020 -Aono-
律の母親はわざわざ二階にまでは上がってこなかった。しかし、少し冷静になった蒼乃だって、親がいる家でこの先に進むのはまずいと思った。
「ごめん、律。私……つい……」
性欲に負けた。あまりにも彼女が可愛くて、自分色に染めたくて仕方がなかった。
「謝らないで、蒼ちゃん。嫌じゃなかったというか、いろいろ初めてが蒼ちゃんでよかったって思っているから」
蒼乃は短く息を吸って、長く吐いた。
「蒼ちゃんも、初めて、だった?」
遠慮しがちな聞き方に、がっついてしまったことを深く反省する。多分、人間というのは初体験でもどうするべきなのか分かるように出来ているのだ。
「私だって初めてよ。律が初めて。初めての恋人だし、ファーストキスだし……」
言ってて恥ずかしくなって語尾の方がぐにゃりと曲がる。
やっと理性を整えられたところで、律ときちんと向き合う。
「実はね、今日可愛い下着にしてたんだ」
頬を赤らめて律が言う。理性がハンマーでぶん殴られて、外に飛んでいきかけた。
「え、何色?」
頭が狂ってセクハラまがいなことを聞いた。
「…………見る?」
何もしない何もない何も何も何も。
今度は長めに息を吸ってから吐いた。
そして正面切って答える。
「見る……」
のぼせていたんだと思う。心臓が速く動いて蒼乃に警告を出す。無視した。
「どうすればいいかな……。めくる? それとも上から覗く?」
すでに頭は狂っていたので、下からか上からかで蒼乃は真剣に悩んだ。数学の記述問題だってこんなに頭を捻ったことはない。
体操服に着替える時、もちろん不可抗力でだが、律の下着を見たことは一度だけではない。
それとこれとでは話が違う。
恋人が自分のために下着を選んだというのだ。浮き足たたないやつがいるだろうか。
「……めくっていい?」
蒼乃がおそるおそる聞くと、律は照れ笑いをして「どうぞ」と言ってくれた。
めくる前に何色だろうと考える。何となく白かなと予想した。
カットソーの裾を摘む。厚手だった。下着の色が透けないわけだ。
裾を少し上げると律の腹が見える。筋肉がついているわけではないが、ぜい肉がついていないので細い。
「そんなにじっくり見ないでよ……」
「ごめんなさい」
謝ったけど、蒼乃の視線は律の肌に釘付けだった。
カットソーをもう少し上に上げる。肋骨が見えた。痩せているなと思う。ちゃんと食べていることは知っているけど、ちゃんと食べているか不安になる肉付きだった。
あと十センチめくり上げた。
答え合わせの結果、蒼乃の予想は当たっていた。
「はい! おしまい!」
律の手によって無理やりシャットダウンさせられてしまった。
「毎日見せてくれてもいいのだけれど?」
「調子乗らないの。まったくもう」
強めの語尾だけど、怒っている感じはしない。やや気まずさがあるのか、律は蒼乃から視線をそらし、ペットボトルからグラスに残りのジンジャエールを注いでいた。
「律」
「なに」
「愛してる」
横顔に向けて言う。たくさん言いたかったけど、何回言っても足りないと思うから一回に想いを込めた。
律はフリーズしていた。グラスを少し傾けたまま、頭の中で蒼乃の言葉を反芻しているようだった。
「……私も、愛してるよ」
どうせなら録音しておけばよかったと後悔した。
「私、律と恋人になれて本当に嬉しい」
律からグラスを奪い取り、両の手を繋ぐ。
「本当に本当に律が好きだから」
どこにも偽りはない。全て食らい尽くしたいくらいに好きだった。その想いを分かってほしくて、指先に力が入る。それに応えるように律の指にも力が入る。
「大丈夫だよ。私も蒼ちゃんのこと大好きだから」
律の手が離れて一瞬蒼乃は不安に陥るが、すぐに抱き締められたので払拭される。律の匂いがする。さっき布団からは感じ取れなかった香りだ。
「今度はどこにデート行こっか?」
しっかりと抱き締めたまま律が言う。
「律の行きたいところでいいわよ。あ、でももうすぐテストよね」
蒼乃は十月のカレンダーを頭に浮かべる。来週の三連休だと、試験十日前。微妙なラインだった。でも会いたい。三日も律に会えないなんて困る。
「テストかー」
律が声を低くしながら、ごそごそ体勢を変えていく。最終的に蒼乃の脚の間に収まった。蒼乃は遠慮なく後ろから抱き締めることにした。
「確かにテスト前だと遠出するの罪悪感あるよね……」
蒼乃にとってそのくらいの罪悪感は大したものでなかったが、律が気にしそうだったので「そうね」と答えておく。
「ちょびっとだけお出かけしよ。カラオケかボウリングとか」
カラオケ、閉鎖的な空間で律と二人だけなんて何もしないでいられる自信が蒼乃にはない。
「でもやっぱり勉強した方がいいか……」
八重樫から特別課題を出されたことをまだ気にしているらしかった。
「それなら図書館かどこかのカフェで一緒に勉強しましょ。ボウリングとかはいつでも行けるし」
どうせなら美味しいものが食べられるカフェがいいと話の方向性が決まる。場所も今日蒼乃が乗り換えで使った駅周辺。長く居座っても文句の言われないところを選ぶ。
「ねぇ、蒼ちゃん」
スマホのカレンダーにデートを登録しながら、律が言う。何かを思い出したらしかった。
「その日さ、少し買い物も付き合ってもらっていい?」
「もちろんいいけど。何を買うの?」
「お姉ちゃんの誕生日プレゼント。今カレンダーを見て思い出したの」
シスコンである律の姉は、蒼乃にとって恋敵にも等しい存在であったが律のお願いを断る理由にはならない。
「去年、お姉ちゃんの誕生日忘れててさ。いや、忘れてた私が悪いんだけど……めちゃくちゃ泣かれて。……お姉ちゃんも受験で精神病んでたんだろうけど、すごい泣かれたの。こっちがトラウマになるレベル」
そこまで妹を可愛がれる気持ちが、同じ姉の立場である蒼乃には分からない。可愛くないとは思わないが、プレゼントを贈り合う仲ではない。
「今年もさ、彼氏いるのに誕生日の夜はうちで過ごすんだって。テスト前なのに勘弁してほしいよ」
律の頭部がぐりぐりと蒼乃の顎に押される。いい匂いが漂ってくる。さらさらの髪がくすぐったい。
「蒼ちゃんは妹の誕生日に何かあげてるの?」
「いいえ。うちは特にそういうのしないわね」
「そっかー」
「ちなみに律は誕生日にお姉さんから何をもらったの?」
律の誕生日は五月だ。五月三日。
蒼乃と律がまたここまで仲良くなる前のことなので、プレゼントをあげられていない。
「えっとね、靴を買ってもらったよ。一緒に買いに行ったの」
「律」
今日何度目だろう、彼女の名前を呼ぶのは。
「来年の五月三日。私とデートってカレンダーに登録しておいて」
律を抱き締める力を強める。
彼女はすぐにカレンダーに登録して、スマホの画面を見せてくれた。
「……ごめんなさい。私って重いわよね」
「そんなことないよ。普通に一緒に出かけると思ってたし。あ、クリスマスはどうする? もう冬休みは入ってるよね」
「デートしたい」
「じゃあ予定ちゃんと入れとくね。ほら」
そのカレンダー全てを蒼乃の名前で埋めてしまいたかった。
「クリスマスにデートするためには、律が赤点を回避しないといけないわね」
「やめてよ。縁起でもない……」
期末テストの方が教科数は多くなる。律には何としても頑張ってもらいたい。
「そうそう、おすすめデート先をまとめた動画をこの前見つけたの。一緒に観よう」
十月だというのに冷房の効いた部屋で、密着しながら一つの画面を観る。
控えめに言って、幸せで死にそうだった。




