74:遠き記憶
自然と進む足に、戸惑いを覚えていたのは他でもないカイン自身であった。
曖昧で、具体性などまるでない記憶の数々。
むしろ知識とでも呼ぶべきであったそれらが、徐々に実像を結び始めていたのだ。
原形などとどめていない廃墟の中でさえ、そこにかつて何があったのかが思い浮かぶ。
おぼろげであったそれらは――確かに、カインの眼前に広がっていた。
「あの角には……酒場が、あった」
柄の悪い人間がたむろしている場所であり、テッサリアの下層において、店を営む人間に必要な才能は、何よりも腕っ節であった。
けれども、幼い子供がこの待ちで生き延びるには、そんな者たちから盗みを働くしかない。
もしも見つかれば、私刑に遭うか殺されるかのどちらかであっただろう。
カインの場合、例えどれほど痛めつけられたとしても、持ち前の生命力で死ぬ事は叶わなかったのだが。
「ああ、一度や二度じゃなかったな……殴られて、蹴られて……それでも、死ななかった」
夢遊病患者のようにぼんやりとした調子のまま、カインはぶつぶつと呟きながら歩く。
いつもと違い隙だらけな姿であったが、生憎とこの周辺に敵の姿は存在していなかった。
リーゼファラスたちは、カインの様子に困惑しながらも、周囲の警戒を絶やさぬようにしながら彼の後に続いて歩く。
見渡す限りの廃墟の街。雑然とした世界の中――確かに、人々の生きた痕跡が存在していた。
「……分かってはいたけど、かなりの人数が死んでいるみたいね」
「まず襲われたのは下層だったでしょうからね。上層の方へ逃げようとしても、門は閉じられていて入り込めない。結果的に、自ら逃げ場を無くしていたのですから、愚かとしか言えませんが」
「手を取り合っていれば、まだ何とかなっていたかもしれない、って事ですか」
「まあ、テッサリアの人間には到底無理だったでしょうがね」
互いにいがみ合っていた上層と下層の人間同士だ。
例え緊急時であったとしても、協力し合う事など不可能であっただろう。
準備が無い状態で襲われた時点で、テッサリアが滅ぶ事は確定事項であった。
「しかし、カインはどうやって逃げ延びたのかしらね?」
「え? あの能力があるなら、生き残るのも難しくないと思いますけど」
「生き延びるだけなら、確かにそうね。けれど、逃げるのはそれとはまた別問題だと思うのよ。例えその場で復活できたとしても、魔物の群れの中を抜けて逃げるのは至難の業のはずよ。ましてや、当時のカインは戦場を渡り歩いた歴戦の兵士と言う訳でもないのだし……」
テッサリアが崩壊した時点でのカインが、どの程度力を使いこなせていたのか。
今現在彼がここにいる時点で、逃げ延びる事には成功しているのだろう。
しかし、本人の記憶が無いために、一体どのようにして包囲網を抜け出したのかは分からない。
どこかに抜け道があったのか、或いはその時点で能力を使いこなし、魔物を殲滅しながら進んだのか。
今の所、それは定かではない。
「あ、カイン様、曲がりましたよ」
「見失わないようにして下さい。一応、脈はありそうなのですから」
「リーゼ様なら遠くからでも気配探れると思いますけど……」
迷う様子も無く歩いていくカインの背中を追い、リーゼファラスは僅かに視線を細める。
彼がここまで極端な反応を見せることは予想外であったのだが、これは都合のいい展開であると言えた。
手がかりも無い状態で闇雲に探し回るより、遥かに効率的だろう。
テッサリアに足を踏み入れた瞬間に思い出してくれるのが最も都合のいい展開であったが、今の状況はその次に都合がいいと言える。
けれど同時に、リーゼファラスはある一つの疑問を抱いていた。
(ここまで直感で動けるほどの感覚が残っているのに、肝心の記憶が戻った様子は無い……ここまで強固な忘却は、流石に不自然ですね)
まるで、重要なエピソードだけがごっそりと抜け落ちてしまっているかのように、カインの記憶喪失は少々不自然な状態であった。
元々謎に包まれているような男であったが、ここに来てその傾向が更に顕著になっている。
カインが持つ不死の力の源泉、それが一体何なのか。謎に包まれたその真実へと一歩ずつ近寄る感覚に、リーゼファラスは若干の高揚を自覚していた。
そして、同時に――
(それに、この都市は何か変だ)
ちらりと、リーゼファラスは道端や生き残っている建物の中へと視線を向ける。
崩れた瓦礫などで雑然としているものの、あると予測されるものを探す事は難しくない。
けれど、リーゼファラスがあると予想していたものは、どこにも欠片として落ちていなかったのだ。
(人骨が、全く見当たらない……外にあって風化してしまった? 確かに、それなりの時間が経っていますが……それに、室内でも見当たらない。死体すら残さず喰い散らかされたのか……いえ、奴らの目的が捕食ではない以上、手足ぐらいは切り落とされて残っているはず)
《奈落の渦》の魔物達は、あくまでも人々の魂を喰らう事を目的としている。
肉体を破壊する事は魂を奪う手段であるため、それ自体を餌として喰らっている訳ではないのだ。
その為、手足の先まで全て喰らい尽くされるなどと言う事はありえない。
しかし、それでも人々の死体は転がっていないのだ。
(一体、何があったというのですか、ジュピター様……私はここで、何を見るべきなのでしょうか)
ジュピターへと問いかけながら、リーゼファラスはカインの背中を見つめる。
彼は時折立ち止まりながらどこかを見つめているが、その視線の先にあるのは廃墟だけだ。
そこに何があったのかなど、リーゼファラスが知る由も無い。
「……」
けれど、カインに声をかける事は躊躇われた。
今のカインの様子は、明らかに普段とは違っている。かつての記憶をなぞっているのか、その内心は誰にも推し量る事はできないが――
(今正気に戻してしまって、記憶を追えなくなってしまっては意味が無い……結局、待つしか道はない訳ですか)
人の領域を超えてからは、滅多に感じることの無かった歯がゆい感情。
若干懐かしくすら感じるそれに浸りながら、リーゼファラスはただ、カインの動向に注目し続けていた。
普段ならば他人の視線に、意識を向けられている気配にいち早く気付くであろう男は、生憎と反応を見せる事は無い。
今のカインは、敵が近くにまで寄ってこない限り、反応を見せる事は無いだろう。
下手をすれば、片腕を食い千切られるまで気付かないかもしれない。尤も、それでダメージを受けるような存在ではないが。
「そう……あそこにはいつも呑んだくれていた奴が……良く分からん婆は、あっちの角に……」
己の口から零れている呟きに気付いているのかいないのか、カインはうわごとのように声を発しながら、ゆっくりと進んでゆく。
脳裏に浮かび上がる、知識としてのテッサリアの記憶。
そして、実際にそこを歩いていた己を主観とした記憶。
徐々に結びつきつつある二つの記憶の中――そこを時折よぎる、一人の白い女性の影があった。
瞬間――
「っ、カイン!?」
――カインは、全力で廃墟の道を駆け出していた。
* * * * *
『――貴方、ストリートチルドレンやってたくせに、どうすれば比較的安全に食えるかって所無頓着よねぇ』
道楽でやっているような商店、店番もあまり必死ではなく、その為盗みもしやすかった場所。
そこを目にした瞬間脳裏に響いた言葉に、カインは思わず息を飲んでいた。
己の手を引きながら、誰かが告げた言葉。
見上げた彼女は、何がおかしいのか、ただ笑うばかりであった。
「誰、だ。お前は――」
力を使う時に、いつも僅かに響いていた声。
黒い刃の奔流の中、奥底に必ずあった白い輝き。
その正体こそがこの白い女であると、カインはそう確信していた。
――けれど、その名が分からない。
『――いい? 人は精一杯生きてこそ、死ぬ事を許されるのよ? ただ安易に死のうだなんて、楽な方に流れてるだけじゃない』
『彼女』は、カインのおぼろげな記憶の中でそう告げる。
道端に倒れていた人間に、癒しの力を与えながら。
死体なんてどこにでも転がっているのに、地獄なんてどこにでもあるのに、ようやく死に抱かれようとしている人間を救いながら。
――理解できずとも、その言葉が強く心に響いた事を覚えている。
『――ほら、髪切ってあげる。結構顔の造作はいいんだから、切ったら多少まともになるでしょう? え? 力が発動したら勝手に伸びるの? ……まあいいわ、その度に切ってあげるから』
自分勝手で、やる事なす事唐突な人間。
少しずつ脳裏で実像を結んでいくその姿は、白い髪の中に碧眼が輝く笑顔の女性。
ここ最近で出会った人間ではない。それは間違いなく、かつての記憶の中にいる存在であった。
けれど、その名前だけが出てこない。どこにでも、『彼女』との記憶は転がっているのに。
『――あはは、どうよ? これでも私、結構強いのよ?』
見目だけは麗しい『彼女』に寄って来た男どもを、ほぼ片腕だけで制圧しながら。
特殊な力を使う『彼女』にとっては、屈強な男とて赤子と変わらずに対応できた。
時にはカインが人質のようになった事もあったが、ちょっとやそっとでは死なないカインは、その役に適しているとはいえなかったのだ。
『――ほら、ちゃんと食べなさい。野菜、パン、肉! 貴方は死にたい死にたい言うけどね、こんな狭い場所しか知らなくてよく言うわってもんなのよ! もっとでかくなって、世界中見て、それでも絶望してたら納得できる死に方で死になさい!』
酒場で呑んだくれながらでも、『彼女』はカインの中に残る言葉を告げていく。
人に手を差し伸べ、けれど安易に利用されない程度には強かで、いつでも笑いながらカインを導いていた『彼女』。
『彼女』の下では己の命を絶つ事すら出来ず、けれど逃げ出せるほどかつてのカインは強くはなく。
ただ無気力に、“死”という救いを求める事すらも否定されて――
『――“死”は安寧。《永劫》の安寧なの。貴方の言うとおり、“死”とは生物にとって最後の救い。でもね、だからこそ……人は、安易にそれに縋る訳には行かないのよ。貴方が“死”を神聖だと思うなら、忘れないで』
――同時に、肯定もされていた。
『彼女』の告げるあらゆる言葉は、今のカインを構成しているもの。
安易な終わりを認められず、ただ最果てを求め続ける“死”の塊の原点。
死神を形作った、死を想う聖女。『彼女』は――
「診療、所……」
――そんな場所で、カインを引き取って暮らしていた。
大した距離を走った訳でもないのに、まるでかつて人間だった頃のように息が上がる。
視線の先、そこにあるのは、廃墟と化しつつも何とか形を保っている診療所。
その中を覗き込み、カインは目を見開いていた。
『――ご、めん……貴方の、事、最後、まで……ちゃんと見てあげられなかった、けど……ひとつ、だけ』
そこにあったのは、机の中心に突き刺さる、一振りの刃。
反りの一切ない直剣。くすみの無い純白をしたそれ。
震える手を伸ばし、カインはそれを手に取って――
『――お願い。死なないで、カイン』
「――ネル」
――『彼女』の名を、呟いていた。




