第10話 滅んだ世界
本を棚に戻し図書室を後にする。
唯は図鑑の貸し出しの手続きをしていたから、廊下でしばらく待った。
昇降口を出て校舎の外縁をぐるりと半周し、駐輪場への長い階段を下る。
校舎が丘の上に建っているせいで、同じ敷地内でもかなり高低差があるのだ。
駐輪場の横の運動場では女子ソフトボール部と男子サッカー部が部活に勤しんでいた。
駐輪場を横切り裏門を抜ける。
五分ほどで目的地であるホームセンターに着く。
制服姿の生徒が何人かいた。
私たちと同じで文化祭で使うものを買いに来ているのだろう。
唯が手際良く画用紙とペンキを見繕っていく。
本来ならペンキは下絵が完成するまで買わない方がいいのかもしれないけれど、いかんせん時間がない。
最低限必要なものは買えるうちに買っておこうと、事前に話し合って決めていたのだ。
刷毛は学校から借りられるから必要なかった。
ホームセンターを出たところで唯と別れる。
ここからだと学校と駅の方向が真逆だからだ。
唯は「一緒に学校まで運ぶよ」と言ってくれたけれど、私は断った。
「お、重たいよ?」
唯の気づかわしげな顔。
「平気平気」
強がったけれど、実際ものすごく重たかった。
ペンキの缶もさることながら、画用紙の束がかさばって持ちにくい。
なんとか駐輪場に辿り着いた時には、もう満身創痍だった。
一度荷物を地面に置く。
缶がぶつかりあう濁った金属音。
運動場にはもう誰の姿もなかった。
そろそろ門が閉ざされる時間だ。
私はこれから校舎までの長い階段を上り、さらに四階にある教室まで荷物を運ばなければならない。
(……ま、間に合うかな?)
俯きながら深呼吸を繰り返していると、視界の端から手が伸びてきて足元の荷物を掴んだ。
顔をあげると、そこには波戸がいた。
「な、なんでここに?」
驚いて素っ頓狂な声をあげてしまう。
「教室に鞄が置きっぱなしだったから」
わざわざ迎えに来てくれたらしい。
「そ、そっか」
「思ったより大荷物だね」
「あ、全部は持たなくていいよ」
「大丈夫。これくらいなら」
彼は私が苦労して運んできた荷物を軽々と両手に持った。
昔は私の方が背も高かったし力も強かったのに、変な気分だ。
帰宅しようとする生徒の流れに逆らいながら、私たちは階段を上った。
普段はすぐに帰る生徒たちも文化祭の準備で居残っていたのだろう、今さっき六限目が終わったとでもいうような混雑ぶりだ。
彼の後ろにいると、まるで守られているような気がした。
「……そもそも、最初から波戸が買い物についていけばよかったんじゃん」
つい悪態をついてしまう。
本当はありがとうと言いたかったのに。
波戸は、ごめんと前置きしてから申し訳なさそうに言った。
「さっきまで瀬川と脚本について話し合ってたんだ。他の男子に荷物持ちを頼んでもよかったんだけど、それだと柚木さんが困るかなと思って」
波戸が周りに気をつかいながら物事を進めていることはわかっていた。
それでも、というか、だからこそ、なんだか素直になれなかった。
「藤村の鞄も一緒に持ってくるから、ここで待ってて」
そう言うと、波戸は校舎の入り口に私を残して、一人で昇降口に向かった。
しばらく言われた通りに隅っこの方でぼうっと佇んでいた。
生徒の流れは主に二方向に分かれている。
目の前の正門を出ていく生徒たちと、駐輪場に向かう生徒たち。
校舎の入り口では別れの挨拶が飛び交っていた。
——バイバイ、じゃあね、また明日。
なんだか無性に寂しくなってくる。
見知った顔を探したけれど、話しかけるほど親しい相手は見当たらなかった。
私は校舎に入り、靴を履きかえる。
人の流れに逆らい、何度か肩をぶつけそうになりながら、階段を上った。
三階まで来ると、世界の切れ目を越えてしまったみたいに人がいなくなった。
喧騒は遠くくぐもり、赤く色づいた廊下に私の影が長く伸びる。
四階への階段のところで波戸に追いついた。
周りには誰もいない。
だから、私は黙って彼に近づいた。
缶がぶつかりあう音に紛れて、足音が聞こえなかったみたいだ。
波戸は小さく鼻歌を歌っている。
流行りの曲とかじゃなくて『翼をください』なのが彼らしかった。
教室の手前にまで来て、ようやく彼はこちらを振り返った。
ビクッと彼の肩が震える。
逆光のせいで黒い影としてしか認識できなかったのだろう。
その露骨な驚きように、思わず噴き出してしまう。
波戸は恥ずかしそうに視線を外した。
「……ついてきてたんだ」
「うん、なんとなく」
教室には誰もいなかった。
いつも賑やかなのに、扉を閉めてしまうと遠くの喧騒すら聞こえなくなる。
まるで滅んだ世界に二人だけが取り残されてしまったような気分になった。
それはきっと、私の願望だ。
彼は荷物を教室の隅に置き、鞄を手にとった。
「脚本って、どれくらい進んでるの?」
私は咄嗟にそう尋ねていた。
「半分くらいかな。最後の展開に少し手こずってて」
「できてる部分だけでもいいからさ、教えてよ」
「いいよ。歩きながら話そうか」
「あー、いや、できればここで聞きたい。ほら、ここ、静かだし」
波戸は黒板の上の時計に視線をやった。
もう閉門まで時間は残されていない。
「いいよ」
けれど彼は、そう言ってくれた。
「座りなよ」
椅子を引いてくれる。
私がそこに座ると、彼は近くの机に浅く腰掛けた。
足が長いからだろうか、その姿はとても様になっていた。
クラスの男子がするような下品さは感じられない。
夕日が彼の横顔に濃い陰影を落としている。
子供に絵本を読んで聞かせるように、彼はゆっくりと話し始めた。
「アリスは白ウサギを追いかけて穴に落ち、不思議の国に迷い込んでしまうんだ。そこまでは原作と一緒」
「原作と一緒なのはそこまでなんだ」
何気ない私の突っ込みに、波戸は笑った。
たまに見せる、無邪気で無防備な子供のような笑顔だった。
どきりとする。
不意打ちはやめてほしかった。
「不思議の国では、まずハートの女王と出会い、不法入国者としてトランプ兵たちに追われるんだ。アリスは城に逃げ込んで、聖剣を手にする」
「聖剣?」
「うん。アリスの武器」
コメントが思いつかなかったから、私は黙っていることにした。
「トランプ兵を一組倒したあと、白ウサギが再登場して一緒にハートの女王の元に向かうんだ。トランプ兵は、そのあと衣装を変えて何度も登場し、アリスと衝突する」
「ふうん」
「トランプ兵との戦闘は、基本アドリブになるから」
「アドリブ?」
「下手に立ち回りを決めて台詞っぽくするより、そっちの方がいいかなと思って」
そういう言い方をすれば、なんだかそれが最善な気もするけれど……。
「それってつまり、自由にチャンバラをしろってことだよね。この歳で、しかも観衆の前で」
恥はそっちで勝手にかけ、と言っているようなものだ。
「そういう解釈もできるね」
「他にどんな解釈のしかたがあるのよ……」
実際に舞台上でそれをする身にもなってほしい。
「……ああ、そういえば、瀬川が一番苦労してたのって、アリスとトランプ兵のやり取りだったっけ」
ワイヤーアクションとか巨大化とか月牙天衝とか、かなり迷走していた。
それならいっそ役者に丸投げしてしまおうと、そう考えたのだろう。
私は波戸をねめつけた。
「あんたの入れ知恵でしょ」
波戸は真面目そうに見えて、そういう大胆な一面があった。
図星だったらしく彼の目が泳ぐ。
「大丈夫だよ。トランプ兵たちはアリスに一方的にやられるから、大活躍できるよ」
「そんな心配、誰もしてないんだけど……」
私は嘆息した。
「それで、その後は?」
「決定してるのはそこまでだね」
「そっか」
「でもその後の展開が、それなりにおもしろくなる予定だから」
「それなりに、か。しかも予定って」
ふっと笑いが込み上げてきて、私は肩の力を抜いた。
「期待はしないけど、楽しみにはしてるよ」
扉が開かれる音。
振り向くと、教室の入り口にグレーのパンツスーツ姿の女性が立っていた。
真帆ちゃんだ。
「あなたたち、まだいたの? もう下校時間は過ぎてるわよ」
私たちは慌てて立ち上がった。
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