第30話 いない場所
行かないと決めたわけじゃない。
ただ――行く理由を失っただけだった。
その違いは曖昧で、気づけば体は止まったまま動かなくなっていた。
翌日、バイトが終わる。
レジ締めを終えて裏口を出る。
無意識にスマホを取り出して時間を見る。いつもなら、その時点で帰り道は半分決まっていた。
どの改札を通るか。
何分の電車に乗るか。
ホームのどこへ立つか。
考えるまでもなく体が覚えていたはずなのに、その日は駅へ向かう途中で足が止まった。
「ああ……」
小さく漏れた声で、ようやく気づく。
今から向かえば、まだ間に合う。
それなのに、自分は向かおうとしていなかった。
昨日の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
――来なくていい。
それと。
――ここにいたら、生きたくなるので。
どっちが本音だったのかは分からない。分からないまま、考えること自体を避けるように視線を落とす。
駅前の自販機が白く光っている。その横を制服姿の高校生たちが笑いながら通り過ぎていく。聞き取れない会話だけが遠くで弾み、自分だけがそこから切り離されているような感覚が残った。
「……なんだよ、それ」
昨日と同じ言葉を、また口にしていた。
意味なんてない。ただ、言葉にしないと妙に落ち着かなかった。
結局その日は、いつもより遅い電車で帰った。
ホームへ上がっても奥には行かず、電車が来たらすぐ乗れる位置に立つ。白線から少し離れた、人の流れに紛れやすい場所だった。
わざわざ奥へ行く必要はない。
最初だってそうだった。
あの日は人が多くて、流されるように歩いた先にミアがいただけだ。ただ、それだけのことだった。
「……行かなくていいんだよな」
そう呟いたくせに、頭に浮かぶのはあの場所の景色ばかりだった。
白線の近く。
少し近すぎる距離。
何でもない顔で、そこに立っていたミア。
電車が滑り込み、開いたドアから暖房の匂いが流れてくる。乗り込む人波に押されながら、最後まで視線だけがホームの奥へ残っていた。
次の日も同じだった。
バイト帰り、気づけばホームの奥を探している。
もちろん、行かない。
行って、いなかった時が怖かった。
その感覚を認めた瞬間、喉の奥がひどく重くなる。
三日目の夕方になる頃には、生活のあちこちにミアの残像が入り込んでいた。
動画を流しても内容が頭に入らない。スマホを見ていても、気づけば時間ばかり確認している。コンビニへ寄れば無意識に飲み物の棚へ視線が向き、駅前を歩けばホームへ続く階段を探してしまう。
「……暇だな」
部屋で一人そう呟いてから、違うと思った。
暇なんじゃない。
空いているのだ。
本来そこにあったはずの時間だけが綺麗に抜け落ち、その形だけが妙に残っている。
四日目になると、とうとう名前を呼びそうになった。
コンビニを出た瞬間だった。
「あ――」
喉まで出かけた声を、慌てて飲み込む。
呼んでも意味がない。
そんなことは分かっている。
それでも頭のどこかがまだ、“いる前提”で動いていた。
その事実が、一番厄介だった。
五日目。
今日はバイトが休みだった。
昼過ぎまでベッドに寝転がり、動画を流し、何度もスマホを見て、それでも落ち着かないまま時間だけが過ぎていく。
気づけば立ち上がっていた。
靴を履き、財布をポケットへ入れ、ドアを開ける。
どこへ向かうのかなんて、考えるまでもなかった。
最寄りの駅へ着き、電車に乗る。
「……なにやってんだろ」
遅い。
全部、遅い。
来なくていいと言われた場所だ。終わったはずの場所だ。それでも、あそこに向かっている。
今さら引き返す理由も見つからなかった。
目的地につき、電車を降りる。
心臓の音だけがやけに大きくなる。
ホームへ出た瞬間、視線は勝手に奥へ向いていた。
ミアが、いつも立っていた場所。
立っている気がした。白線の近くで、何でもない顔をしながら、いつもみたいにこちらを見ている気がして、湊は無意識に足を止める。
けれど、どれだけ目を凝らしても、そこにいるのは疲れた顔の会社員やスマホを見下ろしている学生ばかりだった。
乾いた息が漏れる。
分かっていたはずだった。もう来ないのだと、自分でも理解していたはずなのに、視線だけは勝手に人影を探してしまう。
終わったんだから。
頭の中では何度もそう整理しているのに、足だけは止まらなかった。気づけば、ミアがいつも立っていた場所まで歩いている。
白線のすぐ近く。
実際に立ってみると、思っていた以上に距離が近かった。ホーム下から吹き上がる風が足元を揺らし、通過電車の接近音が線路の奥で反響する。そのたびに、人の流れがわずかに後ろへ下がり、また前へ戻っていく。
長く立ち続ける場所じゃない。
ただ電車を待つためだけの場所で、立ち止まり続けるには近すぎる。
それなのに、ミアはいつもここにいた。
何でもない顔で。
「……なんで、こんなとこにいたんだよ」
呟いてみても、返事はない。
当然だった。
もうここにはいない。
それでも実際に同じ場所へ立ってみて、ようやく分かることがある。少しでも気を抜けば、そのまま前へ引っ張られそうな感覚が残るのだ。背中側では絶えず人が動き続け、前には線路しかない。その落ち着かなさの中へ、ミアは毎日自分から立っていた。
ポケットの中で手を握る。
指先は冷えていた。
あの日、通過電車の風を受けながらミアと話していた時と同じ温度だった。
――ここにいたら、生きたくなるので。
ふいに蘇った声へ、湊は小さく息を吐く。
「……逆だろ」
普通なら怖いはずだった。
こんな場所に毎日立つなんて、まともじゃない。
それなのにミアは、泣きそうな顔もせず、助けを求めるわけでもなく、ただ静かにそこへ立っていた。今思えば、あいつは最初からずっと、落ちるかどうかを迷っていたわけじゃない。ただ、“ここにいる理由”だけを探していたのかもしれない。
「……なんで、そんなこと言えたんだよ」
問いかけても、返事は返ってこない。
風だけが吹き抜け、ホームにアナウンスが響く。電車が到着し、人が前へ動き出す。その流れの中に立ちながら、湊だけが取り残されているみたいだった。
それでも、少し待ってしまう。
もしかしたら、また後ろから声がするんじゃないか。
そんなこと、あるわけないのに。
「……来てんじゃん」
自分に向けて呟く。
来なくていいと言われた場所へ、理由もないまま来ている。少し考えて、すぐに答えが出た。
会いたかったのだ。
口にした瞬間、ずいぶん間抜けな答えだと思った。もっと早く気づけただろ、と自分でも思う。それなのに、ここへ来て、いないことを確認して、ようやく認められる程度には、自分は鈍かった。
視線を落とす。
白線。
同じ場所。
けれど隣には、もう誰もいない。
「……帰るか」
今度はちゃんと動けた。
階段を下り、改札を抜ける。外へ出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。駅前では誰かが笑いながら横断歩道を渡っていて、コンビニの自動ドアが短い電子音を鳴らしている。
いつもと変わらない夜だった。
それでも頭の中には、まだあの場所が残っている。
白線の近く。
風の音。
何でもない顔で立っていたミア。
「……また来るか」
小さく呟きながら、湊は夜道を歩き出した。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
一区切りではありますが、湊とミアの時間は、まだ終わっていません。
次から描かれるのは、“ミアがいる時間”ではなく、“ミアがいない時間”です。
ただ、この作品をここまで読んでくれた人が果たしているのか、目に見えないため40話まで書き終わりましたが投稿は30話のここまでにしようか悩んでいます。




