる」
憂鬱なため息をつき、濡れた髪をかき上げた。
「知られていないアパートだったのに」
数日前からの張り込み。
じっと身を潜ませていても刑事が諦める気配はなかった。
「今日はどうしても出かけなければならないのに……」
昨夜遅くに携帯電話が鳴った。
すぐに起き上がり、嬉しさと不安の入り混じる複雑な感情に支配されながら、携帯電話を手にしたのだった。着信する電話番号はいつも違うが、アリアの携帯電話の番号を知っているのは『ヒロ』だけだ。
「俺だ、明日会いたい」
「また何かやったの?」
「心配するな、捕まることはない。おまえに会いたい」
「東京で待てと連絡してきてからもう一ヶ月も過ぎているのに、どうして連絡してくれないの」
「わるい。時間がないから、明日」
待ち合わせ場所を告げて電話はぷつりと切れたが、そのあともしばらく心臓が高鳴っていた。
ヒロがまた危ないことをしているのではないかと不安で胸が締め付けられる一方、ヒロが自分のことを忘れていなかったという幸福感で、アリアは満たされたのだった。
今までも、『仕事』のときしかヒロは連絡をしてこない。
そして会うたびに、自分は泥棒のための手足なのだと落胆する。
それでも必要とされているだけましだと自分を納得させる。
その繰り返しだった。
今回も仕事の話に違いない。
刑事に張り込まれているのもヒロと何か関係があるのかもしれない。
ヒロは大口の泥棒を重ねている犯罪者なのだから。
家族の愛情を受けられなかった分、愛情の全てをヒロに求めてしまうということは、アリアは自分でわかっていた。だがどうしようもないのだ。
母親の再婚相手の連れ子であるヒロは、義兄であり、相棒であり、恋人のような存在なのだ。
ヒロは絶対的な存在で、逆らうなど考えられない。
ヒロがいたから、こうして生きていられる。
ヒロが世界のすべて。
だから、『仕事』と分かっていてもヒロが会いたいと言えば従う。
逆らったことはなかった。
『仕事』のためには男でいた方が都合良い。
ヒロがそう言ったときから男として生活してきた。
そのほうが警察の目をくらませるというのだ。
実際、性別を変えることで、別人に成りすまして今までに見破られたことはなかった。
万事うまくいっていたのだ。
あの刑事に会うまでは。
ヒロが全てだったはず。なのに……
「余計なことは考えない」
自分に言い聞かせるように声にした。
今はここを抜け出すことに集中しなければならない。
ヒロが大切な人だということには今も変わりがないし、気を抜いてヒロが捕まるようなことがあってはならない。
これから刑事をまいて出かけるのだから気弱になってはいられない。
ゆっくりと大きく息を吸いこんで肩の力を抜く。
洗面台に置いてあった黒いサングラスをかけて、鏡に写る自分を見つめる。
長い睫毛に縁どられた、謎めいた瞳が隠れた。
その時点から、女性らしい仕草が消えたのだった。