11・押し掛け女房
翌朝、寝室で寝ていたアリアは、キッチンからの物音で目が覚めた。
包丁のリズミカルな音。
ヒロかな、などと思いながらのんきにまどろんでいると、鼻歌とともに鍵がかかっているはずの寝室のドアがカチャリと音を立てて開いた。
一気に目が覚めたアリアは、その音で飛び起きて、すかさず枕元においてあるサングラスをかけた。
「誰だ!」
「おはよう、アリア。朝食ができたよ。もう起きたら」
柚子は手に持っていた針金のようなものをポケットにしまうと、毎朝そうしているかのようにカーテンを開けた。
眩しい朝日が部屋中に射しこんだ。
「鍵がかかっていたはずなのにいったいどうやって入ったの。勝手に上がり込んで」
「あら、そんなこと別に何の障害にもならないけれど」
柚子がにこっと笑う。
「それに、ここは今日から私の部屋でもあるわ」
「って、一緒に住むって本気だったの」
アリアはベッドの上であぐらをかき恨めしそうに柚子を見た。
「もう九時よ。朝食ができているから起きてきてね」
弾むようにそう言って、柚子は部屋を出た。
何を考えているのか。まったく面識もない他人と同居するなんて。
これからはマンションに帰ってもゆっくりできないと思うと、アリアはため息が漏れた。仕方なく、白い洗いざらしのシャツと濃いグリーンのタックパンツに着替えて居間へ行った。
長椅子の横にボストンバックが一つ、無造作に置いてあったのが目にとまった。柚子の持ち物のようだ。本当に身軽にここへ来たようだった。
いったい、この少女は今までどういう生活をしていたのだろう。
居間の珈琲テーブルにはトースト、目玉焼きにキャベツのサラダ、そしてロイヤルブルーのマグカップに紅茶がいれてあった。小さいテーブルは一人分を並べただけで一杯になっていた。
「コーヒーは置いてないのね」
柚子は鼻歌交じりで、トーストにバターを塗ってアリアに渡した。
「紅茶しか飲まないから」
長椅子に座ったアリアは、いただきますをしてからトーストをかじった。まだボーっとしていた。
「……柚子さんは食べないの?」
「私は食べてきたから」
「そう……」
柚子はアリアの横にちょこんと腰かけて、トーストをかじるアリアを嬉しそうに見ていた。始終見られているアリアは食べづらく、ぎこちなく紅茶を口にしてトーストを流し込んだ。何がそんなに楽しいのかアリアにはさっぱり分からなかった。
「冷蔵庫が空だったわ。食料を買ってきたから間に合ったけれど、いつもこんな感じなの? 部屋はがらんとしているし。せめて食卓テーブルがほしいわね」
来客用の小振りの白いティーカップで紅茶を飲みながら柚子が部屋を見回した。
「ここはたまにしか来ないから」
「そうなの? でも、アリアはここに住んでいるのよね」
柚子は心配そうに訊いた。暫くいるだろうが、違う場所への移動を考えていたアリアは「一応……」と答え、それ以上訊かれないように違う話題に移した。
「そんなことより、あの双子がここに来るのは間違いない。柚子さんは会ったらまずいでしょう」
アリアはささやかな抵抗を試みたが、柚子は特に動じた様子もなく、「そうねえ」と言っただけだった。
この娘の同居を阻止する手立てはないものか。策を練らなければ生活が脅かされる。とは言え、なかなか良い案も思いつかず、アリアは朝食をすっかり平らげた。そして、立ち上がった丁度その時、玄関のドアが開く音がした。
「アリア、いるのか」
声とともに、十無と昇が入ってきた。
「勝手に上がらないでよ」
やはり双子が揃ってやってきた。出迎えたアリアの口調はあきらめ半分だった。
「カギも掛けないで無用心だな、あっ! この娘は確か……」
長椅子にちょこんと腰かけている少女の存在に、二人とも目を見開いた。
「柚子といいます。よろしく刑事さん、探偵さん。今日からアリアと一緒に住むの」
柚子は動揺している二人をよそに、立ちあがって初対面のように白々しくぺこりとお辞儀をした。
「どういうことだ」
昇は説明しろと言わんばかりに、壁に寄りかかって腕組をしているアリアを睨んだ。
「さあ、どうなっているのか」
こっちが聞きたい。
アリアは肩をすくめて他人ごとのように呟く他なかった。
「おまえ、昨日もう解決したようなことを言ってさっさといなくなっておいて、それでどうして――」
昇はアリアを探るようにじっと目を離さない。
「――渦中の人物がなぜここにいる」
十無は昇の言葉を引き継いで、柚子を睨みつけた。
「何のことかしら」
柚子は堂々としている。しらを切り通すつもりらしい。
立ち話しの双子に、柚子は長椅子をあけて座るように勧め、珈琲テーブルに占めていた食べ終えた皿を手早く下げて、白いティーカップを二客並べた。
「お茶でもどうぞ」
「あ、ありがとう」
十無はついお礼を言っている。
「じゃなくて、君だろう? 俺の財布と警察手帳を掏り取ったのは!」
「そんなに声を荒げないで。刑事さん本当にすられたの? どこかのポケットに入っていたりして」
柚子は長椅子に座る双子と向かい合わせるように床にそろそろと座り、自分のマグカップに紅茶を次ぎたしてゆっくりと飲んだ。
「そんなこと、あるはずがないだろう。……あれ?」
十無がそう否定しながらも念のためコートのポケットに手を入れた。そこで動きが止まった。手に何か当たったようだった。困ったようなばつの悪いような表情を浮かべながらポケットからゆっくりと出したその手には、手帳と財布が握られていた。
「あら、あったじゃないの。変だと思ったのよ、刑事さんがスリにあうなんて考えられないものねーえ」
柚子は勝利の微笑みを浮かべ、十無は複雑な顔をして昇に助けを求めるように視線を送っていた。
「いや、でも――」
昇を遮って、アリアが笑いをかみ殺しながら言った。
「なあんだ。やっぱり勘違いだったの。刑事さんがスリにやられたなんてどう考えてもあり得ない話だよね」
「……」
十無は黙ってしまった。
柚子がちょっとした隙に十無のコートのポケットへ入れたのは間違いなかった。しかしこれ以上あれこれ詮索しても、十無の恥の上塗りになるだけだろう。
「よかったね、解決して」
アリアは意地悪く言った。
「解決って……」
消化不良の顔をした双子が声をそろえて不満そうな声を出した。
「さて、私はこれから出かける用事があるので、柚子さんとごゆっくり」
これ以上巻き込まれたくないアリアは、コートを取りにそそくさと玄関へ逃げた。
「あっ、私も一緒に行く!」
柚子も慌ててアリアについていった。
「どこへ行く、まだ話は終わっていない」
と言って双子もそれに続いたが、玄関でコートを着ようとしていた手を止めたアリアは、「デートだから今度は邪魔しないでね」と三人に釘を刺した。
「え~、アリア付き合っているひといるの? その相手ってやっぱり男の人――」
アリアは慌てて柚子の口を手で押さえ込んだ。
「ってことで、柚子さんを頼むね、お二人さん」
「待てよ、デートって誰と……」
昇のそれには答えず、アリアはぽんと十無の肩を叩いて「じゃあね」と、部屋を出た。
階段を降りながら、三人が後をついてくる気配がないことを確かめ、アリアはほっとして小さいため息を漏らした。
それにしてもヒロに柚子のことをどう説明したらよいのだろう。それに見ず知らずの他人との同居などうまくいくのか。
先のことを考えると気が滅入りそうになったが、アリアはとにかく一人になりたくて部屋を出たのだった。
外に出たアリアは空を見上げた。住宅街の路地の谷間に見える空は四角く切り取られて狭く、排気ガスで濁っていた。
味気ない灰色の冬。冷たい風と寒さだけの冬のほうが寒く感じるのは何故だろう。
アリアは肩を丸めてコートの襟元をしめた。
「雪って温かいものだったろうか」
アリアは雪が無性に懐かしく思えたのだった。
音までも包みこんでしまう白い雪が懐かしい。全てを呑み込んで綺麗に化粧をしてくれる雪。天使の羽のような雪に包まれて汚れがすっかり隠されたなら今よりましになるかもしれない。嫌な過去やヒロとの関係も、真っ白に覆い隠してほしい。そうしたら、少しは十無の瞳を真っ直ぐに見ることができるかもしれない。
アリアはできることなら別人になりたかった。がんじがらめの今の自分が嫌だった。
「そんなこと、できないのに。ばかなことを」
アリアは半笑いし、頭を横に振って打ち消した。
過去を引きずって身動きが取れない状態に、逃避だと分かっていてもアリアは考えずにいられないのだった。
細い路地にアリアは消えた。
アパートに残された東昇は理解に苦しんでいた。
兄はどうしてアリアを尾行しないのか。姿を消す可能性もあるのに。まさか、アリアが恋人といる所を見たくなかったというのか。
東昇は動こうとしない十無に、やきもきしていたが、刑事として腕の立つ兄に面と向かってはさすがに言えなかった。
その結果、妙な組み合わせの三人が部屋に取り残された。
「尾行しなくていいの? 刑事さん、暢気ね」
柚子は昇が躊躇しているのをよそに、昇の分までずけずけと指摘した。
「しかし、デ―トと……」
十無が言葉を濁す。やはりそれがネックだったのかと昇は面食らった。柚子は容赦なく追及する。
「なんだか甘いのね。それにどうしてそんなにアリアと親しいの? おかしいじゃない」
「そんなことはない」
そう言ったが、十無の声は小さくて説得力がなかった。
「変なのよね、アリアを見る目が。なんだか好きな人を目で追っている感じ」
女子高生にあからさまに指摘されてもやり返せず、十無は視線をそらすばかりだった。
優秀な刑事がやり込められている。自分でもどうしてよいのか分からないのだろう。恋にはかなり奥手なのだ。
少し可哀想になったが、兄の本音が知りたくて、昇は成り行きを黙ってみていた。更に柚子は意地悪く続けた。
「おかしいじゃない、そんなの。だってアリアは男でしょ、その気あるの」
「いや、俺はいたってノーマル!」
十無は両手を大きく振って否定したが、色恋に奥手な十無がポーカーフェイスを保てるはずもなく、耳まで赤くして声も上ずり、誰が見ても十無の感情は明解だった。好きには違いないのだ。だが、理性がそれを許さないのだろう。想い人は被疑者で、しかも男だというのだから。十無の中で葛藤が生じている。その感情を肯定することは絶対にないだろう。それがよくわかった昇は、兄が可哀想になった。
「あいつは女だよ、多分」
アリアの華奢な腕を思い起こして昇は無意識にぽつりと呟いた。
「それって願望でしょう、違う?」
「いや、それは……」
昇は口ごもった。確かに何も確証はなかった。そして柚子に願望だと指摘されて初めてはっと気が付いた。十無を可哀想に思っている場合ではないのだ。十無同様、アリアを好きになってしまったのだから。
昇はゆっくりと視線を移し、そばにいる十無を恐る恐る窺った。十無は足元の床を凝視して握りしめた手を口元にあてて硬い表情をしていた。昇がとった言動はどういう意味を持つのか鈍い十無でも理解したのだろう。困惑や動揺がうかがえるような素振りだった。
ミイラ取りがミイラか。
昇は心の中で呟いた。
兄に忠告していたはずが、まさかこんな気持ちになるなんてどうかしていると、後悔しても後の祭りだった。兄が追う被疑者、しかも女性かどうかも分からない人物に惹かれてしまった。
「どうとでも言ってくれ!」
昇はやけくそ気味に言葉を吐き捨てて、前髪をくしゃりとかきあげた。柚子は双子を見比べてふふんと鼻で笑った。
「これじゃ、いつまでたっても捕まえられないわねえ。でも、暫くは退屈しないですみそうね」
柚子の声は弾んでいて明らかに愉しんでいることが分かった。昇は何がおかしい! と叫びたかったが、悔しそうに柚子を睨むのが精いっぱいだった。
鼻歌が飛び出しそうなくらいの上機嫌で、柚子は双子のティーカップに紅茶を継ぎ足した。
三人がこんな話をしていたとは、アリアはまったく知らないのだった。