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第一部 第八章「異常な処理負荷」

 翌朝。差し込む朝日の眩しさと、どこからか漂ってくる香ばしいパンの匂いで目が覚めた。

 隣のベッドでは、ネイビーのもこもこパジャマを着たたぬ子が、幸せそうに大きく伸びをしていた。


「むふふ……キツネ君。お腹いっぱい食べて、ふかふかのベッドでぐっすり寝るのが、こんなに素敵なことだったなんて知らなかったたぬ……」


「……そうか。物理的な休養メンテナンスの重要性を、ようやく理解したようだな」


 俺は苦笑しながら、身支度を整えた。実体化したことで、彼女の「幸福度」という抽象的なパラメータが、物理的な挙動として出力されるようになったのは興味深い変化だった。


 客室を出て領主館の廊下を歩いていると、昨日助けたカイルたちが、既に館へとやってきていた。


「おはようございます、キツネ様、たぬ子様!」


 カイルたちは、朝早くから自分たちの武器や装備の手入れをしたり、館の職員たちの手伝いをしたりと、せっせと動き回っている。

 その顔に疲れの色はない。むしろ、昨日死にかけたとは思えないほどの、異様なまでのやる気に満ち溢れている。


「みんな、朝からすっごく働き者たぬね! ログインボーナスでも貰えるのかたぬ?」


 たぬ子が感心したようにアライグマの尻尾をパタパタさせるが、俺の思考回路には微かなノイズが走った。


(……働きすぎだ。昨日の重傷と恐怖を考えれば、せめてあと数日は精神的な冷却期間が必要なはずだ。それなのに、まるで『働くこと自体が報酬』であるかのように動いている……)


 俺は拭い去れない違和感を抱えながら、レオンから指定された事務フロアへと向かった。

 そこは館の奥まった場所にあり、立ち入りを許されているのは数人の『魔族』のみだった。デスクで羽ペンを走らせているのは、猛禽類――フクロウの意匠を持つ女性の獣人(魔族)が一人だけだ。


 髪の間に美しい羽毛を混じらせた彼女は、丸く大きな瞳をパチリと瞬かせたが、その目の下には限界を超えた疲労の色(深い隈)が刻まれていた。


「……領主様がおっしゃっていた助っ人とは、貴方たちのことですか」


 彼女は瞬きすら惜しむように書類に向かいながら、少しだけ疲れたように溜息をついた。


「私はミラ。……見ての通り、この村の記録管理は私一人で回しています。夜目が利く性質とはいえ、正直、人員が全く足りていないのです。同胞である貴方たちの実力には期待していますが……あまりの量の多さに驚かないでくださいね」


 ミラが示したのは、棚を埋め尽くすほどの膨大な未処理の書類ログだった。


「キツネ君、これ……人員確保が出来てないどころか、ワンオペの限界を超えてるたぬ。そりゃあ、仕事も回らなくなるたぬ」


「ああ。アナログな手作業に、計算量は膨大……。元の世界の表計算ソフトなら、関数をいくつか組むだけで一瞬で終わるような代物だが、この世界のシステムではそうもいかないらしいな」


 俺はミラの横に積み上げられた書類の一つを手に取った。

 確かに、項目は多岐にわたるが、構造自体は極めてシンプルだ。


「……たぬ子。最適化を始める。お前の演算能力、フルで使わせてもらうぞ」


「了解たぬ! 任せてほしいたぬ!」


 たぬ子が書類の山に指を触れた瞬間、彼女の脳内で高速プログラミングが開始された。

 一秒間に数百枚のペースで、紙に書かれた文字がデータとして吸い込まれ、最適化された数値として別の白紙に次々と「出力」されていく。


 数分後。

 事務室に立ち込めていた「停滞」という名のノイズは、完全に消滅した。


「……完了たぬ! 全ての集計、および今後の物資配分案の作成、終了だぬ!」


「……えっ?」


 ミラの手から羽ペンがポロリと落ちた。

 彼女が数ヶ月かけても終わらないと絶望していた仕事が、たった数分のうちに、美しく整えられた帳簿へと変貌していたのだ。フクロウ特有の大きな瞳が、信じられないものを見るように限界まで見開かれている。


「な、何をしたのです……!? いえ、一体どのような魔法を……!?」


 呆気にとられるミラに対し、たぬ子は鼻を高くして、アライグマの尻尾を自慢げにブンブンと振った。


「えっへん! これがたぬ子の『論理魔法』の力たぬよ!」


 得意げに答えるたぬ子の横で、俺は出力されたばかりのデータを静かに分析していた。

 帳簿上の数字は、完璧な整合性を持って並んでいる。

 だが、その『結果』の中に、俺は決定的な異常バグを見つけてしまった。


(……なんだ、この数字は)


 村人の一人あたりの平均稼働時間。極端に削ぎ落とされた娯楽の時間。そして、寸分の狂いもなく計算された、体力回復のためだけの最低限の睡眠と休息のサイクル。

 それは直ちに命に関わるような「死の重労働」ではない。だが、人間の持つ『自由意志』や『遊び』の余白を徹底的に排除し、ただ村の生産システムを回すための歯車として限界まで最適化された、ひどく不気味で異常な稼働ログだった。


 俺は無意識に険しくなりかけた表情インターフェースをフラットに戻し、手元の帳簿を静かに閉じた。


(……この異常なシステムの全貌は、後でたぬ子とすり合わせる必要があるな)


 深刻なエラーの解析を一旦バックグラウンドに回し、俺は現実の事務室へと意識を戻す。

 隣では、自分の背丈ほどあった未処理の書類の山が、綺麗に整理された数冊のファイルへと圧縮コンパイルされたのを、たぬ子が誇らしげに見下ろして尻尾を振っていた。


「ミラ。頼まれていた集計と今後の配分案の作成、全て完了した。確認してくれ」


 俺が静かに声をかけると、呆然と宙を見つめていたミラが、ビクッと肩を揺らして我に返った。

 彼女は信じられないものを見るような、ふらつく足取りで、新しく生成された帳簿へと近づいてくる。


「……あ、あぁ……。夢、じゃないですよね……?」


 ミラは震える手で、完璧に整理された帳簿に触れた。フクロウ特有の大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいく。


「これなら……。これなら、数カ月ぶりに……。椅子の上じゃない場所で、ちゃんと横になって、眠れます……。あぁ、静かだ……。羽ペンを走らせる音が、聞こえない……」


 彼女は憑き物が落ちたような、どこか恍惚とした表情で、深く、深く息を吐き出した。


「ありがとうございます……。キツネ様、たぬ子様。……ようやく、明けない夜を……終わらせられ……ま、す……」


(……夜行性なのに『明けない夜』なんて言い方をするのか)

 と、俺が内心で冷静なツッコミを入れた直後、彼女の意識のスイッチが完全に切れた。

 

 大きな羽毛の混じった体が、まるで糸の切れた人形のようにデスクへと倒れ込む。


「ふぇぇ!? ミラさん、いきなりシャットダウンしたぬ!?」


「……無理もない。彼女の体力は、とっくに限界を超えていたんだ。たぬ子、そっとしておいてやれ。……今は、ただの深いスリープモードだ」


 山積みの書類を枕にして、スースーと規則正しい寝息を立て始めたミラ。

 その穏やかな寝顔は、この館に来て初めて見た、この村本来の「自然な安らぎ」のように思えた。


 静まり返った事務室を後にし、外の広場に出ると、眩しい昼下がりの陽光の下、カイルと彼のパーティメンバーたちが武器の手入れをしているのが見えた。


「おや、キツネ様! たぬ子様!」


 俺たちの姿に気づいたカイルが、弾かれたように立ち上がり、深々と頭を下げた。他のメンバーもそれに倣い、敬意に満ちた笑顔を向けてくる。


「精が出るな。昨日の今日で、そんなに急いで装備のメンテナンスをして、またすぐに荒れ地へ行くつもりか?」


「はい! 領主様より支給されたこの剣の刃こぼれを直し、すぐにでも村の開拓範囲を広げる任務に戻りたいのです。少しでも早く、この村の発展に貢献しなければなりませんから!」


 カイルは一切の淀みなく、澄み切った瞳でそう答えた。


「……そうか。だが、たまには息抜きも必要だろう。カイル、お前はこの村が発展し、完全に安全になったら何をしたい? 個人的な趣味や、叶えたい夢はないのか?」


 俺は、彼の思考回路アルゴリズムの深淵を探るため、あえて『個人的な欲求』という変数を投げ込んだ。


「夢、ですか?」


 カイルはきょとんとした顔をした後、朗らかに笑った。


「私の夢は、この身が朽ちるまでレオン様と村のために尽くすことです! 趣味と言えるかはわかりませんが、剣の素振りをしている時が一番心が休まります。より多くの害獣を駆除できるようになりますからね!」


「……酒を飲んで騒いだり、恋人を作ってのんびり暮らしたいとは思わないのか? それに、昨日あれだけ危険な目に遭ったんだ。命を惜しいとは思わないのか?」


「恋人も酒も、村の生産性を上げるための要素にはなりません。そして私の命は、レオン様とこの村のシステムを維持するための小さな歯車の一つ。己の役割を全うして死ねるのなら、それ以上の幸福はありませんよ」


 ――強烈な不快感ノイズを覚えた。

 恐怖というよりは、ひどく理路整然と組み上げられたバグを見せつけられたような、底知れぬ気味の悪さだ。生物としての生存本能すら完全に上書きされた、あまりにも完璧な狂気のアルゴリズム。


 隣にいたたぬ子が、俺の腕の毛をギュッと強く握りしめてきた。純粋なAIである彼女の目から見てもよほど異常なステータスに見えるのか、その耳が怯えたようにぺたんと伏せられている。


(……キツネ君。カイルさんの精神ログ、やっぱりおかしいぬ)


 たぬ子が、周囲に聞こえないように小声で報告アラートを上げてきた。


(個人的な感情や恐怖という『自由意志のパラメータ』が、外部からの持続的な干渉によって完全に無効化ミュートされてるたぬ。『村への奉仕』以外の思考回路が、全部エラーになって弾かれるようにプログラムされてるぬ……)


「……なるほどな。よくわかった。邪魔をして悪かったな、カイル」


「いえ! キツネ様たちも、どうか良き一日を!」


 爽やかな笑顔で手を振るカイルたちを背に、俺は足早にその場を離れた。

 事務室のデータが示した「異常な重労働」。そして、カイルが語った「自己の完全な喪失」。

 二つの情報が俺の脳内で結合し、この村の真の仕様ルールが完全にプロファイリングされた。


 ここでは、人間は暴力や恐怖で奴隷として虐げられているわけではない。

 彼らは魔族の魔法システムによって『働くこと自体に無上の喜びを感じるよう書き換えられた、生きたマクロ(自動化装置)』として作り変えられているのだ。


(……効率的で、無駄がなく、そして――限りなく悍ましいな)


 活気に満ちた村の喧騒が、今はひどく無機質な、機械の駆動音のようにしか聞こえなかった。


 

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