第33話 閉店後の約束
――数日前。
バイト終わりの店内は、営業中より少しだけ広く感じた。
ついさっきまで流れていたBGMは止まり、客の声も消えている。残っているのは、食器を片付ける音と、バックヤードで段ボールを畳む乾いた音だけだった。
カフェ《Licht》は、閉店後になると照明の色が変わったみたいに見える。
暖色の光に照らされた棚には、マグカップや焼き菓子、雑貨が整然と並んでいて、昼間より少し落ち着いた空気が流れていた。
紬はレジ横のメニュー立てを拭き終え、小さく布を畳む。
「おつかれ、紬ちゃん」
バックヤードから出てきた彩音が、エプロンを外しながら隣へ並んだ。
「お疲れ様です」
「今日なんか静かだったね」
「平日ですし」
そんなやり取りをしながら、紬はレジ周りを整えていく。最初は緊張していたこの時間にも、最近はだいぶ慣れていた。
彩音は距離が近い。
気づけば隣にいて、気づけば話している。
最初の頃は、その感覚に少し戸惑っていた。
でも、不思議と無理矢理ではない。
こっちが黙っていても話を続けて、一人で笑って、それでいて踏み込みすぎない。その距離感が、最近は少し心地良くなっていた。
「そういえばさ」
冷蔵ケースから麦茶を取り出しながら、彩音が言う。
「今日、休憩中ずっとスマホ見てなかった?」
紬の手が、止まる。
「……そんな見てました?」
「見てた見てた」
彩音は笑いながらキャップを開けた。
「なんか調べ物?」
紬は視線を落とした。
「……再来週、兄の誕生日なんです」
彩音が「あー」と声を漏らす。
「プレゼント?」
紬は小さく頷いた。
「でも、何買えばいいのか分かんなくて」
口にした瞬間、自分でも変な感じがした。
去年までなら、多分こんな相談はしていない。
一人で考えて、一人で迷って、そのまま終わっていた気がする。
「湊くん、何が好きなんだろ」
彩音が考えるみたいに視線を上へ向ける。
「物欲なさそうだよね」
「ないですね」
紬も即座に頷いた。
「必要になったら買う感じなので」
「あー、なんか分かるかも」
彩音が笑う。
「しかも絶対、壊れるまで使うタイプ」
紬も笑いそうになる。
実際そうだった。
財布もイヤホンも、かなり長く使っている。前にケースが壊れかけていた時も、「まだ使えるから」で済ませていた。
「でも紬ちゃん、ちゃんと考えてるんだね」
不意に言われ、紬は目を瞬かせる。
「え?」
「プレゼント」
彩音は麦茶を飲みながら続けた。
「なんかいいなって思って」
その言い方が軽すぎなくて、紬は返事に困る。
去年のことを思い出した。
家族になったばかりで、お互い距離感が分からなくて、結局何も渡せなかった誕生日。
おめでとうとは言った。でも、それだけだった。
「あ、そうだ」
彩音が何かを思い出したみたいに顔を上げる。
「紬ちゃんも誕生日近くなかった?」
「……一日違いです」
「え、ほんとに?」
彩音が驚いたみたいに目を丸くする。
「じゃあ再来週二人とも?」
紬が頷くと、彩音は少しだけ黙ったあと、「なんかすご」と笑った。
「じゃあ私も渡したいな」
「え?」
「紬ちゃんと仲良くなったしね」
さらっと言われ、紬は言葉に詰まる。
彩音はそういうところがある。
重くしないまま、大事なことを言う。
「でも紬ちゃんは内緒で買いたいよね」
楽しそうに言いながら、彩音は少し考える。
そのあと、不意に「じゃあさ」と顔を上げた。
「今度みんなで買い物行かない?」
「みんなで?」
「うん」
彩音が頷く。
「三人ならプレゼントを買いに来たって感じじゃなくて、湊くんにもバレにくそう」
紬は少し考える。
たしかに、このタイミングで兄と二人だけで買い物へ行く方が逆に不自然かもしれない。
「それに」
彩音が笑う。
「普通に楽しそうじゃない?」
その言葉に、紬は少しだけ視線を落とした。
兄と二人で出かけること自体、ほとんどない。
家では普通に話す。でも、“一緒にどこかへ行く”となると、妙に意識してしまう。
「……兄、来ますかね」
「来る来る」
彩音は即答した。
「紬ちゃんが行くなら絶対来るって」
「そんなこと――」
否定しかけて、止まる。
彩音はそんな紬を見て、小さく笑う。
「じゃ、決まりね」
そのまま勝手に予定を進めながら、閉店後のカウンターへ肘をついた。
店の外では、シャッターを閉める音が響いている。
紬は手の中の布をゆっくり畳みながら、閉店後の静かな店内を見渡した。
彩音さんは、いつの間にか自然に兄の名前を口にするようになっていた。
春休みに一度会っただけのはずなのに、その距離の縮まり方が、紬には少し不思議だった。
プレゼント。
買い物。
兄と彩音さんと三人。
頭の中で並べても、まだ少し現実感が薄い。
それでも予定を断る理由を思いつかなかった。




