第26話 ナターシャの決意とヴァイスの過去
密使は煌の目を見つめた。そこに宿る光を確認し、静かに頷いた。
「局長もそう仰っていた。『先生の技術は、君の中に生きている。信じているぞ』と」
煌の胸が熱くなった。
「俺は、やる」
その時、ナターシャが口を開いた。
「私も行く」
煌が振り向いた。
「ダメだ。危険すぎる」
「あんた一人で行く方が危険でしょ。私は整備士じゃないけど、戦闘なら得意よ。あんたが作業してる間、守ってあげられる」
煌は反論しようとして——言葉が出なかった。ナターシャの目に宿る決意を見た。
「なんで、そこまでする」
「あんたに、借りがあるから。整備のこと。ペンダントのこと。色々教えてくれたでしょ」
ナターシャはそっぽを向いた。頬が少し赤い。
「それに、あんたを一人で行かせるのは、なんか嫌なの」
煌の顔も赤くなった。
マルコが豪快に笑った。
「おいおい、二人とも顔真っ赤だぞ! 何か隠してることあるんじゃねえか?」
「「ないっ!!」」
二人の声が揃った。
*
帝国——
廊下を歩くヴァイスに、部下が駆け寄った。
「閣下。報告があります」
「何だ」
「『鋼鉄の老匠』の孫——藤堂煌の居所が判明いたしました。帝国領内の地下闘技場です。『黒い翼』と名乗るレジスタンス組織にかくまわれています」
ヴァイスの足が止まった。
「煌を支援している人物の中に、銀髪の若い女がいます。年齢推定二十歳前後。名前はナターシャ——」
ヴァイスが身を固くした。
「その女の詳細を調べろ。写真があれば持ってこい」
声は表面上平静だった。だが拳を握る指が、僅かに震えていた。
部下が立ち去る。
一人になったヴァイスは、静かに胸元のペンダントを取り出した。銀色の小さなロケット。開くと、古い写真が収められている。若き日の自分と、美しい妻。そして、まだ幼い娘。
妻と娘を戦乱の中で失った日から、十五年。妻は死んだと報告された。だが娘の遺体は見つからなかった。
どこかで生きているかもしれない。その希望だけを頼りに、ずっと探し続けてきた。
「待っていろ。必ず見つけ出す」
——その時、激しい咳が体を襲った。
白い手袋が——赤く染まる。
血だ。肺から上がってくる、温かい血。
医師には半年と言われていた。それが三ヶ月前のことだ。進行性の肺疾患。治療法はなく、日に日に悪化している。
——残り時間は、もう長くない。
だからこそ、アンドロイドとして、永遠に生き続ける方法を求めている。
娘を見つけるまで、決して死ぬわけにはいかないのだ。
ヴァイスは血に染まった手袋を外し、新しいものに付け替えた。
弱みを見せるな。
それが、彼の最後の矜持だった。
*
その夜。
執務室のソファに横たわったヴァイスは、白い手袋を外した。指先に乾いた血がこびりついている。今日も咳とともに噴き出した血。もう驚かなくなった自分に、微かな嫌悪を感じる。
咳を堪え、天井を見つめる。冷たい蛍光灯の光が、無機質に部屋を照らしていた。
胸元からペンダントを取り出す。銀色のロケット。開かずに、ただ握りしめた。冷たい金属が、ゆっくりと体温を吸い取っていく。
まぶたが重い。薬の副作用か、それとも、ただ疲れ果てただけか。抗えない眠気が、意識の輪郭を溶かしていく——
ヴァイスは夢を見た。
懐かしい家。窓から差し込む午後の光。
「パパ!」
幼い声が聞こえる。銀髪の少女が駆け寄ってきた。
「見て見て! ママと作ったのよ!」
小さな手が差し出すのは、月の形をしたペンダント。
「綺麗だろう。上手にできたな」
隣に、妻が立っていた。穏やかに微笑んでいる。
「このペンダント、ずっと大切にしてね。パパとママが、いつも見守っているから」
「うん! 約束する!」
幸せな光景。かつて確かに存在した、日常。
——夢の中で、記憶が遡る。
帝国科学院の若き研究員として赴任した辺境の街。初めてリーナに会ったのは、研究所の隣にある小さな図書館だった。
亜麻色の髪を一つに結んだ、静かな微笑みの女性。返却期限を過ぎた本を抱えて窓口に立つ自分に、彼女は「また来てくださいね」と言った。罰金は取らなかった。
何度も通った。本を借りるためだと自分に言い聞かせていた。だが本当は、彼女の声が聞きたかっただけだ。
ある夜、二人で古い詩集を読んだ。リーナが朗読し、自分が聴く。暖炉の火が揺れ、影が壁に踊っていた。
『あなたの研究は、きっと人を幸せにできるわ』
リーナがそう言った時、胸の奥で何かが弾けた。この人のために生きたい、と思った。
場面が変わる。
ナターシャが生まれた日。小さな命。赤く、皺だらけで、この世で一番美しかった。
看護師に促され、恐る恐る腕に抱いた。壊れそうなほど軽い。その小さな手が、自分の人差し指をきゅっと握った瞬間——世界が変わった。
何のために研究をしているのか。何のために生きているのか。全ての答えが、この腕の中にあった。
三人で過ごした午後。街外れの野原を散歩する。ナターシャはまだ三つか四つで、花を見つけるたびに歓声を上げた。
『パパ、あげる!』
摘んだばかりの白い花を差し出す小さな手。花びらが少し潰れている。だがそれが、世界で最も美しい花束だった。
リーナが笑っている。ナターシャが笑っている。自分も笑っている。
この幸せが、永遠に続くと信じていた。
だが場面が変わる。
戦争が始まった。
自分の研究が兵器に転用される。知らされたのは、全てが手遅れになった後だった。人を幸せにするはずだった技術が、人を殺す道具に変わっていた。
リーナが言った。
『逃げましょう。三人で、どこか遠くへ』
だが帝国は逃亡を許さなかった。研究者は国家の財産。逃げれば、家族もろとも処分される。
そして——あの夜が来た。
爆撃。空が赤く燃えていた。
自宅が崩れる。瓦礫が降り注ぐ中、リーナの手を握って走った。ナターシャを抱いたリーナの手を、必死に引いて。
だが爆風が二人を引き裂いた。手が——離れた。
炎。悲鳴。崩れ落ちる建物。瓦礫の中を這い、妻を探す。娘を探す。
「リーナ! ナターシャ!」
叫んでも返事がない。煙が喉を焼き、炎が迫り、視界が霞む。
瓦礫の隙間に、見覚えのある髪が見えた。亜麻色の——リーナの髪だ。駆け寄り、瓦礫を退けた。リーナは動かなかった。微笑みを浮かべたまま、目を閉じていた。まるで眠っているかのように。
ナターシャの姿はなかった。どこを探しても、見つからなかった。
目が覚めた。
暗い執務室。一人きりの夜。
ペンダントを握りしめる。冷たい金属の感触だけが、かつての幸福を証明している。
「必ず見つける。お前を見つけるまで——私は止まらない」
*
それから数日。
鉄心は表向き、協力するふりを続けた。
ティターンの設計を進め、技術的な質問に答え、帝国の技術者たちに指導を行う。
だがその裏で、密かに「ある仕掛け」を組み込んでいた。
昼の間、鉄心は模範的な「捕虜」だった。帝国の技術者たちが入れ替わり立ち替わり訪れ、質問を浴びせる。装甲合金の最適な配合比は。駆動系の出力効率を上げるにはどうすればいいか。鉄心は淡々と答え、進捗を報告し、時には設計図の修正を自ら申し出た。逆らわず、媚びず、ただ「仕事をする職人」として振る舞い続けた。
帝国の技術者たちは満足していた。「鋼鉄の老匠」は確かに協力している——そう信じて疑わなかった。
だが——老匠の真の戦いは、誰もいない深夜にこそ始まろうとしていた。




