75:追憶・死した男
――記憶に残る場所は、いつでも薄暗い路地裏だった。
白い剣を手にし、埋め尽くすかのように弾けた記憶の中、カインの印象に残ったのはそんな場所だ。
全てが始まり、そして全てが終わった場所。
カインにとって、そこで得られ、失ったものはあまりにも多かったのだ。
親というものに関する記憶は、非常に希薄であった。
カインとて人の子だ。人間の男女から生まれ、育った事に変わりはない。
だが、その環境はあまりにも劣悪だった。テッサリアの下層という最悪の環境に生まれ、無事に育てる子供など十人に一人としていない。
いっそ、魔物や盗賊に襲われる危険を冒してでも他の街へと逃げた方が、まだ可能性があると言うほどであった。
そして、カインの両親は、そんな覚悟も持てぬ程度には、テッサリアと言う街に慣れ切ってしまった人間だったのだ。
元より、両親とも子供を労働力としか見ていないような人間であり、愛情など終ぞ注がれた記憶はない。
それ故に、カインにとって、両親とは非常に希薄な存在であった。
そのような存在がいたという事だけを記憶しており、その顔も名前も、声や姿も全て忘れ去ってしまっている。
それは、こうして記憶が蘇ってきている現状ですら、同じであった。
けれど――
「……俺は、違う」
薄暗い路地、重い体を引きずるようにして歩きながら、幼き日のカインは呟く。
一つだけ、カインは両親に対する印象を持っていた。
それは、彼らがカインの事を気味悪がっている、という事だ。
カインは産まれた時から、特殊な力を持ち合わせていた。
自分自身の傷を癒す力――どのような損傷を受けようとも、一晩経てば回復してしまう、特異な能力だ。
擦り傷も、切り傷も、殴られ蹴られ受けた痣も、一晩経てば何事もなかったかのように消えてしまう。
両手両足をへし折られ、部屋の隅に転がされていた時でさえ、体調一つ崩す事無くカインは元通りに戻っていたのだ。
そんな特殊な力を持つカインの事を、両親はとにかく気味悪く感じていた。
もしも彼らが、そんなカインに対して愛情を抱けるような人間であれば、全ては変わっていただろう。
或いは、例え気味悪く感じていたとしても、その特殊な力を上手く利用できるだけの度量を持つ者であったなら、彼らは成功していた筈だ。
カインを依存させ、その凄まじい治癒能力を利用する事が出来れば、例えテッサリアの下層であったとしても、うまく生活する事が可能だったかもしれない。
しかし、彼らにそんな度量は無かったのだ。
彼らは特殊な力を持つカインを、ただ気味の悪い存在として遠ざけていた。
「……俺は、誰とも違う」
肉親としての情など、欠片として存在しない。
己を遠ざける両親に対して、カインは何かを感じた事もないし、彼らの事をどうこう考えた事も無い。
ただ、空虚な間柄でしかなかった。肉親という言葉だけで繋がった関係――愛情どころか、『愛』と言う言葉すら、カインは知らなかったのだ。
「……俺は、化け物」
話しかければ、そう罵倒されて空の酒瓶を投げつけられる。
例えそれで大怪我をしたとしても、一晩経てば傷は消えているのだ。
両親もそれを問題だとは思わなかったし、カイン自身も特に何を感じるでもなかった。
ただ、空虚なだけだったのだ。故に、そんな関係が長続きしないのも、当然の事であっただろう。
ある日、カインは住んでいる家を追い出されていた。
両親は適当な理由を口にしながらカインを罵倒していたが、本当は理由など何でも良かったのだろう。
彼らは、カインの事を恐れていた――ただ、それだけの事なのだ。
何をしても元通りに再生し、死ぬような傷でさえ何事も無かったかのように起き上がる。
そんなカインが、いつか自分達に牙を剥いたら――と、そう考えてしまったのだろう。
――カインにとっては、どうでもよい事であった。
「俺は――」
両親が何を考えていたとしても、カインは何も感じない。
元より、血以外には何も繋がりなどない間柄だったのだ。
例え捨てられたとしても、そこに何の感情も無い。カインはただ、事実を淡々と受け入れるのみ。
――ただただ、空虚だった。それを、目にするまでは――
薄暗い道の端、座り込んだまま動かぬ人間。
その姿に、カインは言い知れぬ感情を覚えていたのだ。
産まれてから十数年、感情の揺れなど、物心ついてから一度としてなかったというのに。
その死体を目にするまで、一度も。
「……なぜ」
それは、純粋なる疑問であった。
何故この男は、こんなにも満足そうな笑顔で死んでいるのだろうか。
そして何故、その姿はこんなにも眩く映るのだろうか。
大して言葉も覚えていないカインには、その姿を形容するための言葉がなかった。
けれど、もしそれを表現するとするならば――『美しい』という言葉が、最も適切であっただろう。
テッサリアの下層に生きるカインにとって、死体など日常的に見慣れたものであった。
適当に周囲を見渡せば、死んだ人間などいくらでも目に入る。
疫病を防ぐため、死体の処理だけは上層が給金を出しており、死体を引きずって歩く人間の姿を見る事も少なくは無いだろう。
しかし、そんな死体たちは、皆苦悶や無念を顔に浮かべたものばかりだったのだ。
満足そうな死に様など、一つとして存在しない。この地獄のような世界では、それが当たり前の事なのだ。
だと言うのに――
「……なんで、お前は」
そんなに満足そうなのだ、と――まるで眠るように事切れている男に、カインはそう問いかける。
この死体も、いずれ金目当ての人間に持ち去られる事だろう。
上層と関わる事を恐れない者がやってくれば、いずれこの場から消え去ってしまう。
――それが惜しいと、カインは感じていた。
「……」
そして何を思ったか、カインはその死体を背中に背負い、上層の外壁へと向かって歩き出していた。
死体運びの仕事は、以前も行った事がある。それ故、何処に運び込めば良いかも分かっていたのだ。
どうした所で、この死体は片付けられる。放置しておけば病が広がるのだから、当然の事だ。
例え上層と下層が切り離されていると言っても、その遮断は完全なものではない。
もしも下層で疫病が広まれば、上層とてただでは済まないのだ。故に、死体の処理に関しては徹底されている。
この死体も、例外ではない。
――ならば、自分自身の手で弔おう。
何故、そんな想いが生まれたのかは、カイン自身にも分からない。
けれど、あらゆる全てを持たないカインにとって、その思いだけがすべてだったのだ。
少年の力では、成人男性の体重はあまりにも重すぎる。
しかしそれでも、カインはまったく気にすることもなく、重い体を引きずるようにしながら死体処理場へと向かっていったのだった。
「どうして、そんなに……満足そうに、していられる」
荒い息を吐きながらうわごとのように呟くのは、男に対する疑問の言葉。
救いなど何も無い、ただ奪われるばかりのこの世界で、事実奪われ終わってしまったはずの男が、何故こんなにも満足そうなのか。
他の人間に比べれば、生きる事に関しては遥かに楽な自身は、一度も充足など感じたことは無いと言うのに。
何故お前は、そんなにも満足そうに死んでいるのか――カインを満たすのは、その疑問だけだ。
故に、カインは重さなどまるで考慮していなかった。幼い体の少ない体力も、疑問に満たされた今のカインには考慮の外だ。
そもそも、その頑丈さゆえに、自分自身を労わったり省みた事など一度としてなかったのだが。
年若い子供が、大人の男の死体を背負って歩く。
それだけでもかなり異様な光景であったが、声をかけてくる者は皆無だった。
わざわざ運んでいる死体を奪わなければならないほど、死体を拾うのに困るわけではない。
その上、カインの特殊な体質は、下層の人間達の間にも知れ渡っていたのだ。
ちょっとやそっと痛めつけた程度では、まるで意に介する事もないため、奪うにも少々手間が掛かる。
そんなものの相手をするぐらいなら、他の死体を探したほうがマシだろう――カインは、周囲からそう認識されていたのだ。
その為、カインは何者にも邪魔されることなく、死体処理場へと辿り着いていた。
死体処理場は、下層のほぼ全域から死体が集められる、一種の共同墓地のようなものだ。
とはいえ、下層の人間がまともに弔われるはずも無い。
集められた死体は、ただ纏めて火にくべられ、灰になるまで焼き尽くされるだけなのだ。
その為、死体処理場には、いつも絶える事のない火と煙が上がっている。
それを目印に進んできたカインは、収集を担当している人間の元へゆっくりと進んで行った。
そんなカインの姿に、担当官も気付き目を見開く。
「おいおい、ガキの癖に随分と頑張ってるじゃねぇか。ほら、こっち寄越せ」
その言葉に、息を切らせていたカインは、ゆっくりと顔を上げていた。
カインに対し、どちらかと言えば友好的な態度で接してきたこの男は、上層の人間ではないだろう。
上層の人間は、下層の人間の死体に触る事など、汚らわしい行為であると考えている者が多い。
その為、下層の人間を雇い、死体処理の仕事を行わせているのだ。
労働環境はお世辞にも良いとは言えないだろうが、給金が払われているだけマシだろう。
男はカインに近付き、背負っている死体を持ち上げる。
その身体を見て、男は訝しげに眉根を寄せていた。
「おいおい、ガキ。お前、コイツの持ち物剥ぎ取らなくていいのかよ? 貰っちまうぞ?」
「……別に、構わない」
死体の持ち物は、運んできた者が持ち去っても良い――尤も死体の持ち物など、道端に転がっている時点で奪い尽くされているのが普通だが。
しかし、この男の死体は、いくつかの持ち物がまだ残っていたのだ。
二束三文とはいえ、金にはなる。だが、カインはそんな者に頓着してはいなかった。
気になるのは、たった一つの事だけだ。
「それより、教えてくれ」
「あ、何だよ?」
「何でコイツは、こんなにも満足そうな顔をしている?」
死体の顔を覗き込み、カインはそう問いかけていた。
何かを知りたいと思った事は、これが初めてで――それを聞くことができる相手も、カインには一人としていなかった。
だからこそ、これはいい機会だったのだろう。
多少なりとも友好的に話しかけてくれる人間がいた事は、カインにとって幸運な出来事であった。
しかし、そんなカインの問いに対し、男は困惑した表情を見せる。
「ああ? 俺が知る訳ないだろうがよ、そんなもん」
「……理由は、思いつかないか?」
「さぁな、俺の知った事じゃない」
「……本当に、何も無いのか」
じっと男の顔を見上げ、カインはただそう問いかける。
次第に面倒くさそうな表情へと変化してきていた男は、厄介な相手に捕まったと嘆息を零しながら、死体を抱え上げて踵を返していた。
「だから、俺が知るかってんだ。単に満足して死んだだけなんだろうよ」
「満足……? 死ぬのに、満足するのか」
「死ぬ事なんて人それぞれだろ。何か意味のある死に方だったって事だろうよ。目的を果たすなり、女を守るなり……それこそ、この男にでも聞いてみなきゃ分からん! 分かったな、もう変な事聞いてくんじゃねぇぞ!」
そう言い捨てると、男は一度カインの事を睨み据え、そのまま死体処理場の中へと去っていった。
比較的話の分かる相手であったが、所詮そんなものだろう――男の態度など、カインはまるで気にしていなかった。
それよりも、カインが反芻していたのはたった一つ、男が口にした言葉だけであった。
「意味のある、死に方……」
それは、カインにとって全く新しい概念であった。
死とは、ただ無意味な終わりでしかなかった筈なのに――意味のある死を迎えた男は、あんなにも輝いていたのだ。
意味のある死とは何なのか。カインの思考を埋め尽くすのはただその疑問だけであり、生活のあても無いはずの少年は、ただその疑問の答えのみを考え続けていたのだった。




