学校 踏み込まない距離で
春休みは、思っていたよりあっという間に終わった。
始業式を挟んで数日が過ぎ、校内にはようやく新しいクラスの空気が馴染み始めている。
廊下ではクラス替えの話がまだ続いていて、昼休みになるたびに知らない名前が飛び交う。部活勧誘の声も増えて、放課後の校舎は春休み前より少しだけ騒がしかった。
そんな中でも、白石湊の生活自体はあまり変わっていない。
授業を受けて、適当にノートを取り、休み時間は窓際で時間を潰す。放課後になればそのままバイトへ向かい、終われば駅へ向かう。
ただ、一つだけ。変わってしまったものがある。
「……」
ホームの奥を見なくなった。いや、正確には違う。見ないようにしている。
電車を待つ時も、なるべく白線から離れた位置へ立つ。人の流れに紛れるような場所を選び、ホームの端には近づかない。それでも時々、視線だけが勝手に向いてしまう。
あの場所へ。
春休みが終わってからも、一度もミアには会っていない。
連絡先も知らない。学校も、本名すら分からない。思い返してみれば、驚くほど何も知らない相手だった。
それなのに、駅へ着くたびに、頭のどこかが今でも探している。
朝の教室は、相変わらず騒がしかった。
ドアを開けた瞬間、まとまりのない声の塊が一気に流れ込んでくる。笑い声、椅子を引く音、昨日の続きみたいに始まっている会話。それらは意味のある言葉として頭へ入る前に、ただの“音”として通り過ぎていった。
この程度の騒がしさには慣れている。むしろ、一つ一つ拾おうとする方が疲れるのだ。最初から聞き流してしまった方が楽だった。
白石湊はそのまま自分の席へ向かう。椅子を引き、鞄を机の横へ掛け、教科書を取り出して机へ置く。机へ置いた自分の手をぼんやり見る。
考えないようにしても、勝手に浮かんでくる。あれから何日も経っているのに、まだ消えない。
そこまで考えて、湊は視線を逸らした。考えたところで意味はない。そうやって無理やり思考を切り上げかけた瞬間だった。
「湊くんじゃん!」
不意に名前を呼ばれる。
反射的に顔を上げると、一ノ瀬彩音が机の横へ立っていた。
「……一ノ瀬」
ほんの少しだけ間が空く。
彩音は気にした様子もなく、「やっぱり」と笑った。
教室の入口ではなく、わざわざ席の横まで来ている。その距離感が少しだけ不自然だった。けれど、不思議と嫌ではない。
「紬ちゃんに、湊くんが私と同じ3年生って聞いてたけど、まさか同じ学校だったなんて」
彩音が机へ軽く手をつく。責めるような響きはなく、ただ面白がっているだけみたいな口調だった。
「……俺も今知った」
そう返すと、彩音は少し目を丸くしてから吹き出す。
「いや、私もだけどね?」
「一ノ瀬も気づいてなかったなら、俺は悪くないだろ」
「だってクラス違うし。あと湊くん、あんまり周り見てなさそうだし」
「偏見だろ」
「否定できる?」
そこで湊は少しだけ黙る。
彩音はその反応を見て、小さく笑った。
「ほら」
「……まあ、人は見てないかも」
あっさり認めると、彩音は「正直だ」と楽しそうに言う。
湊は視線だけ周囲へ流した。何人かの男子がこちらを気にしているのが見える。彩音はたぶん、それにも気づいている。それでも態度を変えないまま、当たり前みたいに湊の席の横へ立っていた。
「でもさ」
彩音が少しだけ声を落とす。
「人に興味ないっていうより、最初から距離置いてる感じする」
湊は視線を落とした。
窓から差し込む朝の光が机の端へ白く反射している。その光を眺めながら、小さく息を吐いた。
「……そんな分かりやすいか」
「分かる人には」
彩音は即答しなかった。考えるように間を置いてから、静かにそう返す。
その言い方が妙に引っかかった。
「なんで分かるんだよ」
それ以上説明する気はなかったし、聞かれたくもなかった。
けれど彩音は無理に踏み込もうとはしない。ただ机へ軽く寄りかかったまま、少しだけ首を傾ける。
「なんとなく?」
「適当だな」
「でも外れてないでしょ」
否定できなかった。
周囲では相変わらず笑い声が飛び交っている。誰かが机を叩き、別の誰かがうるさいと笑っていた。その騒がしさの中で、彩音だけが妙に静かだった。
「湊くん」
名前を呼ばれる。
「なんだ、一ノ瀬」
反射的にそう返した瞬間、彩音が少しだけ眉を寄せた。
「それ、やめない?」
「……なにが」
「一ノ瀬ってやつ」
冗談みたいな口調だった。けれど、その奥で引く気がないことも分かる。
「彩音でいいよ」
あっさりと言う。まるで最初からそれが自然みたいに。
「……いや、それは」
すぐに否定が出る。理由なんてない。ただ、今までそう呼んでこなかった。それだけのことなのに、なぜか簡単には変えられなかった。
彩音は一瞬だけ黙り、それからほんの少し距離を詰める。
「彩音でいいって」
さっきより少しだけ低い声だった。強引ではない。けれど、不思議と逃げ道がなくなる言い方だった。
言葉が止まる。
断る理由は浮かばない。それでも、すぐ受け入れるのも違う気がして、ほんの短い間だけ沈黙が落ちる。
「ほら」
彩音が軽く促す。
「一回だけでいいから」
試すみたいな言い方だったが、その目はちゃんとこちらを見ていた。
「……彩音」
少しぎこちなく、確認するみたいに口に出す。その瞬間、彩音がほんの少しだけ目を見開いた。けれど次には、小さく頷いて笑う。
「うん。それでいい」
さっきより柔らかい表情だった。
彩音は一度だけ教室の後ろを振り返る。友達に呼ばれたらしく、小さく手を振り返してから、また湊へ視線を戻した。
「ねえ、湊くん」
「ん?」
「今日のお昼、一人?」
「大体そうだけど」
「じゃ、一緒に食べよ」
断られる前提のない言い方だった。
湊は少しだけ黙る。
一人の方が楽だとか、今日は誰かと食べる予定があるとか言って、いつもの自分ならそう考えて答えて終わっていたはずだった。
けれど、その日はなぜか「嫌だ」が出てこなかった。
彩音は急かさない。ただ机へ軽く寄りかかったまま、静かに返事を待っている。その距離感が、不思議と心地よかった。
「……別にいいけど」
そう返すと、彩音は少しだけ目を細めた。
「やった」
大げさじゃない。それでも、ちゃんと嬉しそうだった。その反応を見て、湊はほんの少しだけ視線を逸らす。
教室のざわめきは相変わらず続いている。
ここから第2章、学校編が始まります。
春休みが終わって、景色は少しずつ“いつも通り”へ戻っていきます。
クラス替え。昼休みの騒がしさ。放課後の校舎。毎日繰り返される学校生活。
でも、湊の中では、まだ終わっていないものが残っています。
会わなくなった時間。
白線の近くに立っていた誰かの記憶。
気づけば探してしまう景色。
そして、ここからは学校側の人間関係も少しずつ動き始めます。
彩音や紬を含めて、“駅だけじゃない日常”が広がっていく章になる予定です。
第1章とは少し空気が変わりますが、変わらず丁寧に積み重ねていけたらと思っています。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
第2章も、よろしくお願いします。




