番外編 リュシーの幸せ
魔王城から帰還して半年。
リュシーは、生きていた。
正確には――生かされていた。
「……お願い」
王城の一室。
窓から差し込む朝の光を眺めながら、リュシーは掠れた声で呟いた。
「もう……殺して」
ベッドの上に横たわる彼女には、かつての面影がほとんど残っていなかった。
ブレイドドラゴンのブレスによって、両手足を失った。
顔の半分は皮膚が焼け落ち、その下にある骨まで大きく損傷していた。
蘇生魔法によって命だけは取り戻した。
けれど、失われたものまで元通りになるわけではなかった。
魔法で作られた義手や義足なら、時間をかければ用意できる。
しかし、顔だけは違った。
鏡を見ることすらできない。
「……どうして」
リュシーは震える。
「どうして私を生き返らせたの……?」
答える者はいない。
彼女を蘇生した神官たちは、命を救ったことを喜んでいた。
レオンも、仲間が生き返ったことを喜んでいた。
けれど。
リュシーにとって、それは救いではなかった。
「魔王討伐に行く前は……」
声が震える。
「魔法学院で一番だった」
「セルジュと婚約して……」
「卒業したら、一緒に暮らして……」
「子供も……」
そこで言葉が途切れる。
「……全部、なくなった」
リュシーは顔を覆おうとして――その手がないことを思い出した。
残された肩が、小さく震える。
「こんな身体で……どうやって生きろっていうの……?」
扉の外で、その声を聞いていた男がいた。
セルジュだった。
元第四王子。現在は、レオンに王位を任せて公爵位を授けられている。
そして、リュシーの婚約者。
セルジュは拳を握り締めた。
何度聞いても慣れない。
「殺して」
その言葉を聞くたびに、胸を抉られる。
けれど。
「……嫌だ」
セルジュは扉を開けた。
リュシーが顔を向ける。
「……セルジュ」
「今日も来た」
「来なくていい」
「嫌だ」
「私を見ないで」
「それも嫌だ」
リュシーの目から涙が流れた。
「どうして……」
セルジュはベッドの横に椅子を置き、そこに腰掛ける。
「君が僕の婚約者だから」
「こんな姿でも?」
「こんな姿でも」
「顔も、こんななのに?」
「顔だけで君を好きになったわけじゃない」
「手も足もない」
「知ってる」
「もう普通に歩けない」
「俺が歩かせる」
「魔法も……今までみたいには……」
「君はまだ魔法使いだ」
「……」
セルジュは、静かに笑った。
「だから、俺は諦めていない」
「何を……?」
「君を元に戻すことを」
リュシーは首を横に振った。
「無理よ」
「どうして?」
「失われたものは戻らない」
「なら、作ればいい」
「……え?」
セルジュは立ち上がった。
「戻せないなら、新しく作る」
その日から。
セルジュの生活は変わった。
公爵としての仕事。
王侯貴族との会議。
外交。
そういったものの合間を縫って、彼は王立魔法研究院へ通い始めた。
最初は誰も相手にしなかった。
「殿下。人間の皮膚を完全に再現する魔法など存在しません」
「なら作れ」
「……は?」
「存在しないなら、作ればいい」
研究者たちは困惑した。
「魔力を通す皮膚を作るには、極めて高度な術式が必要です」
「術式を用意する」
「生体組織との拒絶反応が――」
「解決しろ」
「頭蓋骨まで失われています。そこまで再構築するとなれば――」
「俺が必要な素材を集める」
研究者たちは顔を見合わせた。
やがて、一人の老魔導士がため息をついた。
「……殿下」
「なんだ?」
「あなたは、本気なのですか?」
セルジュは即答した。
「当たり前だ」
「たとえ何年かかっても?」
「ああ」
「何十年かかっても?」
「それでもいい」
「完成する保証もありません」
セルジュはしばらく黙った。
そして。
「それでもいい」
静かに答えた。
「彼女が生きることを諦めてしまう前に、俺は何かをしたい」
◆
最初に作られたのは、頭蓋骨だった。
人間の骨に近い強度を持ちながら、魔力を通す特殊な素材。
魔獣の骨。
ミスリル。
魔力結晶。
そして、リュシー自身の魔力を凝縮した結晶。
それらを組み合わせて作られた。
完成までに半年。
しかし。
「……これでは駄目だ」
セルジュは試作品を見つめた。
「重すぎる」
「はい」
「彼女の首に負担がかかる」
「その通りです」
「作り直してくれ」
「ですが、殿下――」
「作り直してくれ」
何度も。
何度も。
失敗した。
そして七度目。
「……完成しました」
老魔導士が震える声で告げた。
そこには、人間の頭蓋骨によく似た白い骨格があった。
しかし普通の骨ではない。
淡い光を放ち、魔力が流れている。
「魔法骨格です」
「これなら?」
「理論上は、彼女の頭部を支えられます」
セルジュはそれを手に取った。
「……ありがとう」
「殿下」
老魔導士が呼び止める。
「次は皮膚です」
セルジュは頷いた。
「分かっている」
◆
皮膚の研究は、さらに難航した。
ただ人間の肌に似ていればいいわけではない。
魔力を通さなければならない。
温度を感じなければならない。
傷つけば再生しなければならない。
そして何より。
「……彼女が、自分の顔だと思えるものにしてくれ」
セルジュはそう頼んだ。
「ただの仮面では駄目だ」
研究者たちは答えを探した。
一年。
二年。
試作品は何度も失敗した。
硬すぎる。
柔らかすぎる。
魔力を通しすぎる。
感覚がない。
色が合わない。
髪の毛が生えない。
涙が流せない。
笑うと不自然になる。
どれも、リュシーの顔にはならなかった。
その間にも。
リュシーは少しずつ心を閉ざしていった。
セルジュが部屋を訪れても、以前ほど話さなくなった。
「今日は研究院で新しい素材を――」
「……もういいよ」
「リュシー?」
「もう、諦めて」
セルジュは黙った。
「セルジュ」
「うん」
「私のために頑張らなくていい」
「嫌だ」
「私はもう、昔の私には戻れない」
「分かっている」
「だったら……」
リュシーは涙を流した。
「どうして?」
セルジュは答えなかった。
代わりに、彼女のそばに座った。
「俺は、君を昔の君に戻したいわけじゃない」
「……え?」
「俺が欲しいのは、今の君が生きていける身体だ」
リュシーは黙った。
「君が笑える身体」
「……」
「鏡を見ても、怯えなくて済む身体」
「……」
「自分で歩ける身体」
「……」
「そして」
セルジュは彼女を見つめた。
「君が、明日も生きてみようと思える身体だ」
リュシーの目から、また涙が落ちた。
「……そんなの」
「無理だと思う?」
「……うん」
「じゃあ、俺が証明する」
◆
三年目。
ついに完成した。
「……できた」
研究室にいた全員が息を呑んだ。
そこにあったのは、淡い肌色をした魔法皮膚だった。
見た目は普通の人間の皮膚と変わらない。
触れれば柔らかい。
温度を感じる。
魔力を流せば血色まで変化する。
そして。
「……再生します」
小さな傷をつける。
数秒。
傷が消えた。
老魔導士は震えながら笑った。
「成功です」
セルジュは、何も言わなかった。
ただ。
目を閉じた。
三年間。
彼がずっと待っていた瞬間だった。
◆
手術の日。
リュシーは震えていた。
「怖い」
「うん」
「失敗したら?」
「何度でもやり直す」
「痛い?」
「眠っている間に終わる」
「……セルジュ」
「うん?」
「目が覚めたら……そこにいて」
セルジュは彼女の肩に触れた。
「ずっといる」
魔法が始まった。
失われた頭蓋骨を魔法骨格へ置き換える。
その上から、人工的に作られた魔法皮膚を慎重に張り付けていく。
魔力の流れを繋ぐ。
神経を繋ぐ。
感覚を繋ぐ。
そして最後に。
彼女自身の魔力を流し込む。
光が部屋を満たした。
◆
「……リュシー」
セルジュの声。
ゆっくりと、リュシーが目を開いた。
「……セルジュ?」
「うん」
「終わった?」
「ああ」
「……顔は?」
セルジュは鏡を手渡した。
リュシーは震える手――正確には、魔法で作られた新しい手――で鏡を受け取った。
そして。
息を呑んだ。
そこに映っていたのは。
かつての自分と完全に同じではない。
けれど。
確かに、自分だった。
頬。
唇。
瞳。
髪。
失われた部分を、魔法が新しく作り直している。
「……私?」
「ああ」
「これ……私なの?」
「俺には、リュシーにしか見えない」
リュシーは鏡を落とした。
そして。
「……うっ」
泣いた。
声を上げて。
子供のように。
「うあぁ……!」
セルジュは何も言わず、彼女を抱きしめた。
「……生きてていいの?」
「もちろん」
「私……生きてもいい?」
「ああ」
「……死ななくてもいい?」
セルジュは強く抱きしめた。
「死ななくていい」
リュシーは彼の胸に顔を埋めた。
「……怖かった」
「うん」
「ずっと怖かった」
「うん」
「鏡を見るのが怖かった」
「うん」
「誰かに見られるのが怖かった」
「うん」
「セルジュに嫌われるのが、一番怖かった……」
セルジュは彼女の髪を撫でた。
「俺は一度も君を嫌いになっていない」
「……本当に?」
「ああ」
「こんな身体でも?」
「君がどんな身体でも」
「顔も違うのに?」
「君の目を見れば分かる」
「……何が?」
「君はリュシーだ」
リュシーは泣きながら笑った。
「……ずるい」
「何が?」
「そんなこと言われたら……死ねないじゃない」
セルジュも、少しだけ笑った。
「それでいい」
◆
それから、リュシーは少しずつ歩く練習を始めた。
魔法義足。
魔法義手。
そして、魔法皮膚。
すべてを繋ぎ合わせた身体は、以前とは違う。
けれど。
一歩。
また一歩。
「……歩けた」
リュシーが呟く。
「歩けた!」
セルジュが笑う。
「見てた?」
「ああ」
「ちゃんと?」
「最初から最後まで」
リュシーは嬉しそうに笑った。
「もう一回やる!」
「もちろん」
その姿を見ていた老魔導士は、静かに目元を拭った。
三年前。
彼女は死を望んでいた。
今。
彼女はもう一度、歩こうとしている。
それだけで十分だった。
◆
数ヶ月後。
王城の庭園。
リュシーは花を見ていた。
以前なら当たり前だった光景。
今は何もかもが新鮮だった。
隣にはセルジュがいる。
「セルジュ」
「ん?」
「私ね」
「うん」
「まだ、怖い時がある」
「そうか」
「夜になると、あの時のことを思い出す」
「……うん」
「自分が死んだ方がいいんじゃないかって思うこともある」
セルジュは何も言わず、彼女の手を握った。
「でも」
リュシーは空を見上げた。
「最近は、思うの」
「何を?」
「明日も見てみたいって」
セルジュが笑った。
「それで十分だ」
「うん」
リュシーも笑う。
「ねえ、セルジュ」
「何?」
「私たちの婚約……」
セルジュの表情が固まる。
「……まさか」
「破棄する?」
「いや」
リュシーは小さく笑った。
「続けたい」
セルジュは目を見開いた。
「本当に?」
「うん」
「後悔しない?」
「しない」
「……そうか」
セルジュは彼女の手を握り直した。
「じゃあ、俺も一つ約束する」
「何?」
「君が生きることを諦めそうになったら、何度でも俺が引き戻す」
「……うん」
「君が自分を嫌いになったら、俺が君の好きなところを全部教える」
「うん」
「そして」
セルジュは微笑んだ。
「いつか、君が自分の人生を幸せだったと言える日まで、隣にいる」
リュシーは目を細めた。
「……そんなに長く?」
「嫌か?」
「ううん」
彼女はセルジュの手を握った。
「むしろ……長すぎるくらいがいい」
二人の間を、暖かな風が通り抜ける。
魔王討伐の旅で失ったものは、二度と戻らない。
かつての身体も。
かつての日々も。
あの頃の自分も。
完全に取り戻すことなどできない。
それでも。
失ったものの代わりに、新しく得られるものはある。
魔法で作られた皮膚。
魔法で作られた骨。
魔法で作られた手足。
そして――。
壊れかけた心を支えてくれる、一人の人間。
リュシーは空を見上げた。
あの日、魔王城で見た空は、炎と煙に覆われていた。
けれど今は違う。
青い空が広がっている。
「……生きてみようかな」
小さく呟く。
セルジュは答えなかった。
ただ、隣で笑っていた。
それだけで。
リュシーはもう一度、歩き出すことができた。




