#6 「ひょっとして覚えてないんですか?」
憂鬱だった気持ちに対して自分なりに納得して受け入れたことが幸いしたのか、サクラコの目覚めは爽快と言って差し支えのないものだった。
それこそが1日の切り替わりという概念がもたらした恩恵なのだと思えば、巨大な電球とそれを維持する膨大な電力によって再現された巨大な建造物に対してのありがたみも分かるというものである。
これからも続けていくしかない人生に対して、少しでも前向きに向き合える切っ掛けになり得ると言うのであれば、嫌なことからほんの僅かにでも目を背けることの出来る方便もまた必要なのだ。
強がりと痩せ我慢、そしてほんの少しの将来への希望を胸に、サクラコはこの朝を清々しい思い出迎え入れることを決めたのである。
布団を畳んで身支度を整え、窓を開け放って外を見渡せば、広がるのはいつもと同じ見晴らしの良くない住宅街の町並みだった。
新鮮さの欠片も無い光景にはこの際目を瞑りながら、深呼吸して気を取り直しつつ改めて外へ視線を向けると、早朝の庭先に人の気配を感じ取る。
既視感を覚えながら見てみれば、つい昨夜に見かけた日雇い労働者が大家に命じられるままに手入れを行った庭先の花壇の前に立ち尽くす男の姿があった。
アサミヤ=ジロウである。
既に外出の支度は整えているようで、昨夜の暗がりでは判断できないような作業の不備が無いかを確認しに来た様子だった。
相変わらず真面目を絵に描いたような性格を思わせる行動には、サクラコも苦笑するしかない。
その気配を感じ取ったのか、ジロウは彼女の方へと向き直り、いつものように驚いた様子で言葉を詰まらせた。
眠気を引き摺っている様子は見受けられなかったが、その表情から若干の困惑を感じ取ると同時に、何事かを思い出そうとしているように見えたのは気のせいではないだろう。
「あぁ、おはよう。えぇと……大家さんとこの」
「……アサミヤさん、ひょっとして私の名前覚えてないんですか?」
そんなことはない、と慌てて取り繕うように返事をするアサミヤの言葉を、素直に受け取ることの出来る道理は無かった。
こちらはちゃんと名前を憶えているのに向こうが覚えていないとは何事か、という苛立ちと、そう言えば自分からちゃんと名乗ったことってあったっけ、という疑問が同時に浮かび上がり、サクラコは咄嗟に返す言葉を見失う。
結果、理不尽とは思いつつも無性に腹立たしい思いの方が強かったので、ありとあらゆる不満を全部乗せしたような不機嫌の極みを率直に表現した視線によってジロウを睨み付けた。
そして、冷や汗を垂らしながら取り繕おうとする彼の反応にほんの少しだけ溜飲を下げながら、彼女の新しい1日は始まりを告げたのである。




