前編
久々に新しいお話を書きました。
どうぞ宜しくお願いいたします。
フローリアは、木々が涼しい影をつくる森の中を歩いていた。
家庭教師に勉強を教わることも、刺繍やダンスなど淑女の嗜みとしての練習も嫌いではない。
むしろ、好奇心旺盛なフローリアは何事も積極的に取り組んでいた。
三歳になる可愛い弟のアレンも大好きだ。
けれど時々屋敷を抜け出して、こうして木々の香りのする道を散歩すると、フローリアは心から寛いだ気持ちになる。
ほんの時折、姿を見せるリスや野ウサギに挨拶したり、どこかの木の枝で綺麗な声を聞かせている鳥の姿を探すのも楽しみの一つだった。
森の中で咲いていた花は、母親や教師への抜け出したお詫びにする。
「ごめんなさい」と野の花束を差し出すと、相手は「仕方ないわね」と溜息を一つ。
それ以上説教されることも、罰を受けることもなく、フローリアも暫くは大人しく勉強に、淑女教育に、と励むのだ。
軽やかな足取りで、鼻歌を歌いながら道を進んでいたフローリアの足がふと止まった。
少し先の木の根元に、何かがいる。
木の向こう側にいるのでこちらからは見えづらいが、木の根元あたりの景色が不自然で変だ。
フローリアが恐る恐る近づいてみると、それは人だった。
木に寄りかかって坐り、顔を帽子で隠している。
浮浪者のようには見えない、フローリアにも判る良い身なりのその人は、トラウザーズとブーツを履いているから恐らく男性だろう。
ここは伯爵家の裏手の森で、そう簡単には人は入って来られない。
安全な場所だからこそ、フローリアも安心して家から抜け出して散歩をする場所にできるのだ。
実際、今までこの森の中で人に出会ったことはなかった。
どうしてこんなところに人が……?
まさか、死んでる……?
そう思いついてギョッとしたフローリアは、すぐにその人物の胸のあたりがゆっくり動いていることに気がついて安堵する。
———眠っているみたい……?
こんな場違いなところにいる人物になど、関わらない方が良いことは判っているのに、フローリアの好奇心がつい動いてしまう。
腕を組んで寝ているその人と木の幹の間、フローリアが見ているのと反対側に何かが立てかけてある。
彼女はそっと回りこんでそれが何かを確かめた。
大きめの画帖のようだ。
中を開いてみると様々なものが描いてあり、デッサン画のようなものもあるが、色が乗せてある絵もあった。
港や船、海鳥、雪をかぶった山、夕陽が差した街並み、とフローリアは見たことのない風景が続き、ページを繰るにつれてこの森にも咲いている草花や野ウサギと、つい今し方描いたのでは…と思われる風景に変わる。
「可愛い…」
思わずフローリアの口から呟きが漏れた。
それは、木に止まった緑色の小さな鳥の絵で、こちらに向かって僅かに首を傾げているように見える。
以前にも何度か、この森の中で見かけたことのある鳥だった。
綺麗な声で啼くけれど、小さい上に動きが素早くてなかなか見つけられない鳥だ。
じっとしていることのないこの鳥の姿をこうも生き生きと描けるなんて、まだ少女のフローリアにも描き手の技量は相当なものだと想像できた。
「オリワブルという鳥だよ」
不意に声が聞こえてフローリアはびくりと震え、声のした方へ視線を向ける。
目を大きく見開いたまま、フローリアはそのまま固まってしまった。
木の根元で寝ていたはずの人が起きていて、こちらを見て微笑っている。
「ごめんなさい!勝手に……」
好奇心に負けて、全く淑女らしからぬ行いをしたことが判っているだけに、フローリアの頬は羞恥で赤くなった。
面白そうに相手はくすりと笑い、差し出された相手の手にフローリアは画帖を返した。
「いいんだ。でも、この画帖のことは誰にも云わないで」
そう云われて、フローリアはこくこくと頷く。
画帖を受け取った相手は、開いてあるページをじっくり眺め、勢いよくそのページを画帖から破いて剥がした。
「!」
大きな音と、相手の動作に驚いて再び目を見開いたフローリアの前に、破いたページが差し出された。
「あげるよ。黙っていてくれるお礼」
紙を差し出したのと反対の手の人差し指を唇に立て、笑いかけてくる顔がとても端正な顔立ちをしていることに今更気づき、フローリアは赤くなったまま固まった。
「気に入ってくれたんだろう?」
唇に立てた指を外し、相手は僅かに眉を寄せた。
気恥ずかしくなって固まったフローリアを、その人はいきなり絵を差し出されて困惑したとでも思ったのだろうか。
相手の思い違いに感謝して、慌ててフローリアは頷く。
差し出された紙を両手でいただいて、フローリアは絵の中の鳥をもう一度眺めた。
小首を傾げた緑の鳥の黒い瞳はこちらを見つめ、今にも啼きだしそうに見える。
「僕はフランツ。君はひょっとして…」
声の方に目を向けて、フローリアは相手が何か続けるのでは…と、少し待った。
しかし彼はそれ以上は何も云わず、フローリアが何か云うのを待っている様子だった。
家名を名乗らないということは、彼は平民なのかしら———。
フランツという名は、この国の第二王子のミドルネームだ。
貴族の間で、王子の名を子どもに戴くことはない。
だが、ファーストネームは流石に恐れ多いということであり得ないが、平民の間では王子が生まれて名付けられると、そのミドルネームを自分の子どもに戴くことが流行るのだと、フローリアは侍女のネリーから聞いたことがあった。
事実、息子が王太子のベルナルドと同い年で、彼のミドルネームの「モリス」を戴いたと、父の侍従はよく自慢げに話している。
そこまで思いを巡らせて、フローリアは漸くまだ自分が名乗っていないことに気がついた。
「っ…あの、失礼いたしました。わたしはアークシェルズ伯爵の娘でフローリアです」
もらった絵を片手に持ち、フローリアは何とか淑女の礼をして見せた。
様になったかどうかは判らないけれど、教師からは綺麗なカーテシーだと褒められているから大丈夫だろう……たぶん。
彼はフローリアのことを予想していたのだろう。
名前を聞いても驚かなかった。
「僕はあなたの父君に許可をいただいて、この森に入れてもらったんだ」
「そうでしたか…」
不審者ではないと明確にしたかったのか、フランツと名乗った青年は不意に説明の言葉を口にした。
それはフローリアにも判っている。
屋敷の裏のこの森は厳重に管理され、見知らぬ者がおいそれと入ってこられるはずがない。
ただ、この森で人の姿を見ることは滅多にないので、ちょっと驚きはしたけれど———
長めのアッシュブラウンの髪を後ろでまとめ、真っ直ぐにフローリアを見つめてくる瞳の色は濃いブラウン。
フローリアは自分でも何故か判らないまま、視線を逸らして手渡された絵を覗きこんだ。
改めて絵をじっくり見て、フローリアは一つの可能性を思いついた。
「あの…」
「ん?」
「フランツ様は絵描きさんなのですか?」
ひょっとして、父親が何か絵を彼に依頼したのかもしれない、と思ったのだ。
思いついたら、きっとそうだ…という思いが強くなる。
何よりも、この絵が雄弁に彼の絵の才能を語っているではないか。
フローリアの言葉に、一瞬青年は驚いたような表情をした。
けれど、本当にそれも一瞬で、彼は楽しげに微笑んだ。
「それもいいな」
「え?」
「お父上にも何か描いてお渡ししよう」
はぐらかすような答えに、結局彼が画家なのかは判らずじまいだった。
父親のアークシェルズ伯爵は絵画を集めるのが趣味で、若手の画家の育成にも力を入れている。
実際、アークシェルズ邸や領地の美しい風景、それに時々家族の肖像画なども気に入った画家に描かせていた。
と————。
葉擦れの音がするだけの森の中に、遠くから誰かを呼ぶ声がした。
びくり、とフローリアの身体が反応して、声のする方に顔を向けた。
いつも頃合いを見計らって、侍女のネリーがフローリアを呼びに来てくれるのだ。
「もう行かないと…」
顔を声の方に向けたまま、フローリアが呟いた。
この状況を侍女のネリーに知られる訳にはいかない気がして、そそくさとフランツに淑女の礼をとり、声の方へ歩き出そうとしたその時———
「また会える?」
そう声をかけられて、フローリアは思わず振り返った。
また?
きょとんとした表情のフローリアに、フランツはくすりと笑いかける。
「ストルバンに滞在しているんだ。まだ暫くいるから、またここで」
その声のトーンはどこか有無を云わせぬ雰囲気があり、フローリアは思わず頷いていた。
ストルバンはアークシェルズ領で最も栄えている街で、伯爵の屋敷からもほど近い。
フローリアが頷くのを満足げに見て、別れの挨拶のようにフランツは片手を上げた。
淑女教育では、どんな時でも笑顔を絶やさず、例え動揺するようなことがあってもそれを表に出してはいけません、と教師からは繰り返し聞かされている。
けれどこの時、その教えはフローリアには全く役に立たなかった。
近づいてくるネリーの声が気になって、一度フランツを振り返ると、フローリアは駆け出したのだった。
********
十二歳というのは微妙な年齢だ。
子どもと云い切ってしまうよりは大人なものの、もちろん大人ではない。
貴族の子息子女は、十三歳になる年に多くの者が王都にある学院に入学する。
最長五年、学院で学ぶことができるが、三年で卒業していく者もいる。
その大半は貴族令嬢で、ほぼ全ての理由が婚姻だ。
婚約者のいる令嬢たちは義務科目の修得が終わる三年で学院を卒業し、すぐに結婚するか、いわゆる花嫁修行として婚家に通って家政を学ぶのが常だった。
さらに二年学院で学ぶ令嬢もいるものの、卒業後はやはり嫁いでいく者が多い。
弟のアレンが生まれる前までは、フローリアはアークシェルズ伯爵家の一人娘として育ってきた。
フローリアの好奇心旺盛で、少々お転婆な面は、このままいけばいずれ婿をとってアークシェルズ家を継ぐ者として頼もしい、と好意的に評価され、家の者は黙認どころか褒めていたくらいだ。
しかし三年前、事態は一変した。
フローリアが九歳の時、両親が嫡男のアレンを授かったのだ。
フローリアもおぼつかない足取りで後を付いてきて、回らない舌で「お姉さま」と慕ってくる弟を愛おしいと思っている。
ただ状況が変わり始めたのは、弟が生まれて暫くしたころからだということはうっすらと感じていた。
「この家をよろしく頼む」と云っていた両親は、今までのことが嘘のように「淑女らしく、大人しく」と云い始めたのだ。
「もっとお淑やかで控えめな方が、殿方に好かれるものよ」と。
フローリアもだんだんと理解していった。
いずれ自分は、結婚してこの家を出ていかなければいけないのだと。
フローリアと両親の関係は決して悪くない。
むしろ貴族の家にあっては、仲のいい親子関係なのかもしれない。
親としては、娘の行く末を心配しての言葉だったのだろう。
フローリアも両親の言葉に従って、自分の言動を改めようと努力はしたのだ。
けれど九年もの間、自由闊達に育ったフローリアは、急に云いたいことを控えろと云われても何をどのくらい控えたらいいのか判らない。
やがて両親の方が諦めた。
いや、完全に諦めた訳ではないが、嫡男の教育に多分に意識が向き、フローリアにはあまりうるさく云わなくなった。
フローリアは聡明な少女だった。
アークシェルズの家を継がなくて良いのなら、外国へ行ってみたいと漠然と思うようになっていたものの、それは叶わない夢だということも理解していた。
貴族の令嬢は簡単には国の外へは出られない。
そしてお母さまのいうような「お淑やか」な令嬢になれないのなら、きっと結婚もできないかもしれない。
それならばいっそ、どうにか働いて身を立てられないかしら————例えば、高位貴族のお子たちの家庭教師とか———
高位貴族の中には、家業として貿易や海運業に勤しんでいる家もある。
そういった家の家庭教師になれたら、海外へ行く機会を作ることができるかもしれない。
それには学院でしっかり勉強して、良い成績を残さなければならない————
********
フランツという青年と森で会った翌日、フローリアは半信半疑でまた森へと向かった。
彼はああ云っていたけど、まさかいるわけ———
そう思いながら森の道を歩いていると、前回会った場所の近くでスケッチをしてる彼がいた。
「やあ」
フローリアに気がつくと、フランツは以前からの知り合いのように気軽に声をかけてきた。
フランツの砕けた物言いに、フローリアも自然といつもの自分の口調になる。
「本当にいるのね」
「また会おう、と云っただろう?」
「そうだけど…」
そう云いながら、フローリアは描きかけの画帖に視線を落とした。
「うさぎ…?」
「さっき見かけたから。たぶん、親子だ」
よく見えるように、フランツが画帖をフローリアの方へ向けた。
小さなうさぎが蹲るようにしているのを、前にいる少し大きなうさぎが振り返っている様子が描かれていた。
子うさぎのふわふわの毛の様子が実に良く描かれている。
「かわいい…」
フローリアが呟くと、フランツがその横顔に眩しそうな視線を向けた。
彼女はずっと画帖に目を惹きつけられ、それには気が付かなかったけれど。
それからというもの、時折フローリアは森でフランツと会うようになった。
フランツはいつもいる訳ではなく、フローリアの方も毎日抜け出す訳にもいかない。
それでも以前より頻繁に、フローリアは森へ抜け出すようになった。
フランツの絵に惹きつけられた、ということもある。
フローリアが一人で森に来ていたのは、木々の緑や季節の花、森の動物たちに会うと気持ちが安らぐからだった。
それが一緒に新しく咲いた花を見つけ、二人の脇を通り過ぎていくリスやウサギに気がついて微笑み合う相手ができると、森での時間が数段楽しくなる。
ただ木の根元に二人で坐って、他愛もない話をすることもあった。
最初は、貴族の令嬢としてお行儀よく……と思っていたフローリアだったが、フランツは気さくで飾らない青年だった。
やはり彼は平民なのかもしれない、と思いつつ、フランツの態度に肩の力の抜けたフローリアは、貴族令嬢の言葉や態度ではなく、十二歳の少女のそれになっていた。
フランツは父が育てようとしている画家かもしれない、そのうち父か母の肖像画を描きにフランツが現れるのではないかとフローリアは期待したが、彼がアークシェルズ邸に姿を見せることはついになかった。
しかし最初に会った時、フランツは父親の知り合いだと云っていた。
貴族でないとするとやはり彼は平民なのかもしれない。
とはいえ、彼は上品さと育ちの良さを感じさせ、フローリアともきちんとした距離感を持って接していた。
ひょっとすると、彼は裕福な商家の子息か何かなのだろうか。
「あ……オリワブルだわ」
「しいっ。あの鳥は警戒心が強いから、じっとしてて」
フローリアが声をあげると、耳元でフランツが囁いた。
わざとではないと判っていても、フローリアの頬がほんのりと赤く染まる。
そんな彼女を知ってか知らずか、フランツの視線は二人のすぐ近くの木の枝にとまっている草色の小鳥に注がれていた。
首を忙しげに動かして警戒していたオリワブルは、やがて静かに囀りだした。
だんだんと声は大きくなり、美しい声に二人は息を潜めて聴き惚れる。
満足したように鳴きやんだオリワブルは唐突に枝から飛び立ち、もっと高い木の枝へと飛び去っていった。
ほうっ…と息を吐いて余韻に浸っているフローリアの隣で、フランツはさっさと画帖を広げ、先ほどのオリワブルのスケッチを描き出した。
前を見据えて嘴を僅かに開き、喉を膨らませて囀るオリワブルが生き生きと描かれていく。
「すぐにも鳴きだしそう…」
フローリアの呟きに、フランツは目を細めた。
「今日は色のつくものを持ってないんだ。今度、色を乗せたらあげようか」
「いいの?」
「君こそ、オリワブルの絵ばかりでいいのなら」
「もちろん、いいわ。あんなに近くで鳴くのを聞いたのは初めてよ」
「あれはオスだよ」
「え、そうなの?」
「オスが精一杯美しい声で、メスを誘っているんだよ」
「まあ…」
鳥の鳴き声が、恋の話になるとは思っていなかったに違いない。
ほのかに頬を染めたフローリアに、フランツは一瞬目元を緩め、すぐに真顔に戻った。
何ともいい難い雰囲気になったのはほんの瞬間で、フランツはすぐに話題を変えた。
「もうすぐ、僕の休暇が終わる…」
「えっ………」
「少し遠くへ行く用事があるんだ」
言葉を失っているフローリアに、フランツは優しく微笑みかけた。
「君も学院に行く準備があるだろう?」
「それは……」
そうだけれど、と最後まで云えなかった。
唐突に別れが目の前に突きつけられたようで、動揺していたのだ。
二人で話をしていた時に、フローリアはこの秋から学院に通うことをフランツに話していた。
このまま永遠に続くといい……と思っていた時間が終わってしまう———
ぐっと唇を噛んで、フローリアは目の奥が熱くなっていくのを堪えていた。
このままずっと、フランツとこうして会っていることはできないことくらい、彼女にも判っていたけれど———
「明後日、会える?」
眦を下げたフランツが、フローリアに聞いてきた。
濃いブラウンの瞳は、断らないで、といっているように思える。
フローリアが頷くと、「良かった」とフランツが呟くように云った。
*****
フローリアは前の晩、よく眠れなかった。
明日が最後になる気がしていたのだ。
もう二度と会えなくなるかもしれない。
そう思うとフローリアの小さな胸は張り裂けそうになった。
けれど為す術はない。
せめて何か記念になるものを……と考えて、フローリアはこの日のために大急ぎでハンカチに刺繍を刺した。
あの小鳥の姿を緑色の糸で。
絵のお礼に。
それに、何か自分が作ったものを貰って欲しかったのだ。
フローリアが息を切らして森へ急ぐと、フランツはゆったりと二人が初めて会った木の根元に坐り、頭上の枝をうろちょろと走り回っているリスを見上げていた。
葉を踏み締めて近づく足音に気がついて、フランツが振り返る。
彼女が近づいてくるのを見て、彼も立ち上がった。
どんな言葉をかければいいのか判らず、フローリアはフランツと視線を合わせることができなかった。
俯き加減に立ち尽くすフローリアの耳に、葉や草を踏みしめて近づいてくる足音が聞こえた。
「学院に行く準備は進んでる?」
顔を上げられないままのフローリアの頭上から声が降ってくる。
彼女はそのまま一つ頷いた。
「学院には素晴らしい先生方がいるから、きっとためになる学びができるよ」
「ええ………」
ほんの少し顔が上向きかけたものの、目線だけは下げたまま、フローリアの口からは曖昧な返事が漏れた。
フランツの、まるで学院をよく知っているような口ぶりは、フローリアには意外だった。
学院に行くのは貴族の子息子女が大半で、平民の学生はほとんどいないはずだ。
でもそういえば———と彼女は思い出す。
稀に、ごく優秀な平民が特待生として学院に通うことがあると、以前にどこかのお茶会でそう聞いたことがあったのだ。
フランツがそうなのだろうか……。
そちらに思考が傾きそうになるのを、フランツの言葉で現実に引き戻される。
「顔が見られて良かった」
ほっとしたようにフランツがいい、彼の長い指がフローリアの頬にそっと触れた。
今まではきちんと保たれていたフランツとの距離が、今日は思いのほか近い。
恥ずかしさが込み上げ、けれど身じろぎもできないまま、フローリアは視線をさらに下に向ける。
「さよならは云わない。また会うつもりだから」
フランツのその言葉に思わずフローリアが顔を上げる。
と………。
「ようやくこっちを見たね」
眦を下げてフローリアを見つめる濃いブラウンの瞳は、彼女の瞳と視線が合うと嬉しそうに細められた。
一度目を合わせてしまうと、今度は逸らすことができない。
どれくらいそうしていただろうか———
フローリアの頬に添えられていた手が不意に離された。
絡まっていた視線が逸らされ、フランツは下ろした手をぎゅっと握る。
頬にあった熱が急に冷めた気がして、フローリアは小さく身震いをした。
「じゃあ、元気で」
踵を返して去ろうとするフランツに、フローリアは漸く声をかけた。
「待って」
振り返ったフランツに、フローリアはおずおずと刺繍を刺したハンカチを差し出した。
「これを……」
それだけを口にするのがやっとだった。
差し出されたハンカチを手にしたフランツは、刺繍に気がついてその跡を指でなぞる。
「僕に…?」
眦は下がったままなものの嬉しそうな彼の様子に勇気を得て、フローリアは大きく頷いた。
渡したいと思ったものの、いざとなるとこんな些細なものを貰ってくれるか不安になって切り出せずにいたのだ。
「オリワブルだね」
「絵をいただいたので…」
「あれは、絵を描いていることを内緒にしてもらう駄賃だよ」
「それでもです……」
フローリアは懸命に笑おうとしていた。
これで会えなくなるかもしれないのだから、笑顔を覚えていて欲しいと思ったのだ。
不意に、シャラリと金属的な音がした。
今まで気が付かなかったけれど、フランツが洋服の下につけていた鎖をはずしたのだ。
手の中でひとまとめにした鎖を、フランツはフローリアの手を取り、その中へ押し込んだ。
「持っていて」
フローリアの耳元で囁くようにそういうと、今度こそ踵を返してフランツは去って行った。
フランツの姿が小道を曲がり消えてしまうと、ハッとフローリアは手の中の重さに気がついた。
彼が手に押し込んだ鎖に視線を向ける。
金の鎖の先には、ブルーグレーの楕円の美しい石が嵌め込まれていた。
この綺麗な石は……ひょっとして宝石———?
そうでないとしても、ずっしりとした重みは恐らく本物の金鎖———
鎖の作りも繊細で、きっと価値のあるものに違いない。
フローリアは、手の中の金の鎖をぎゅっと握り締めた。
「大切にします……」
フランツはああ云ったけれど、きっともう二度と会えないに違いない。
屋敷に戻りながら、フローリアの目には涙が浮かんでいた。
困ったことにそれはどんどん酷くなり、何とか人目につかないように自分の部屋に辿り着くと、涙は溢れて止まらなくなった。
そのまま暫く部屋から出てこない娘を心配する両親をよそに、彼女は頑として理由を云わないまま三日間泣き続けた。
あれが初恋だったとフローリアが気がついたのは、それから何年か経ってからのことだ。
お読みくださり、有難うございました。




