第61話 朝の始まり
制服へ袖を通し終えた湊は、机の上へ置いたスマートフォンへ手を伸ばした。
画面を開くと、一番上には昨夜のやり取りが残っている。
『今日は、見つけてくれてありがとう』
その下には、もう一通。
『次は、私の話をするね』
返信は昨夜のうちに送った。
それなのに、朝になるとまた開いてしまう。
読み返したいわけではない。
最後にホームで別れた時、美愛が振り返って「更新、合格です」と笑った表情が、その二行を見るたび自然と浮かんできた。
(今日は、美愛の話を聞く日か。)
そう思うと、不思議なくらい身体が軽かった。
机へ向かって参考書を開く時間はまだある。それでも今日は椅子へ座り直す気になれず、鞄を肩へ掛けて部屋を出た。
リビングでは紬が朝食を食べている。
「あれ、今日は早いですね」
「ちょっと目が覚めちゃってさ」
「ふふ、トースト焼きますね」
「ありがとう」
湊も笑って返し、朝食を済ませ、洗い物と身支度をおえて玄関のドアを開ける。
朝の空気はまだ少しだけひんやりとしていた。
通勤途中らしいスーツ姿の人が駅へ向かい、自転車が一台、静かな住宅街を追い越していく。
昨日までと何も変わらない。
それでも駅へ着くと、いつも見送る一本前の列車がホームへ滑り込んできた。
間に合う。
時計を確認するより先に足が動いていた。
車内はいつもの時間より人が少なく、窓の外では店先を掃く人や、登校班の小学生がゆっくりと流れていく。
一本違うだけで、朝はこんなにも静かなんだ。
そんなことを考えているうちに、学校最寄り駅への到着を知らせる放送が流れた。
ホームへ降りると。会社員と高校生が入り混じり、改札へ向かって歩いていく。
湊もその流れへ加わり、階段へ向かおうとして反対側のホームへ目を向けた。
ちょうど列車が到着する。
開いたドアから制服姿の生徒たちが降り始め、その人波の中へ見覚えのある姿が現れた。
胸の前で鞄を抱え、人の流れが落ち着くのを待ってから歩き出す。
美愛だった。
放課後しか知らなかった姿が、朝の光の中にある。
思わず足が止まる。
その気配が届いたのか、美愛も顔を上げた。
人混みの向こうで目が合う。一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに肩の力が抜けたように表情がやわらぐ。
その顔を見た途端、湊の頬も自然と緩んでいた。
約束をしたわけじゃない。
待ち合わせたわけでもない。
ただ少しだけ早く家を出た。
それだけで、昨日別れた相手が朝の駅にいた。
人の流れは改札へ向かって一つになり、二人も自然とその中へ混ざっていく。
歩く速さを合わせようとしたわけではない。
追いつこうとしたわけでもない。
それでも気づけば、昨日ホームで並んで話していた時と同じくらいの距離になっていた。
美愛は少しだけ視線を上げ、小さく息を吸う。
「……おはよう」
放課後より少しだけ眠たそうな声だった。
「おはよう」
湊が返すと、美愛はほっとしたように小さく笑った。
それ以上、どちらも言葉を続けない。
けれど気まずさはなかった。
朝の駅へ響くアナウンス。
改札を抜ける足音。
友達を呼ぶ声。
その全部へ二人の歩幅が自然と溶け込んでいく。
歩き始めてすぐ、湊は昨日まで気づかなかったことを見つけた。
美愛は人が多くなると、肩へ掛けた鞄の紐をそっと握り直す。
前を歩く人が立ち止まれば、自分も一歩手前で止まり、人を追い越すより譲ることを選ぶ。
放課後のホームでは向かい合って話す時間が長かったから、こんな歩き方をすることを知らなかった。
昨日まで見ていたはずなのに、朝になると見えるものが違う。
その小さな発見が少し嬉しくて、湊は何も言わず、美愛と並んで駅前の歩道へ足を踏み出した。
昨日交わした約束は、特別な出来事にならなかった。
朝の通学という、ごく当たり前の日常へ静かに溶け込み始めていた。




